年譜Biography

■小杉放菴の略年譜
西暦(元号) 満年齢 出来事
1881(明治14)年 0歳 12月29日、二荒山神社の神官であった小杉富三郎と妻・タエとの末子として、日光の山内で生まれる。本名は国太郎。

※生年月日について
当館で1881(明治14)年12月29日を小杉放菴の生年月日としているのは、旧日光町の小杉家戸籍謄本を根拠としている。
一方で戦後の文献には、放菴の生年月日を〈12月30日〉とするものがあるが、これは、木村重夫氏の『小杉放菴』(造形社, 1960年)で誤って書かれたことに起因していると考えられる。
放菴の長男である小杉一雄氏も、放菴は戸籍で12月30日生まれになっていると記されたことがあるが*1、寺内恒夫氏による1969年の戸籍謄本調査によって、正確には12月29日であったことが指摘されている*2。竹山博彦氏が編まれた「小杉放菴略年譜」(『小杉放菴展』栃木県立美術館, 1978)でも生年月日は〈12月29日〉を踏襲している。
その後、当館により旧日光町の戸籍謄本が調査され、記載された生年月日は〈12月29日〉で間違いないことが改めて確認された。

ただし放菴生前の刊行物では、その生年月日は〈1881(明治14)年9月生まれ〉とされることが多かった*3。
当館が確認した限りでは、1899(明治32)年10月に提出された不同舎への入学願に、小杉の自筆で〈明治十四年十二月生〉と書かれており、この時点では、放菴は自身を12月生まれだと認識していたことがわかる。
ところがその後、1911(明治44)年4月28日付で刊行された『日本美術年鑑』の「日本美術家人名」では〈9月28日生まれ〉と記載される*5。
これは放菴が、母親から〈新旧暦不明だが、9月28日生れ〉と聞かされたためと考えられる*4。
放菴の姉もまた〈たしかその年の九月と思う予定よりゆっくり生まれた〉という覚え書を残しているという*6。
以上を勘案すると、放菴は9月に生まれ、出生届が遅れて戸籍上12月生まれになった可能性も考えられるが、これを補強する新資料が現れるまでは、戸籍謄本に記載された〈1881(明治14)年12月29日〉を公式な生年月日としたい。

*1 小杉一雄編「年譜」『放庵―人と芸術―』(小杉放庵『奥の細道画冊』別冊, 春陽堂書店, 1972)p.27
*2 寺内恒夫「小杉放庵略伝」『栃木史論』3号(1969.12)によれば、寺内氏が確認したのは栃木県上都賀郡中粕尾村戸籍簿。
*3 例えば、「二等受賞者略歴」『美術新報』12巻1号(1912.11)p.56
*4 木村重夫『小杉放菴』(造型社, 1960年)p.4,107
*5 註2 p.33によれば、栃木県尋常師範学校附属小学校の学籍簿には〈九月三日〉生まれと記載されているという。
*6 註1に同じ
1884(明治17)年 3歳 国府浜酋太郎の養子となる(正式な入籍は1886年5月)。
1887(明治20)年 6歳 2月、実父・小杉富三郎が二荒山神社を辞し、年内に日光御料監守長となる。
1892(明治25)年 11歳 6月、五百城文哉が大作制作のために日光を訪れ、そのまま永住する。
1893(明治26)年 12歳 6月、小杉富三郎が日光町の2代目町長となる(~1897年2月まで)。
この頃、富三郎に連れられ、五百城文哉と出会う。以後、五百城のもとに通いながら洋画を学ぶ。
1896(明治29)年 15歳 3月、栃木県尋常中学校を退学する。
5月、五百城文哉の内弟子になる(~1898年まで)。
1897(明治30)年 16歳 秋、日光に来た吉田博から刺激を受ける。
1898(明治31)年 17歳 8月、《昔語り》下絵制作のため、五百城文哉の紹介で興雲律院に滞在していた黒田清輝を知る。
この頃、五百城文哉に無断で上京する。
1899(明治32)年 18歳 この頃、白馬会の研究所に通うが、2日行っただけで止める。
秋、一度帰郷して五百城に謝罪し、再上京する。
10月、小山正太郎が主宰する画塾・不同舎に入る。同期に青木繁や荻原守衛らがいた。その後22歳頃まで東京と日光を往復し、日光で売った水彩画の代金で画材を買う生活を送る。
1901(明治34)年 20歳 5月、国府浜家から離籍し、小杉家に復籍する。
この頃から未醒と号する。
1902(明治35)年 21歳 太平洋画会の会員となる。翌年の第2回展から出品。
1903(明治36)年 22歳 小山正太郎の推薦で近事画報社に入る。
田岡嶺雲らの紹介で小川芋銭を識り、親交を結ぶ。
1904(明治37)年 23歳 1月、近事画報社の特派員として朝鮮に派遣される。
2月から始まった日露戦争の様子を通信する。
9月、帰国。東京にいた姉弟と田端で暮らし始める。
11月、『陣中詩篇』を刊行する。
1905(明治38)年 24歳 9月、石井柏亭、川上邦基らと美術文芸雑誌『平旦』を創刊する。
この頃、『近事画報』『新古文林』などの雑誌で、漫画家としても頭角を現わす。
1906(明治39)年 25歳 6月、五百城文哉が日光の自宅で逝去。
6月、国木田独歩の仲人で、日光町七里の相良楳吉の長女・ハルと結納を取り交わす(婚姻届の提出は1908年1月)。
1907(明治40)年 26歳 1月、『漫画一年』を刊行する。
5月、美術雑誌『方寸』が創刊され、寄稿する(1908年から同人となる)。
1908(明治41)年 27歳 6月4日、長男の一雄が誕生する。国木田独歩が名付け親となった。23日、独歩が逝去する。
1909(明治42)年 28歳 押川春浪ら武俠社の人々と交遊する。天狗倶楽部を結成し、スポーツ試合を楽しむ。
1910(明治43)年 29歳 1月10日、長女の百合が誕生する。
10月、第4回文展に油彩画《杣》を出品、三等賞を受賞する。
1911(明治44)年 30歳 10月、第5回文展に油彩画《水郷》を出品し、最高賞であった二等賞を受賞する。
1912(明治45)年 31歳 5月、第12回无声会展に参加。日本画や焼絵の作品を出品する。
1913(大正2)年 32歳 フランスを中心に、ヨーロッパ各地を遊学する。
1914(大正3)年 33歳 3月、満谷国四郎、柚木久太と滞欧作品展を開く。
7月、村山槐多がしばらく小杉家に居候する。  
9月、再興された日本美術院に同人として参加し、洋画部を担当する。
10月、文展から独立した二科会に審査員として参加する。
1915(大正4)年 34歳 3月25日、次男の二郎が誕生する。
1916(大正5)年 35歳 2月、初めて沖縄を旅行する。
1917(大正6)年 36歳 春、初めて中国を旅行する。
10月、個展を髙島屋大阪心斎橋店で開催する。
1918(大正7)年 37歳 田端の文化人たちとの親睦会「交換晩酌会」が始まり、芥川龍之介らと交友する(1922年から道閑会となる)。
1920(大正9)年 39歳 9月、再興第7回院展の開催中、足立源一郎、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎ら、洋画部同人全員で脱退する。
1922(大正11)年 41歳 1月、日本美術院脱退メンバーを中心に、春陽会を創立。リーダー格として晩年まで同会を牽引する。
この頃、福井県の紙漉き師・岩野平三郎と親交が始まる。
1923(大正12)年 42歳 倉田白羊の雅号「放居士」から“放”の字をもらい、放庵と号す。
1925(大正14)年 44歳 東京大学安田講堂の壁画を描く。
1926(大正15)年 45歳 4月、室内社の西田武雄ら発起による、燕巣会の結成に参加する。
5月、第1回聖徳太子奉讃美術展に出品する。
1927(昭和2)年 46歳 この頃、放庵の提唱により、漢学者の公田連太郎を中心とする漢籍勉強会「老荘会」が発足し、荘子や詩経などが講じられる。
4月27日、三男・三郎が誕生する。
10月、芭蕉の足跡を慕い、岸浪百艸居と東北・北陸を旅行する。
1928(昭和3)年 47歳 1月、富山県八尾町を旅行する。川崎順二の依頼により越中おわら節の新歌詞として「八尾四季」を作詞。これに振付がつけられ、「四季踊り」が完成する。
1929(昭和4)年 48歳 4月、小堀鞆音、荒井寛方らと栃木県出身の日本画家有志による華厳社を組織する。
この年、明治神宮外苑聖徳記念絵画館の壁画《帝国議会開院式臨御》を制作する。
この頃、岩野平三郎製の「放菴紙」を使い始める。
1932(昭和7)年 51歳 1月、新潟県妙高高原の赤倉温泉に別荘が完成し、安明荘と名づける。
2月、第1回六潮会展に招待出品する。
11月、個展を三越本店で開催する。以後、同店でたびたび個展を開く。
1933(昭和8)年 52歳 摠見寺(滋賀県)のために襖絵の制作を始める。1944(昭和19)年までに5点の襖絵を納める。
12月、初めての歌集『放菴歌集』を刊行する。この頃、放庵を放菴と署するようになる。
1935(昭和10)年 54歳 5月、帝国美術院の改組(松田改組)が行なわれ、帝国美術院会員となる。
10月、京城で個展を開催する。
1937(昭和12)年 56歳 2月、小川芋銭、矢野橋村らと、墨人会倶楽部を結成する。  
6月、帝国美術院が帝国芸術院へ改組、会員となる。
1938(昭和13)年 57歳 11月6日、三男の三郎が逝去する。
1939(昭和14)年 58歳 4月、ニューヨーク万国博覧会に油彩画《僧》を出品する。
6月、第5回珊々会展に出品。以後、同会に参加。
1940(昭和15)年 59歳 4月、華中鉄道株式会社の招聘により、石井鶴三・田中青坪と共に、日中戦争の戦跡を取材する。
12月、石井柏亭、木村荘八、藤田嗣治らと、日本画を描く洋画家の団体・邦画一如会を結成する。
1941(昭和16)年 60歳 7月、第2回聖戦美術展に審査員として戦線スケッチを出品する。
1942(昭和17)年 61歳 10月、帝国芸術院会員絵画展に出品する。
1944(昭和19)年 63歳 2月、戦艦献納帝国芸術院会員美術展に《金太郎遊行》を出品する。  
10月、軍事援護美術展(日本美術報国会主催)に《山翁奉仕》を出品。のち日光小学校に寄贈する。
1945(昭和20)年 64歳 3月、安明荘に疎開。以後、この地で生活する。
1948(昭和23)年 67歳 11月、個展を日本橋髙島屋で開催する。
1951(昭和26)年 70歳 1月、「小杉放菴 書展」を大阪なんば髙島屋美術部画廊で開催する。
1956(昭和31)年 75歳 5月、青森県を旅行、桃川酒造を訪ねる。商標「桃川」の揮毫を頼まれ、翌年書きあげる。
1958(昭和33)年 77歳 10月、日光市名誉市民となる。
11月、日本芸術院会員を辞任する。
1960(昭和35)年 79歳 4月、画業60年展が、朝日新聞社の主催により日本橋髙島屋で開催される。
1964(昭和39)年 82歳 1月、「平櫛田中・熊谷守一・小杉放菴 三合会展」を大阪なんば髙島屋美術部画廊で開催する。
4月16日、82歳で逝去。法名は「放菴居士」。墓所は日光市所野の鳴沢左岸。
小杉放菴

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