年譜Biography

■小杉放菴の略年譜
西暦(元号) 満年齢 出来事
1881(明治14)年 0歳 12月29日、二荒山神社の神官であった小杉富三郎と妻・タエとの7人兄弟の4男として、日光の山内で生まれる。本名は国太郎。

※生年月日について
当館で1881(明治14)年12月29日を小杉放菴の生年月日としているのは、旧日光町の小杉家戸籍謄本を根拠としている。
一方で戦後の文献には、放菴の生年月日を〈12月30日〉とするものがあるが、これは、木村重夫氏の『小杉放菴』(造形社, 1960年)で誤って書かれたことに起因していると考えられる。
放菴の長男である小杉一雄氏も、放菴は戸籍で12月30日生まれになっていると記されたことがあるが*1、寺内恒夫氏による戸籍謄本調査によって、正確には12月29日であったことが指摘されている*2。竹山博彦氏が編まれた「小杉放菴略年譜」(『小杉放菴展』栃木県立美術館, 1978)でも生年月日は〈12月29日〉を踏襲している。
その後、当館により旧日光町の戸籍謄本が調査され、記載された生年月日は〈12月29日〉で間違いないことが改めて確認された。

ただし放菴生前の刊行物では、その生年月日は〈1881(明治14)年9月生まれ〉とされることが多かった*3。
当館が確認した限りでは、1899(明治32)年10月に提出された不同舎への入学願に、小杉の自筆で〈明治十四年十二月生〉と書かれており、この時点で放菴は自身を12月生まれだと認識していたことがわかる。
ところがその後、1911(明治44)年4月28日付で刊行された『日本美術年鑑』の「日本美術家人名」では〈9月28日生まれ〉と記載される*4。これは放菴が、母親から〈新旧暦不明だが、9月28日生れ〉と聞かされたためと考えられる*5。放菴の姉もまた〈たしかその年の九月と思う 予定よりゆっくり生まれた〉という覚え書を残しているという*6。
以上を勘案すると、放菴は9月に生まれ、出生届が遅れて戸籍上12月生まれになった可能性も考えられるが、これを補強する新資料が現れるまでは、戸籍謄本に記載された〈1881(明治14)年12月29日〉を公式な生年月日としたい。

*1 小杉一雄編「年譜」『放庵―人と芸術―』(小杉放庵『奥の細道画冊』別冊, 春陽堂書店, 1972)p.27
*2 寺内恒夫「小杉放庵略伝」『栃木史論』3号(1969.12)によれば、寺内氏が確認したのは栃木県上都賀郡中粕尾村戸籍簿。
*3 例えば、「二等受賞者略歴」『美術新報』12巻1号(1912.11)p.56
*4 註2 p.33によれば、栃木県尋常師範学校附属小学校の学籍簿には〈九月三日〉生まれと記載されているという。
*5 木村重夫『小杉放菴』(造型社, 1960年)p.4,107
*6 註1に同じ
1882(明治15)年 1歳 5月、父・小杉富三郎が上都賀郡中粕尾村にあった小杉家を弟・嘉市に譲り、分家独立。本籍を同郡所野村(現・日光市所野)に移す。この頃、一家で所野の小倉山に移住する。
1884(明治17)年 3歳 ―― 日光町日光(現・日光市御幸町)国府浜酋太郎の養子となる。
1886(明治19)年 5歳 5月、国府浜家の養嗣子として正式に入籍する。
―― 国府浜家の義祖父である国府浜亀三郎(酉太郎の父)が亡くなる。亀三郎は、高久靄厓に学び〈煙厓〉と号した南画家。武者絵を描いていた国太郎に「人の絵を描くときには、鼻から先に描くんだよ、国坊」などと助言してくれたという。
1887(明治20)年 6歳 2月、実父・小杉富三郎が二荒山神社を辞し、年内に日光御料監守長となる。
―― 日光尋常小学校に入学する。
1889(明治22)年 8歳 6月11日、小杉家の長姉ヤヲが小杉仁三郎と離婚する。
9月、栃木県尋常師範学校附属小学校(現・宇都宮大学共同教育学部附属小学校)尋常科3年に転入学する。長兄・小杉彦治が附属小学校訓導をしていた関係だった。当時、塙田村の県庁前にあった同校へは彦治宅から通った。
1890(明治23)年 9歳 5月6日、小杉家の長姉ヤヲが、日光町の北山喜作と再婚する。
10月、栃木県尋常師範学校附属小学校を卒業する。
1891(明治24)年 10歳 4月、日光高等小学校に入学する。
1892(明治25)年 11歳 6月、五百城文哉が大作制作のために日光を訪れ、そのまま永住する。
―― この頃、『唐詩選』『三体詩』『古文真宝』『李太白集』などを愛読する。
1893(明治26)年 12歳 6月、小杉富三郎が2代目日光町長となる(~1897年2月まで)。
6月15日、小杉家の長姉ヤヲが、北山喜作と離婚する。
―― この頃、富三郎に連れられ、五百城文哉と出会う。以後、五百城のもとに通いながら洋画を学ぶ。当時の五百城は、寺や華族の別荘、町家の離れなど、住まいを転々としており、これを追って通った。
1894(明治27)年 13歳 1月、実弟・甲午郎が日光の小杉家で生まれる。
―― 実業家の守田兵蔵が、日光の自邸に絵画や日光堆朱などの美術工芸品を陳列する「鍾美館」を開設する。
1895(明治28)年 14歳 3月、日光高等小学校を卒業する。
4月、栃木県尋常中学校(現・宇都宮高等学校)に入学。宇都宮市鶴田の同校寄宿舎に入る。この頃、無念流の剣道道場に通う。
11月、小杉家の三兄・小杉兵士郎が結核により数え歳20で亡くなる。
―― この頃、五百城文哉が日光町萩垣面に居を構える。登記簿の記載から、その後1898年に建物を、1900年に土地を購入して自分の所有としていることがわかる。
1896(明治29)年 15歳 3月、栃木県尋常中学校を退学する。
5月、五百城文哉の内弟子になる(~1898年まで)。
12月、五百城文哉が打越みつと結婚する。
1897(明治30)年 16歳 2月、実父・小杉富三郎が、10年前の小倉山御料地売却に関わる官文書偽造行使詐取罪の嫌疑をかけられて東京で逮捕され、小倉山御料地監守人の職を解任、日光町長も退職となる。これにともない小杉家は、小倉山の監守舎から、富三郎の弟・嘉市が住む丸美ヶ原の住居へと移る。
―― 秋、日光へスケッチ旅行に来た吉田博から刺激を受ける。
1898(明治31)年 17歳 4月3日、長兄・小杉彦治に長男・晃太郎が生まれる。8月26日、わずか四ヶ月で亡くなる。
8月、《昔語り》下絵制作のため、五百城文哉の紹介で興雲律院に滞在していた黒田清輝を知る。
―― 夏、東京市麻布の親類のもとにいた姉からの誘いで、五百城文哉に無断で上京する。ある貴族院議員宅の玄関番として2週間ほど住み込む。その後、麻布中の橋にいた親戚、中村医院の薬局生として1年ほど住み込む。
1899(明治32)年 18歳 2月、白馬会絵画研究所が赤坂溜池にあった合田清の生巧館へ移る。ここでは、黒田清輝、久米桂一郎が実技指導にあたっていた。
この頃、赤坂溜池の白馬会研究所に通ってみるも、2日行っただけで止める。
5月、栃木県日光町にて、守田兵蔵が発起人の日光美術協会内に日本美術院の分院が設置されることが報じられる。守田は日本美術院の特別賛助会員だった。
―― 秋、一度帰郷して五百城に謝罪し、再上京する。
10月、吉澤儀造に伴われ、小山正太郎が主宰する画塾・不同舎に入る。当時の不同舎は本郷区駒込追分町にあった。ほぼ同時期の入門者に、高村真夫、青木繁、荻原守衛、坂本繁二郎、森田恒友、石井鶴三、三上知治らがいた。
その後、本郷で自炊生活を送っていたが、肺尖カタルにおかされたため帰郷する。
―― 冬、避寒のため、五百城文哉の世話で茨城県大洗町の旅館豊後屋へ療養に行くも、現地の医者から肺尖カタルではないと診断される。健康を取り戻してからは23歳頃まで東京と日光を往復し、日光や横浜で売った水彩画の代金で、東京で画材を買う生活を送る。
―― 小杉富三郎が日光洽益株式会社(相良楳吉経営)の支配人となる。
1900(明治33)年 19歳 ―― 水彩画《東照宮・陽明門》を描く。〈K.KOWHAMA.NIKKO〉とサインする。※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
―― 東京・田端の八百屋の離れで自炊生活を送る。
※近藤富枝『田端文士村』は、藍染川畔・田端163(現在の田端3丁目4)で画学生相手の下宿を経営していた八百屋「八百熊」ではないかと推測している。経営者は沢田喜右衛門。
6月4日、小杉家の次姉キチが東京で結婚する。夫は静岡県出身の永井久録。
7月、渡米中の吉田博の義妹で、不同舎同門である吉田ふじを を、日光へ遊びに連れて行く。この時のふじをの写生帖には、〈未醒〉記名のある俳句や短歌が書きこまれており、この頃には国太郎は〈未醒〉と号していた可能性が高い。
8月30日、長兄・小杉彦治に二男・正城が生まれる。
1901(明治34)年 20歳 5月、国府浜家から離籍し、小杉家に復籍する。
10月10日、祖父(小杉富三郎の父)小杉郡治が亡くなる。
―― この頃、青木繁を誘い、華厳の滝の案内人である五郎平を先頭に、華厳の滝の絶壁を這って滝裏を見に行く。
1902(明治35)年 21歳 2月、年頭から避寒のため沼津に滞在していた五百城文哉のもとを訪ねる。
9月、足尾台風により日光の大谷川で洪水が起き、死者多数、家屋崩壊、神橋や大谷橋も流出する大災害となる。小杉はちょうど帰郷中で、10日続いた大雨のなか、父母と家に籠っていた。
―― 太平洋画会創立にあたり、会員となる。
―― この頃、横浜にいた渡辺豊洲をよく訪ねる。この年に女子美術学校に入学していた豊洲長女・文子(のちの亀高文子)が土曜日ごとに持ち帰る石膏デッサンを見ては助言をする。豊洲邸には西洋の画集や、ドイツの『Jugend』やイギリスの『THE STUDIO』などの美術雑誌が豊富にあり、多くの画学生が集まっていた。文子の在学中(1907年に卒業)に渡辺家は東京へ移住。
1903(明治36)年 22歳 5月、第2回太平洋画会展(13日~6月6日)に、《晩鐘》《小農夫》《寂寞》《秋の夕ぐれ》《山霧》(すべて油彩画)を出品する。
この時の住所は本郷区駒込動坂町。文士の樋口罔象と同居していた。
その後、田端の下宿(那珂通世の持ち家)へ一人で移る。住所は北豊島郡中田端170か?(『太平洋画会カタログ』1904年掲載の高村真夫住所による)
7月22日、吉澤儀造の葬儀(東京市下谷区阪本町・善養寺)に参列する。
8月、日光に帰郷中、ロシアから来た高名な画家が小杉家近くに滞在していたが、人と会うことを好まないと聞いたので、会わないまま終わる。のちにその画家がヴァシーリー・ヴェレシチャーギンであったことを知る。
9月、五百城文哉らと日光の赤薙山に登る。
12月、吉田博が義妹ふじをと2回目の渡米に出発するため、横浜まで見送りに行く。
―― 国木田独歩が、近事画報社記者として従軍してくれる画家がいないか小山正太郎に相談。小山は小杉を紹介する。独歩の岳父・榎本正忠が画家で、小山の友人であった。
―― この頃、田岡嶺雲・佐藤秋蘋(日刊『いはらき』主筆)から小川芋銭を紹介され、交友が始まる。
1904(明治37)年 23歳 1月、報知新聞および近事画報社の特派員として朝鮮に派遣される。じき近事画報社専属となる。引き払った田端の下宿には、その後、新婚の高村真夫夫妻が住む。
2月10日、日本がロシアに宣戦布告。日露戦争が始まったのにともない、いったん帰国。改めて従軍の許可を得て戦場を写生して通信を送稿する。これらの写生や記事は、『近事画報』が2月から改題した『戦時画報』に掲載された。この従軍中に、同じく報道記者として派遣されていた田山花袋や久留島武彦と知りあう。
4月、博文館から月刊誌『日露戦争写真画報』が創刊される(~1905.12, 第40号まで)。この頃、押川春浪が博文館に入社し、同誌編集助手となる。同誌には小杉も従軍画を寄せており、押川と小杉と交友はこの頃始まったか。
5月、第3回太平洋画会展(1日~6月6日)に《海辺》(油彩画)を出品。また特別室には、《露国負傷兵の苦鳴》《戦後》《写生》《南大門》(以上墨画)、《望郷》《朝鮮婦人》《玄武門の昔語り》《兵士の米とぎ》(以上水彩画)が陳列された。
9月、戦地から帰国。日光に一週間ほど帰郷中、五百城文哉を訪ね、ヴェレシチャーギンが残していったノートを見せてもらう。
その後、東京に戻り、田端の植木屋の持ち家を借りて、独り身になっていた長姉ヤヲ、弟・甲午郎と暮らし始める。
11月8日、初めての著作『陣中詩篇』(嵩山房)が刊行となる。
11月、近事画報社の編集局が芝区兼房町へ移る。この年、同社の正社員となる。
1905(明治38)年 24歳 2月、田岡嶺雲が主宰する文芸誌『天鼓』が創刊される。小杉は編集の実務に関わったほか、創刊号および第2号に長詩「戦の罪」を上・下にわたって発表。これ以降も、廃刊まで新体詩や装画・コマ絵を同誌に寄せた。
4月、第4回太平洋画会展(1~29日)に、《戦友》《捕虜の糺問》《肖像》(以上油彩画)、《肖像》(固形油絵)、《海城に於ける軍司令部》《炊事》(以上水彩画)のほか、「即写図案及習作」部に《壷坂寺》《文覚》を出品する。この時の住所は本郷区千駄木林町230。
5月、近事画報社が『新古文林』を創刊。編集は吉江孤雁。同誌にコマ絵や挿絵を多数描き、漫画家として頭角を表す。
6月 姉・姪とともに千駄木に転居。
9月、石井柏亭・川上邦基らと美術文芸誌『平旦』を創刊。1906年4月発行の第5号まで続く。
9月、装幀を担当した沼波瓊音の歌文集『さへづり』(南江堂書店)が刊行。自著以外で初めて装幀を手がけた本となる。沼波は本書の装幀を小杉に頼むために、田岡嶺雲から紹介してもらった。後年この時のことを回想した沼波の文章によれば、当時小杉は〈小さな家に汚い飯炊きの婆やと住んでいた〉という(『中央美術』1921.3)。
10月、五百城文哉がしばらく東京に滞在。この頃から五百城は脳神経の病におかされていた。
10月、『戦時画報』が第69号から1年半ぶりに『近事画報』へ復題。
10月、『天鼓』14号の「社告」で、鹿島桜巷と共に、天鼓社へ正式に入社したことが告知される。
11月、明治天皇による、日露戦争戦勝報告のための伊勢神宮行幸を取材。時事新報記者として同じく取材に来ていた倉田白羊と知り合う。
―― この頃、杉田雨人が『新古文林』の漫画を気に入ったということで、佐藤秋蘋から紹介される。杉田は小杉の兄と作新学院の同級生でもあった関係で、親交を深める。
―― この頃、近事画報社から水郷の絵行脚を命じられ、茨城県牛久村の小川芋銭宅を初めて訪ね、一緒に霞ケ浦に遊ぶ。
―― 日光に、美術工芸品を陳列販売する「日光美術館」が開業する。
1906(明治39)年 25歳 1月、静岡県沼津で転地療養していた五百城文哉を訪ね、牛臥植村別荘に滞在する。
1月、博文館の雑誌『日露戦争写真画報』が、押川春浪を編集長に『写真画報』へ改題される(1908年1月から『冒険世界』へ改題)。
3月、田山花袋が編集主筆となり、博文館から文芸誌『文章世界』が創刊。小杉もコマ絵や挿絵を多数描く。
3月、近事画報社からスポーツ記事を中心とする娯楽雑誌『遊楽雑誌』が創刊。5月の3号で廃刊となるまで、毎号装画やコマ絵を描く。
4月、第5回太平洋画会展(1~30日、上野五号館北部)に、《捕虜とその兄》(油彩画)、《小園》(油彩画)、《通り雲》(油彩画)、《孫悟空》を出品する。
4月、米国のアメリカン・アート・アソシエーションにて、松木文恭が所蔵する日本人画家による油彩画・水彩画が競売にかけられる。小杉未醒・満谷国四郎・吉田博らの作品が出品され、水彩画のほうが好評だった。
4月、五百城文哉が一時快方に向かったため沼津から日光へ戻ろうとするも、途中東京の小杉宅に寄った際に再び病状が悪化したため、約50日間滞在していく。
4月、長兄・小杉彦治、京城の進明高等女学校で事務官として勤務する。
5月、五百城夫妻に付き添い、日光まで送る。
6月6日、五百城文哉が、日光町萩垣面の自宅で亡くなる。
6月、国木田独歩の仲人で、相良楳吉(日光町七里)長女ハルと結納を取り交わす(婚姻届の提出は1908年1月)。
6月、国木田独歩、経営難から近事画報社の雑誌を廃刊しようとした矢野龍渓に対し、独歩社を設立して『近事画報』『新古文林』『婦人画報』『少年智識画報』『少女智識画報』の五誌を引き継ぐ。7月号は事実上、独歩社から発行されたが、近事画報社との交渉が結着していなかったため、正式発表は8月号以降となる。
7月、国木田独歩が、田山花袋宛に龍土会出席の返事を出す。同席予定者に、小杉と鷹見久太郎(思水)の名あり。
7月、独歩社が独歩自宅から芝区桜田本郷町へ移る。
7月26日、長兄・彦治に三男・喬が生まれる。
8月、独歩社から、『近事画報』増刊として漫画雑誌『上等ポンチ』が創刊される。独歩の命により小杉と満谷国四郎が編集にあたる。全6号。
8月18日消印 小川芋銭へ、田山花袋が博文館の『文章世界』誌に挿絵を欲しがっているので、自分宛に5~6葉送ってほしいとの葉書を送る。この時の住所は〈東京本郷神明町一四〉。
10月、楽焼の羅漢像に「毛呂美羅漢を送るの辞」を添えて杉田雨人へ贈る。杉田はこれを喜び、その書を屏風に仕立てた。
11月頃、本郷千駄木林町216番地に転居する。
12月7日、相良家で小杉未醒・相良ハルの結婚披露宴が行なわれる。
12月、小川芋銭の画集を日高有倫堂から出版することを杉田雨人と計画。芋銭に口絵のための新作を依頼する。
1907(明治40)年 26歳 1月1日、『漫画一年』(左久良書房)が刊行となる。
3月、『近事画報』『新古文林』が廃刊となる。
3月、東京勧業博覧会(20日~7月31日、東京市・上野公園)美術館西洋画之部に《降魔》(油彩画)で入選する。
3月23日、杉田雨人宛に東京勧業博覧会についての葉書を出す。この時の住所は東京本郷千駄木林町216。 ※現在、葉書は茨城県立図書館蔵
4月、独歩社が債権者に訴訟を起こされ、破産する。最後の社員は、国木田独歩、小杉未醒、窪田空穂、鷹見久太郎(思水)、田内千秋、満谷国四郎、吉江孤雁。
4月26日、田岡嶺雲宛に手紙を書く。この時の住所は本郷千駄木林町216。内容は、月末から茨城県にある杉田雨人別荘でしばらく静養するつもりでいること、沼波瓊音が書肆修文館の顧問になったので、『天鼓』復刊について相談できるのではないかということなど。
4月、日本装飾美術会の設立に、安藤鉄作、石井柏亭、川上邦基、坂本繁二郎、新海竹太郎、橋口五葉、平福百穂、満谷国四郎、三上知治、山本鼎らと共に参加する。
5月、石井柏亭・森田恒友・山本鼎により美術文芸誌『方寸』が創刊。小杉は創刊号から俳句や挿絵を寄稿する。
6月23日、『詩興画趣』(彩雲閣)が刊行となる。
7月、東京勧業博覧会に出品中の太平洋画会会員たち、不公平審査への抗議から褒賞を返却し、審査の非公正なることを公表する。名を連ねたのは、小杉未醒、石井柏亭、石川寅治、茨木猪之吉、河合新蔵、坂本繁二郎、高村真夫、中川八郎、中村不折、沼辺強太郎、荻生田文太郎、丸山晩霞、三上知治、山崎清次郎、山下繁雄、吉田博、吉田ふじをの17名。
7月、杉田雨人と長野県木曾地域を旅行。帰京後、東北地方へ写生旅行に向かう。年内に《木曾絵詞》を描く。※現在、茨城県近代美術館蔵
7月、小栗風葉・田山花袋・沼波瓊音と連名で『東海道線旅行図会』(修文館)を刊行する。
8月、独歩社の島田義三・鷹見久太郎が東京社を創業、独歩社から『婦人画報』『少年少女智識画報』を引き継ぐ。
9月、国木田独歩が医師に転地療養を勧められたため、茨城県湊町にある杉田雨人別荘で療養させる。独歩はここを「青一盧」と名付け、『文芸倶楽部』12月号に発表した小説「渚」のなかで、静養中のことや牛久保付近の様子などを描写する。
10月25日、東京通人(伊藤天籟)との連名による『東京四大通』(也奈義書房)が刊行となる。
11月、田岡嶺雲・白河鯉洋ら、新聞『東亜新報』を創刊する。
―― 渡辺文子に満谷国四郎を紹介する。
1908(明治41)年 27歳 1月1日、『漫画天地』(左久良書房)が刊行となる。序文末尾に〈四十年冬 千駄木にて 未醒識〉とある。
1月3日、日光に帰郷。杉田雨人に葉書を出す。 ※現在、葉書は茨城県立図書館蔵
1月上旬、日光から帰京後、杉田雨人と伊豆を旅行する。
1月24日、相良ハルとの婚姻届を日光町に提出する。婚姻届の住所・本籍は、日光町七里にあったハルの実家。
1月、博文館の雑誌『写真画報』が廃刊、『冒険世界』が創刊される。押川春浪が主任となり、小杉も装画や口絵を描く。
2月、国木田独歩が、神奈川県茅ヶ崎にあったサナトリウムの南湖院に入院する。
4月1日、佐藤秋蘋が亡くなる。
4月3日、水戸の杉田雨人宅へ行く。佐藤秋蘋の葬送のなかに杉田がいたため、小杉も加わる。
4月、小栗風葉・田山花袋編『二十八人集』(新潮社)が出版される。病床にある国木田独歩の経済的な窮状を救うために編まれたもので、独歩の友人28名による短篇小説・随筆・評論のほか、小杉と満谷国四郎が絵を寄せた。
4月、奥羽六県連合共進会美術展(21日~5月20日、主催:奥羽六県連合共進会、会場:福島市・日本赤十字社福島支部看護婦寄宿舎内)に《魔襲》を出品する。
5月、第6回太平洋画会展に、《江戸絵》《沼の春》《平磯》《樫の木の下》(すべて油彩画)を出品する。
5月、『方寸』2巻4号より、平福百穂・倉田白羊と共に同人に加わり、編集に携わるようになる。
5月、国木田独歩の見舞いに小杉、岩野泡鳴、小栗風葉、相馬御風、田山花袋、中村星湖、中村武羅夫、前田晃(木城)、正宗白鳥、真山青果、吉江孤雁が南湖院に駆けつけ、記念撮影をする。
6月4日、長男の一雄が本郷区千駄木町にて誕生する。国木田独歩が名付け親となる。
6月、『太平洋画会画集 明治四拾壹年』(方寸社)所収「太平洋画会々員名簿」掲載の住所は、本郷区駒込千駄木林町216番地。
6月20日、小杉・杉田雨人の尽力により、小川芋銭の漫画集『草汁漫画』(日高有倫堂)が刊行となる。
6月23日、国木田独歩が南湖院で亡くなる。
6月24日、国木田独歩の葬儀が東京の青山斎場で、悼む会が茅ヶ崎館で開かれる。参加者は、小杉、小栗風葉、田村三治、田山花袋、中沢臨川、西本翠蔭、真山青果、満谷国四郎など。
7月、2日間にわたって開催された博文館主催の「冒険世界天幕旅行」「天幕旅行大運動会」に参加する。天幕旅行は、日比谷公園から都大路、両国橋、小梅曳船通、四ツ木街道、吉野園、中川、江戸川堤、栗本の渡船場から船で向岸にある国府台会場というコースで、小杉のほか、押川春浪・石橋思案・巌谷小波・大町桂月・斎木菊雨・中村直吉・吉岡信敬らのほか、多数の一般読者たちが参加した。
10月、第2回文部省主催美術展〔文展〕(15日~11月23日、竹之台陳列館)に《涅槃会》(油彩画)で初入選する。
―― 北豊島郡中田端155番地の相逢川畔に家を新築する。岳父・相良楳吉により、敷地内に家2軒を建て与えられた。
1909(明治42)年 28歳 1月、《うさぎ帖》を描く。※現在、茨城県近代美術館蔵
2月、田岡嶺雲が主宰する文芸誌『黒白』が黒白社から創刊。小杉が毎号装画やコマ絵、随筆を寄せる。同誌は第7号が発売禁止になったことで廃刊となる。
この頃、黒白社楼上で催された同人の談話会に出席、喫飯する田岡嶺雲の周りに同人の似顔絵を配した《飯食ひ涅槃》を描く。参加者は、田岡嶺雲、岡上徂水、国府犀東、小柳柳々[小柳司氣太]、白河鯉洋、高橋仏骨、千葉秀浦、戸張竹風、沼波瓊音、樋口罔象、真山青果、山本鷺城。
3月、妻の弟・相良邦之助が東京の中学校に通うことになり、自邸に寄寓させる。
4月24日、杉田雨人宛に、杉田別荘で催す独歩会について相談する葉書を出す。この時の住所は「東京府下田端」。 ※現在、葉書は茨城県立図書館蔵
4月、杉田雨人・田山花袋・中沢臨川と、茨城県湊町(現・那珂湊)にある杉田の別荘へ、国木田独歩を偲ぶ旅行に行く。
4月、永代亭(深川区永代橋東詰)で開かれたパンの会の発起人として、石井柏亭、伊上凡骨、太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋、倉田白羊、鈴木鼓村、平野萬里、森田恒友、山本鼎、吉井勇、フリッツ・ルンプフと共に名を連ねる。この会は大成功をおさめ、これ以降、春秋2回で大会を催すことになる。
5月、相良家のために《鍾馗》(水墨画)を描く。※現在、小杉放菴記念日光美術館寄託
5月11日、長兄・小杉彦治がキンと離婚する。
5月頃、独歩社の元関係者たちが杉田雨人別荘(茨城県那珂湊)に招待され、清遊の会を開く。小杉、坂本紅蓮洞、田村三治、中沢臨川らが参加。
5月、押川春浪・中沢臨川・水谷竹紫・弓館小鰐ら、仲間を集め羽田の運動場で野球試合を行なうようになる。やまと新聞チームとの試合が31日の『萬朝報』に〈天狗チーム対やまと新聞の野球競技あり。頗る滑稽にして、十三対二をもって天狗の勝に帰したり〉と報道されたことをきっかけに、押川らの集りが「天狗倶楽部」と称するようになり、小杉も参加する。
5月28日、『漫画と紀行』(博文社)が刊行となる。
6月、第7回太平洋画会展(4~29日、竹之台陳列館)に、《黄昏》《停車場》《ある夕》《夕月》《朝霧》を出品する。この時の住所は北豊島郡中田端155番地。
6月23日、国木田独歩一周忌(東京市赤坂・圓通寺)の法事に出席する。
7月、太平洋画会評議員の改選により、評議員に再任となる。
8月、長兄・小杉彦治が京城(現・ソウル)にてミネと再婚する。
8月下旬、田岡嶺雲が、小杉富三郎の世話により栃木県日光稲荷町202で病気療養する(~11月)。
10月、第3回文展に《庭》と題する婦人像を出品するも落選となる。
10月、パンの会が松本楼(日比谷公園)で開かれ、石井柏亭、太田正雄(木下杢太郎)、小山内薫、北原白秋、倉田白羊、高村光太郎、長田秀雄、本居長世、安成貞雄、山本鼎、吉井勇と共に発起人に名を連ねる。
11月14~20日、石井柏亭・北原白秋・倉田白羊・山本鼎と信州旅行、神川村(現・上田市)大屋に滞在する。
(14日倉田白羊と共に大屋へ行き、先発の石井柏亭・北原白秋・山本鼎と合流。新聞記者の長谷川天来や松永千秋に迎えられる。神川館で方寸社の資金調達のための画会を開き、小杉は裸婦を描いた《野辺》などを出品。地元の人に抽選で当たった作品を買ってもらう頒布会とする。15日柏亭・白秋・白羊と4人で写生に出かける。夕方、鼎の家族らも交え芝居見物。16日大屋館での慰労会に招かれる。17日白羊と写生の続きをする。18日大屋病院にて皆で短歌を詠む。19日皆と帰途につく。汽車で篠ノ井から諏訪へとまわり、牡丹屋旅館に一泊。20日車内で短歌を詠みながら帰京する。)
12月、天狗倶楽部vs木葉天狗(新聞スポーツ記者たちのチーム)との野球試合に参加する。
1910(明治43)年 29歳 1月1日、『新訳絵本西遊記』(左久良書房)が刊行となる。
1月10日、長女の百合が誕生する。
1月、小杉・小川芋銭・岡本月村・橋本邦助・正宗得三郎・森田恒友らが漫画を描き、鹿島淑男(桜巷)が編集した『漫画百趣』(日高有倫堂)が刊行される。
1月、押川春浪・中沢臨川・沼波瓊音らが発起人となり、小杉の漫画を頒布する「未醒漫画会」が起ち上がる。
2月、杉田雨人のために《飲中八仙之図》(水墨画)を描く。※現在、茨城県近代美術館蔵
2月20日、戸塚村で催された天狗倶楽部の相撲大会に参加する。ほか、押川春浪・阿部天風・内垣実衛・中沢臨川・平塚断水・弓館小鰐・吉岡信敬らが参加。
3月、太平洋画会展・関西美術院洋画展(大阪市・三越呉服店)に、《上総の浜》などを出品する。
3月25日、父・小杉富三郎が亡くなる。
春、石井柏亭と京都を旅行する。
5月、第8回太平洋会画会展(22日~6月26日、竹之台陳列館)に、《べぼうの木》《出町の柳》《野の宮》《若王子道》《南向きの山》《白椿》《浦島》《冬の浜》《伏見の河岸》《愛宕山》《上総の浜》《槻の木の家》《上州の奥》(すべて油彩画)を出品する。※現在、《べぼうの木》は栃木県立美術館蔵
7月、小川芋銭・岡本月村・斎藤五百枝・山田実らと漫画を描き、鹿島桜巷が編集した『漫画春秋』が日高有倫堂から刊行される。
8月、天狗倶楽部の押川春浪・平塚断水・吉岡信敬の日光旅行に同行する。
10月、第4回文展(14日~11月23日、竹之台陳列館)に油彩画《杣》を出品、三等賞を受賞する。
11月、太平洋画会の仲間たち(石井柏亭、大下藤次郎、鹿子木孟郎、高村真夫、中川八郎、満谷国四郎、吉田博、吉田ふじを)と小豆島を旅行する。
1911(明治44)年 30歳 2月、石井柏亭・大下藤次郎・鹿子木孟郎・河合新蔵・高村真夫・中川八郎・中村不折・満谷国四郎・吉田博と連名で、『十人写生旅行』(興文社)を刊行する。
2月、山本鼎が田端512に転居してくる。
3月3日、『新訳絵本水滸伝』(左久良書房)が刊行となる。
3月から4月にかけ、太平洋画会の仲間たち(大下藤次郎、河合新蔵、高村真夫、中川八郎、吉田博、渡部審也、渡辺与平)と瀬戸内海・九州を写生旅行。途中瀬戸内海で2グループに別れ、大分県別府で合流。『美術新報』10巻6号(1911.4)によれば、〈別府に渡り 一週間滞在の後 耶馬溪を始め九州沿岸を写生し四月上旬帰京する由〉。
3月、伊太利万国博覧会に、前年文展入選作《杣》を出品する。
4月、第9回太平洋画展に、《一本杉》(油彩画)、《磧の杉(河原の杉)》(油彩画)、《白木蓮》(油彩画)、《那須野》、《午後の榛》、《故郷の松》、《霧ある日》、《赤薙山下の松》(水彩画)、《那須山》、《夏山》のほか、「瀬戸内海」部に、《多度津港の一》《多度津港の二》《多度津琴平橋》《道後の古城より》《高松城》《瀬戸内船中にて》《屋島山下の夕》《松山城の一角》《志度寺》《今治桃山》《高松紙すき》《高浜港》《讃州屏風ヶ浦》《柿日和(小豆島坂手)》《暮るゝ浜(小豆島)》《桐の木の午後(小豆島)》《多度津の夕暮》《今治港》《さぬき富士》《道後の一部》を出品。《赤薙山下の松》は宮内省買上となる。※現在、《一本杉》は栃木県立美術館蔵
4月末、朝鮮半島を旅行する。
―― 初夏、鹿島龍蔵が田端650番地(現・北区田端6丁目)へ転居してくる。鹿島はここを「孤峯荘」と名付け、1936年に浦和市領家(現・さいたま市浦和区領家)の別荘に移るまで田端で過ごし、小杉と親しく交友する。
5月21日、太平洋画会の仲間たちを中心に、田端にスポーツや囲碁などを楽しむために立ち上げた「ポプラ倶楽部」の発会式が開かれる。滝野川第一小学校近く、野間清治邸の隣にある梅屋敷という広い庭園を借りてテニスコートを2面作る。東京美術学校でテニスの選手だった藤井浩祐が指南役となる。じき針重敬喜(東京日日新聞社記者、早稲田大学庭球部関係者)や天狗倶楽部の面々も参加し、針重は小杉や押川春浪ら天狗倶楽部と交友を深めていく。
7月、《紙すきの村絵巻》を描く。※現在、出光美術館蔵
7月25日、『詩與漫画』(国文館書店・一書堂書店)が刊行となる。1907年の『詩興画趣』(彩雲閣)を改題したもの。
8月5日、石川寅治・大下藤次郎・河合新蔵・中川八郎・満谷国四郎・吉田博・渡部審也との連名による、『瀬戸内海写生一週』(興文社)が刊行となる。
8月、押川春浪・吉岡信敬・井澤衣水(『冒険世界』記者)らと本州横断旅行。
9月、小川芋銭ら10人との画文を収め、鹿島桜巷が編集した『即興画詩』が東京国民書院から刊行される。
10月、白樺主催泰西版画展(東京市赤坂・三会堂)を見て、エッチングについて多くを学ぶ。
10月、第5回文展(14日~11月19日、竹之台陳列館)に油彩画《水郷》を出品し、最高賞であった二等賞を受賞する。※現在、東京国立近代美術館蔵
10月30日、『冒険世界』主任だった押川春浪が同志と共に博文館を辞職する。この秋に東京朝日新聞社と天狗倶楽部らとの野球害毒論争が起きた時に、上司の行動に不満を抱いたことが原因だった。『冒険世界』は博文館に残った阿武天風が主任を引き継ぐ(その後、1917年の人員整理にともない、阿武も武侠世界社へ移る)。
11月、芋銭未醒漫画展(12~18日、東京市・三越呉服店)を、小川芋銭と開催する。同展は同月中に三越大阪店へ巡回。小杉は、《黄昏帰漁》(絹本着色)、《上絵図》(絹本着色)、《絵馬式額十二支図》、《焚火》、《山女》、《月の人》、《梅干》、《朝鮮絵巻》、《紙すきの村絵巻》、《朝鮮所見》、《今治の景》、《釣》、《世尊降誕》、《霞浦所見》、《杣の図》(焼絵)、《水郷図》(焼絵)、《竹取》(焼絵)などを出品する。※現在、《黄昏帰漁》は小杉放菴記念日光美術館蔵
1912(明治45)年 31歳 1月、押川春浪により『武侠世界』が創刊される。博文館を辞職した押川に、小杉が興文社を紹介し、同社を発売元とした。小杉も装画や口絵を多数描く。
1月、大町桂月・笹川臨風・白河鯉洋らを発起人とする、病床の田岡嶺雲を見舞う集まりに参加する。ほか、鹿島桜巷、小柳司気太、国府犀東、堺枯川、佐々醒雪、笹川潔、三遊亭圓歌、千葉秋甫、得能文、沼波瓊音、横川匡らが出席。
3月、洋画家による日本画展として企画された、美術新報主催第3回美術展(竹之台陳列館)に《猿と柿》を出品する。
3月、大阪三越呉服店洋画展(大阪市高麗橋・三越呉服店)に、《白木蓮》《朝鮮風物》を出品する。同展には太平洋画会、関西美術会の各会員らが参加した。
3月25日、青木繁の一周忌を記念する追悼紀念会(東京市・メイゾンコーノス)に出席する。ほか、岩野泡鳴、蒲原有明、坂本繁二郎、芝川照吉、高村真夫、正宗得三郎、柳敬助、山下新太郎、山本鼎らが出席。
4月、第10回太平洋画会展(21日~5月18日、竹之台陳列館)に、《郊外の家族》《伊豆伊東》《椿の井戸》《無花果の井戸》《みなとの微雨》《みなとの午後》《草山》《大阪の河口》《風多き日》《夕霧》《草山と杉》《あやめ》(以上油彩画)、《清水みなとの一》《清水みなとの二》《直江津河口》《塩原の夏》《釜山鎮》《釜山港》《東大門》《景福宮》《龍山津》《関亭廟》《南山の麓》《伊豆山下》(以上水彩画)を出品する。
5月初頭、三島彌彦のストックホルム・オリンピック出場を祝うために催された天狗倶楽部のマラソン大会に参加する。ほか、押川春浪・橋戸頑鉄・弓館小鰐・吉岡信敬らが参加。
5月、第12回无声会展(3~31日、竹之台陳列館)に、《漁村》、《山男》、《鍾馗》、《俊寛》(焼絵)を出品する。
7月、田岡嶺雲が、再び日光(板挽町423)で病気療養に入る。
8月、木版画《新日光絵図》(印刷:東京市浅草区向柳原1丁目28番地 岩部元雄)が発行となる。このときの住所は、滝野川村田端155番地。
8月、エッチング《無題》を試みる。
9月、押川春浪・中沢臨川と連名で、国木田独歩の墓碑建立のための寄附金を依頼する書簡を田山花袋宛に出す。
9月7日、田岡嶺雲が、日光の療養先で亡くなる。翌日、鳴虫山の麓で荼毘にふされる。
9月10日、田岡嶺雲の葬儀が、東京の谷中斎場で行なわれる。墓碑は高知市旭と日光市板挽町・浄光寺の2ヶ所。
10月、《農夫》(油彩画)を描く。本作は、渡欧前に母校である日光尋常高等小学校(現・日光小学校)へ寄贈する。※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
10月、第6回文展(12日~11月17日、竹之台陳列館)に《豆の秋》《海藻》(ともに油彩画)を無鑑査出品。前者で二等賞一席を受賞する。
秋、三越主催の画家の集まり「おとぎく会」で、横山大観と知己になる。
11月、諸大家新作品陳列会(1~10日、主催:三越呉服店新美術部、会場:東京市駿河町・三越呉服店)に、《海》(屏風)を出品する。
11月、第2回三越洋画小品展(東京市日本橋・三越呉服店)に、《はんの木》を出品する。
11月、日光へ帰郷する。
11月30日、天狗倶楽部と武俠世界社による、小杉の渡欧と、12月から一年志願兵となる吉岡信敬の送別会が、向島の料亭で開かれる。
12月10日、小杉の渡欧送別会を兼ねた独歩社同人会が、日比谷公園前の平野屋にて開かれる。
12月15日、横山大観と「絵画自由研究所」の規約を発表。『東京日日新聞』に「大観と未醒の握手」と題した記事で掲載される。
12月、下関で《牧牛一閑人》《馬関小枯》(ともに水墨画)を描く。※《牧牛一閑人》は小杉放菴記念日光美術館蔵、《馬関小枯》は佐久市立近代美術館蔵
12月22日、下関から日本郵船・賀茂丸で出国する。
1913(大正2)年 32歳 1月、航海途中、《シンガポールにて》《スエズ運河の岸のアラビヤ人》(ともに水彩画)を描く。※ともに現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
2月4日、パリに到着し、14 Cite falguiere(シテ・ファルギエール14番地)に住む。この部屋は、前年から同所に住んでいた満谷国四郎と山本鼎から紹介された。この日、パリに留学していた美術家仲間とリュクサンブール公園前で記念撮影をする。
3月、満谷国四郎とヴェトゥイユを旅行する。
4月、満谷国四郎・柚木久太とスペインを旅行。5月中旬頃にパリへ戻る。
5月、第11回太平洋画会展(24日~6月18日、竹之台陳列館)に、パリから送った作品を出品。開会までに到着が間に合わず、会期中ごろからの陳列となる。
6月初頭、小川千甕・澤部清五郎・満谷国四郎・柚木久太とロンドンを旅行。大英博物館などを見学する。ドイツ、オランダ、ベルギーを経由してパリに戻る。
6月 第1回日本水彩画会展(6月4~29日、竹之台陳列館)に、パリから送った《スエズ運河の岸のアラビア人》、《べトウイユ》、《マレー土人》、《黒人と黒猫》、《マロニエの芽》(すべて水彩画)を出品する。※現在、《スエズ運河の岸のアラビア人》は小杉放菴記念日光美術館蔵
6月、ポプラ倶楽部の施設拡張のための作品頒布会が企画される。頒布作品は同倶楽部幹事18名(石井柏亭、倉田白羊、小杉未醒、高村真夫、田辺至、中川八郎、永地秀太、藤井浩祐、満谷国四郎、三上知治、吉田博、石川、磯部、高木、中村、藤島、丸山、渡邊)の作品。
7月、慈善絵画展覧会(5~8日、主催:免囚保護所博愛職工学会主管・相川勝治、会場:北海道・小樽倶楽部)に小杉の日本画も出品される。
7月上旬から約2ヶ月間、山本鼎と仏国西部ブルターニュ地方のケルファニー・レ・パンKerfany-les-Pinsで過ごす。滞在中に、桑重儀一、小柴錦侍、満谷国四郎らが訪ねてくる。
8月、《入江の一角(ブルターニュ風景)》(油彩画)を描く。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
8月、前年末に横山大観と発表した絵画自由研究所の設立計画が中止になったことが報じられる。小杉は洋行前に谷中にある旧佐竹屋敷の空地を研究所の予定地として選定しておいたが、賃貸料が高かったため、交渉にあたっていた大観が計画を中止する手紙を小杉に送っていた。これを受けた小杉は独力で研究所を設立することを決め、2年の予定だった留学期間を1年に縮めて、本年末には帰国する予定と伝えられた。
9月2日、岡倉天心が亡くなる。天心の葬儀で横山大観・下村観山らが日本美術院再興を計画。小杉との絵画自由研究所計画をこれに統合することにする。
9月23日、山本鼎・島崎藤村・澤木梢と、カミーユ・ピサロの作品を見にいく。
9月27日、山本鼎・島崎藤村・澤木梢・満谷国四郎と、ポール・セザンヌのコレクションを見にいく。
―― 秋、桑重儀一・小林萬吾・島崎藤村・満谷国四郎・山本鼎と、パリ郊外マドリッドにあるペルラン氏邸へセザンヌのコレクションを見にいく。
10月4日、シテ・ファルギエールの部屋を引き払い、長谷川昇と夜の列車で出発する。同月から藤田嗣治がシテ・ファルギエール14番地に住む。藤田はパリ到着時、小杉宛の紹介状を持参していたため、小杉の部屋に入れ替わりに入居した可能性がある。
10月5~30日、イタリアとヴァチカンを旅行。ミラノ、ヴェネツィア、ラヴェンナ、ボローニャ、フィレンツェ、アッシジ、ローマ、ナポリ、ポンペイ、カタコンベなどをまわる。
10月30日~11月1日、モナコ、マルセイユを経てリヨンへ。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの壁画がある美術館など見る。
11月2日、夕方パリに到着。山本鼎のアトリエに泊めてもらう。
11月、小杉の帰国送別会が日本食店で開かれる。出席者は、金山平三、桑重儀一、小林萬吾、島崎藤村、長谷川昇、藤川勇造、藤田嗣治、安井曽太郎、山本鼎、柚木久太。
11月、山本鼎から村山槐多の世話を頼まれる。
11月、フランス北部アミアンでシャヴァンヌの壁画を見学した後、ブリュッセルをまわる。
12月3日、モスクワ発の寝台列車で帰国の途につく。
12月20日、帰国。親戚にあたる荏原郡下大崎町38小杉方に一週間ほど滞在し、妻が待つ日光へ帰郷する。
1914(大正3)年 33歳 1月、絵馬展(25日~2月5日、東京市日本橋区・琅玕洞)に出品する。
2月、横山大観・下村観山らと日本美術研究会を開き、小杉が日本美術院に加盟したと報じられる。
3月3日、日光から上京する。
3月、太平洋画会・関西美術会連合第11回三越洋画展(1~10日、大阪市・三越呉服店)に出品する。
3月、満谷国四郎・小杉未醒・柚木久太三氏滞欧記念洋画展(10~16日、東京市神田区・ヴィナス倶楽部)に、《入江の一角》(油彩画)、《牛》(油彩画)、《小湾》(油彩画)、《セーヌ河》(油彩画)、《グラナダの牧者》(油彩画)、《巴里の近郊》(油彩画)、、《馬鈴薯の収穫(または「ジャガイモの収穫」)》(水彩画)、《ケルフアンニの一日》、《ケルフアンニの入江》、《プルトンの村》、《プルトンの女》、《ジプシー村》、《ジプシーの女》、《イタリアの女》、《フットボール》、《フロランスの夕》など20数点を出品する。※現在、《入江の一角》は《入江の一角(ブルターニュ風景)》の作品名で小杉放菴記念日光美術館蔵、《牛》は小杉放菴記念日光美術館寄託
3月、第5回三越洋画小品展(20~29日、東京市駿河町・三越呉服店)に滞欧作などを出品する。
4月10日、押川春浪および倉田白羊一家が小笠原島へ渡るため、天狗倶楽部一行と横浜港へ見送りに行く。春浪は6月に、白羊一家は翌年6月頃に帰京。
4月、日本美術院再興を計画していた横山大観と下村観山が合議のうえ、小杉が作ろうとしている自由研究所をあわせての再興とすることを決定。これに今村紫紅、木村武山、安田靫彦の3名も参加。研究所用に下谷区谷中上三崎南町の敷地が購入される。
4月から5月にかけ、千葉県銚子、茨城県潮来を写生旅行する。この時に水彩画《潮来》(茨城県近代美術館蔵)を描く。
―― 初夏、小杉家離れに仮寓していた水木伸一を、画家を目指して上京してきた柳瀬正夢が頼って来たため、しばらく住まわせる。
5月1日、『画筆の跡』(日本美術学院)が刊行となる。
5月、水郷をテーマとした壁画の依頼制作が報じられる。
6月、満谷国四郎・小杉未醒滞欧作品展(大阪市・三越呉服店)を開催する。小杉は、《シンガポールにて》、《サンクールの公演》、《ブルターニュの小湾》(以上油彩画)、《初夏の朝》、《手賀沼》(以上日本画)、《イスパニヤの農民》(絹本淡彩)など、渡欧中の21点と帰国後の20点の計41点を出品する。
6月、「水に寄する展覧会」(11~25日、東京市・琅玕洞)に《潮来》を出品する。
6月29日、近年のパリ留学者の懇親会(東京向島・水神八百松)に出席する。ほか、石井柏亭、小川千甕、小林萬吾、高木誠一、徳永柳州、満谷国四郎、水谷鉄也、与謝野寛、和田垣謙三、相見某の11名が出席。
7月、村山槐多が、小杉邸敷地内の借家で水木伸一・小野憲と共同生活を始める。小野はその後すぐに退居し、槐多と水木は約2年間下宿を続けた。  
7月、潮来に滞在して写生を行う。
7月、妖怪画展覧会(10~25日、東京市京橋東仲通・松井画博堂)に《化地蔵》を出品する。
7月、文展第二部(洋画部)に新旧二科併立を求める青年洋画家たちの建議を文部省が容れず、青年洋画家たちが在野団体としてニ科美術展覧会を開催することを決議。発起者一同の互選により、秋に開催される二科展の鑑査員15名が選ばれ、小杉も指名される。
8月、天狗倶楽部が中心となり、武俠世界社主催の日光・足尾壮快旅行が実施される。旅先は小杉の発案だが、参加者一覧(『武俠世界』1914.9)に名が無いことから小杉は不参加で、代わりに村山槐多を参加させたと考えられる。
9月頃、小笠原で制作中の倉田白羊のため、武俠世界社内に画会を起ち上げることに協力する。
9月2日、岡倉天心の一周忌をもって日本美術院が再興され、谷中三崎南町52にて開院式が挙行される。小杉も同人として参加し、洋画部を担当する。
9月、《飲馬》(油彩画)を描く。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
10月、第1回二科展(10~30日、竹之台陳列館)に鑑査委員として、《初秋の秋》《山民の家族》《郊外》《潮来》(以上油彩画)、《初夏の水郷》《谷の温泉》(以上水彩画)を出品。同展ポスターの原画も手がける。
10月、再興第1回院展(15日~11月15日、東京市日本橋・三越呉服店)に、洋画部ただ一人の同人(一般入選なし)として、《飲馬》(油彩画)、《湖畔》、《鋳物する村》、《髪を洗ふ》(以上3点水彩画)を出品する。同展は11月に大阪市心斎橋・髙島屋[飯田]呉服店へ巡回。※現在、《飲馬》は小杉放菴記念日光美術館蔵
10月、早稲田大学グラウンドで開催された文芸家vs記者の野球試合に、押川春浪・佐藤紅録・中澤臨川・柳川春菜らと共に参加する。
10月27日、妻の妹・相良ミツ(相良楳吉の三女)が、武侠社の柳沼澤介(福島県二本松町)と結婚する。
11月、第14回巽画会美術展に洋画部と彫刻部が新設され、洋画部審査員を東京府知事から嘱託される。
11月16日、押川春浪が亡くなる。これにともない、しばらく『武侠世界』の代表には小杉や中沢臨川が名を連ねる。
11月23日、押川春浪追悼として、天狗倶楽部の思い出の多い戸塚原頭で野球・相撲試合が、夜には牛込常盤楼上で宴会が開かれる。
11月24日、院展巡回のため大阪に行く。同行者は横山大観、下村観山、今村紫紅、木村武山、斎藤隆三、笹川臨風、佐藤朝山、内藤伸。
12月、水彩画《小諸の山田》を描く。※現在、出光美術館蔵
12月、恤兵美術展(8~9日、東京市京橋区・旧日報社跡)に、《ポンタべエの入江》《ファルギエール十四番》(ともに水彩画)を出品する。
1915(大正4)年 34歳 1月10日、天狗倶楽部の新年会に出席する(東京市四谷・三河屋)。ほか、阿武天風・茨木猪之吉・尾崎行輝・城子悌二郎・中沢臨川・橋戸頑鉄・針重敬喜・飛田忠順・平塚断水・水谷竹紫・吉岡信敬らが出席したほか、司法大臣の尾崎咢堂が突然参加し、入会する。
1月、《黄初平》を描く。※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
2月、扇額展覧会(7~20日、東京市京橋南鞘町・琅玕洞)に出品する。
3月、第1回日本美術院習作展(8~20日、竹之台陳列館)に、《鵜飼》(油彩画)ほか3点を出品する。
3月、横山大観・下村観山・今村紫紅および寺内銀次郎(表具師)との計5人で、日本美術院の資金を目的とする《東海道五十三次絵巻》を描くため、旧東海道を上りながら京都まで旅行する。修善寺新井旅館にて四幅対合作《東海道》制作。30日京都着、31日に嵐山で解散。
3月、新日本画展覧会(東京市京橋・銀座美術館)に出品。同展は洋画家による日本画の展覧会で、ほかには石井柏亭、小川千甕、斎藤五百枝、坂本繁二郎、長原孝太郎、橋本邦助らが参加した。
3月25日、次男の二郎が誕生する。
4月、三越主催第13回洋画展(21~30日、大阪市・三越呉服店)に《初冬》(水彩画)を出品する。
5月、潮来に滞在して写生を行う。《神詣》(水彩画)を描く。※現在、出光美術館蔵
6月、横山大観・下村観山・今村紫紅との合作《東海道五十三次絵巻》全8巻2組が完成。「東海道五十三次絵巻展観」(20~27日、大阪市心斎橋・髙島屋[飯田]呉服店大阪美術部)を開催する。
7月25日、天狗倶楽部vs粕壁中学校教諭の野球試合(粕壁中学校グラウンド)に参加。天狗倶楽部側からはほかに、大村幹、倉田白羊、佐藤紅緑、橋戸頑鉄、針重敬喜、藤井浩祐、弓館小鰐らが参加した。
夏、日光へ帰郷。9月まで滞在する。
9月、琅玕洞絵画彫刻工芸展(22~24日、東京市・琅玕洞)に《水郷》を出品する。
10月8日、桑重儀一・長谷川昇・柚木久太と浅草で遊ぶ。
10月、再興第2回院展(11~31日、東京市上野公園・精養軒)洋画部に、《黄初平》(油彩画)、《山》、《海》(以上水彩画)を出品する。同展は京都市(三条通柳馬場角・京都青年会館)へ巡回。
10月、第2回二科展(13~26日、東京市日本橋・三越呉服店)に、《水辺の母子》(油彩画)、《鳴虫山》、《大真名子山》、《戦場ヶ原》、《浴者》、《馬返村》、《華厳瀧》、《初秋の山》、《暮れ方》を出品する。
10月13日、渡辺六郎に相談していた山本鼎の帰国費用について快諾をもらう。
10月16~17日、《かぐや姫》(素描)を描く。※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
10月18~23日、横山大観・渡辺六郎と秩父荒川。これを基に大観と小杉で《荒川絵巻》を描く。 ※現在、大観の《荒川絵巻》は株式会社ヤマタネ蔵、小杉の《荒川絵巻》は所在不明
10月27日~12月4日、《荒川絵巻》を描く。
10月、白夜洋画展覧会(30~31日、主催:小樽春鳥詩社発行『白夜』、会場:北海道・小樽倶楽部)に出品する。
10月頃、小樽から上京してきた山崎省三の絵を見、日本美術院研究生になることを許可する。
11月13日、國華社主催の古画展(日本橋倶楽部)を見る。
11月19日、渡辺六郎と初めてモーターボートに乗り、隅田川をさかのぼる。
11月22日、渡辺豊洲の訃報を聞く。
11月、白描展(東京市・琅玕洞)に《天種彦及味耜高彦根》を出品する。
11月28日、義弟・相良邦之助が、興文社から暇をもらって日光へ帰ると知らせに来る。
12月、春懸小品展(15~17日、主催・会場:神田一ツ橋通町・俳画堂)に《川浚へ》を出品する。 ※会期は『美術新報』15巻3号 p.57によっているが、『中央美術』2巻2号 p.109は〈旧冬から新春にかけて〉開催されたとしている。
12月、中村家の婚礼祝いに《列仙屏風》を描く。※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
―― この頃、茨木猪之吉、桑重儀一、長谷川昇らとよく遊ぶ。
1916(大正5)年 35歳 1月3日、『アルス美術叢書9 大雅堂』(アルス)が刊行となる。
1月3日、辰沢延次郎宅を、横山大観・下村観山・今村紫紅と訪ね、日本美術院主幹を引き受けてもらう。紫紅と目黒赤曜会の試筆会へ行く。
1月7日、小山正太郎が亡くなる。
1月8日、小山正太郎の訃報を聞き、小石川へ行く。
1月11日、小山正太郎の葬儀で接待係を務める。
1月12日、横山健堂に沖縄にいる知友宛の紹介状を書いてもらう。
1月13日、太平洋画会に退会願いを送る。沖縄旅行に出発。途中、大阪・和歌山に寄り、船で別府、中津、耶馬溪をまわり、大雅堂などを見学する。
2月3日、那覇港に到着。約一ヶ月間沖縄に滞在。仲地唯謙(那覇区会議員)の別荘で世話になり、仲地の従弟にあたる山城正綱が寝起きを共にし、沖縄での生活を支えてくれる。
2月、現代書籍雑誌意匠装幀展(10~16日、主催:読売新聞社、会場:同社楼上)に、小杉が装画を手がけた『東海道五十三次絵巻』(金尾文淵堂, 1915)、口絵を手がけた『模範家庭文庫 新訳アラビヤンナイト』上・下巻(杉谷代水著, 冨山房, 1915~1916)が出品される。
2月28日、今村紫紅が亡くなる。
3月1日、沖縄からの帰途、九州を出たところで今村紫紅の訃報を新聞で知り、神戸下車の予定を変更して、東京へ直行する。
3月2日、沖縄旅行から帰京。東京駅まで村山槐多・水木伸一、弟の小杉甲午郎が迎えに来る。
3月3日、今村紫紅の弔問。
3月25日、淀橋の姉が6人の子を連れて遊びに来る。
―― 春、沖縄に取材した《南嶋帖》(出光美術館蔵)を描く。
―― 春、村山槐多が小杉家を出て、独立する。
4月、大阪産業博覧会美術部展(1日~5月31日、大阪市天王寺公園・大阪産業博覧会美術館)に《琉球小景》(水彩画)を出品する。
4月3日、原(三渓か)に呼ばれ、池大雅や蕪村などの南画のほか、琳派や中国の古画を見せてもらう。
4月、第2回日本美術院試作展(16~30日、東京市谷中・日本美術院)に、《なかぐすくの丘》、《乳する女》、《石割り》、《椿樹の家》(すべて水彩画)ほか2点を出品する。 ※出品作は『日本美術院百年史』4巻 pp.1023-1025によっているが、『中央美術』2巻5号 pp.115-116は〈未醒の出品は琉球土産の水彩画五点油絵一点〉としている。
4月16日、肺病で入院中の義妹・相良フサを見舞いに宇都宮へ行き、日光に泊まる。
4月18日、森田恒友に、平福百穂を日本美術院に出品するよう誘ってほしいと手紙を出す。
4月29日、姉ヤヲが、母の世話をするために朝鮮へ渡る。
5月、太平洋画会同人を辞したことが報じられる。
5月11日、ポプラ倶楽部vs新聞記者の撞球試合(田端・ポプラ倶楽部)に参加。ほかの参加者は、杉村楚人冠、中川八郎、藤井浩祐、満谷国四郎、横山健堂ら。
5月、第15回三越洋画会展(13~18日、大阪市)に《馬》を出品する。
5月、日本美術院同人による琅玕洞主催特別展(20~21日、東京市浜町・日本橋倶楽部)に、《水郷》《海島》を出品したほか、横山大観との合作《荒川絵巻》も特別陳列される。
5月から6月にかけて、油彩画壁画《南島》を制作。 ※再興第3回院展出品作か
6月10日、日本美術院で開かれたタゴールの講演会および晩餐会に出席する。
6月12日、午前中、渡辺(六郎か)と共に、日本美術院のインドの小品展、日本美術協会の小林文七蔵品展を観る。昼食時に小川千甕と会う。夜、荒井寛方と会食する。
6月、琅玕洞展覧会(23~30日、大阪市中之島・銀水楼)に、横山大観との合作《荒川絵巻》を出品する。同展出品作は東京から大阪に移動中、数点の作品が何物かに切り裂かれるという事件に遭い、そのなかに小杉の《琉球の為朝》があったという。
6月、《南海の美 薩摩富士》(素描)を描く。※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
6月24日、天狗倶楽部のメンバーと、押川春浪を追憶する一泊旅行に出発。春浪が2年間静養した九十九里の片貝村を目指す。同行者は、大村(読売新聞記者)、小川重ちゃん、押川清、倉田白羊、桑重儀一、玉椿憲太郎、針重敬喜、藤井浩祐、弓館小鰐。宿で加藤農学士が合流。
7月5日、沖縄から山城正綱が画家を目指して上京。以後数年間、小杉邸で面倒をみる。
8月4日、北海道旅行に出発。8月5~6日、岩手県平泉町に立ち寄り、達谷窟石仏や中尊寺など見物する。
8月7日、函館を経て小樽に到着。長谷川昇と行動を共にする。19日まで滞在した後、20日に帰京。
8月、某富豪の新邸を飾る琉球をテーマにした壁画を制作中と報じられる。
9月7日、フランス留学する吉江喬松(孤雁)の壮行会に出席(麻布・龍土軒)。発起人は小杉のほか、窪田空穂・中村星湖・前田晃・吉岡信敬ら。
9月、再興第3回院展(11~30日、竹之台陳列館)洋画部に、《或日の空想》《南島》《鳳仙花》(すべて油彩画)を出品する。同展は京都市(岡崎公園・第一勧業館)へ巡回。《或日の空想》《鳳仙花》が売れる。※現在、《或日の空想》は個人蔵
9月21日~10月4日、水戸に滞在する。杉田雨人と加波山登山。雨人のための屏風絵揮毫。富田別荘にて五百城文哉の油彩画《袋田の滝》を見る。
10月6日、《石狩》(水彩画)を描く。
10月14~18日、宮城県・福島県を旅行。松島(瑞巌寺)、仙台(伊達家別荘)、塩竈、飯坂温泉、福島などをまわる。
10月22日、公田連太郎と龍雲院で開かれた南隠老師十三回忌法会に出席する。
10月26日~11月5日、院展の巡回にあわせ、京都・奈良を旅行する。奈良では法隆寺、奈良博物館、三月堂など見学。京都では都鳥英喜や冨田渓仙と会う。藤井浩祐と男山八幡宮、藤井・吉田白嶺と愛宕山に登るなどする。
11月12~14日、《荒川絵巻》を描き直すため、埼玉県の荒川上流・長瀞へ行く。
12月、三都大家新作画幅展(8~15日、東京市・髙島屋)に、《石切山》《牽牛星》(ともに日本画)を出品する。※現在、《石切山》は小杉放菴記念日光美術館蔵
12月、伝説に寄せる展覧会(7~14日、東京市京橋区南鞘町・琅玕洞)に、《桃源漁郎絵巻》(紙本着色)を出品する。※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
12月30日、欧州留学から帰国する山本鼎を、森田恒友と共に国府津まで迎えに行く。
―― この年、針重敬喜が、押川春浪の跡を引き継ぎ『武侠世界』の二代主筆に就任する。
―― この頃、妻の妹・相良ミツ、同じく弟で日光小学校から府立第三中学へ進学した相良敏三らが同居する。
1917(大正6)年 36歳 1月18日、朝鮮にいる母親が重病との電話を受ける。
1月29日、朝鮮から帰京する。東京駅に長男・一雄、甥の小杉正城、下宿人の山城正綱が迎えに来る。
2月、沖縄旅行の水彩画をもとに、《なかぐすくの丘》(油彩画)を描く。※現在、栃木県立美術館蔵
3月6日、長谷川昇邸の画室開きに出席。ほか、岡本一平・尾島菊子・安井曾太郎・山下鈞[池部鈞]・山本鼎・横山大観・赤曜会の画家たちが同席。大観と一平が喧嘩を始めたのをきっかけに大騒ぎとなる。
3月7日、倉田白羊・長谷川昇・森田恒友・山本鼎との会合で、日本美術院への参加を勧める。
3月25日、初めての中国旅行に向けて出発する。
4月、琅玕洞展(22~24日、東京市・日本橋倶楽部)に《寒山》《徐福》《薄暮》を出品する。同展は大阪・銀水楼へ巡回。
5月、横山大観と第3回珊瑚会展(東京市日本橋・白木屋)を見て、小川芋銭、川端龍子、森田恒友を日本美術院同人にする相談をする。小杉はとくに芋銭の作品を賞讃する。
5月頃、村山槐多が、相良キミ(小杉夫人の妹)をモデルに、《バラと少女》を小杉家の母屋を借りて描く。※現在、東京国立近代美術館蔵
6月、竹百趣画幅展観(10~17日、大阪市・飯田呉服店美術部)に、《夕凉》《竹裡》(ともに日本画)を出品する。
6月12日、日本美術院との掛け持ちが困難になったため、森田恒友と共に二科会を退会する。
7月、第1回日本美術院同人作品展(15~19日、大阪市心斎橋・髙島屋[飯田]呉服店)洋画部に、《西湖の朝》《僧》《武昌の新緑》(以上油彩画)、《葛嶺ヨリ西湖》《西湖孤山》《採芹》《牧羊者》(以上水彩画)を出品する。
7月、大阪髙島屋別邸内に滞在する。
8月18~19日、大阪から帰京後、藤井浩祐・満谷国四郎と共に、潮来(現・茨城県潮来市)、津宮(現・千葉県香取市津宮)、佐原(現・香取市佐原)など、霞ケ浦周辺を旅行する。『画人行旅』195頁所載「水郷十二首」は〈大正七年作〉とあるが誤りで、この旅行で作った短歌である。
8月、山本鼎が田端500番地の借家を借りる。翌年、日暮里に転居。
9月3日、シカゴ大学人類学教授F・スタールが自宅に訪ねてくる。1913年にも一度訪ねてきたことがあるという。
9月、再興第4回院展(10~30日、竹之台陳列館)西洋画之部に、《山幸彦》《瀟湘》《西湖》(すべて油彩画)を出品する。同展は京都市(岡崎公園・第一勧業館)へ巡回。※現在、《山幸彦》はアーティゾン美術館蔵
9月、日光へ帰郷する。
10月、日本美術学院記念展(20~26日、東京市南伝馬町・髙島屋呉服店)に《水牛》(日本画)を出品する。※現在、栃木県立美術館蔵
10月、個展「小杉未醒近作展」(24~28日、大阪市心斎橋・髙島屋)を開催。あわせて画集『未醒画賸』(飯田呉服店美術部)も刊行する。出品作はすべて日本画で次の33点。《煉丹》《白衣婦人》《桃源漁郎》《洗馬》《天河》《昼夢》《月暈》《浣紗》《行吟》《竹裡荘》《古塔黄昏》《宝俶塔》《支那風景(額)》《支那風景(紙本長巻之一~七)》《洞庭夜月》《潚湘雨泊》《松下清談》《拾得》《山水》《潚湘八景帖之一(洞庭秋月)》《潚湘八景帖之二(遠浦帰帆)》《潚湘八景帖之三(江天暮雪)》《潚湘八景帖之四(山市晴嵐)》《潚湘八景帖之五(平沙落厂)》《潚湘八景帖之六(煙寺晩鐘)》《潚湘八景帖之七(潚湘夜雨)》《潚湘八景帖之八(漁村夕陽)》。 ※現在、《煉丹》は小杉放菴記念日光美術館蔵、《白衣婦人》は個人蔵
10月から12月にかけて、院展京都展や自身の大阪個展にあわせて関西旅行。滞在中、髙島屋に船を借りてもらい、日本美術院同人たちと琵琶湖周遊を楽しむ。安土城で摠見寺の松岡範宗和尚に初めて出会う。
12月、日本美術院同人新作展(19~23日、東京市京橋南鞘町・琅玕洞)洋画部に《八瀬》を出品する。
1918(大正7)年 37歳 1月1日、『支那画観』(アルス)が刊行となる。
2月12日、田端の文化人たちとの親睦会「交換晩酌会」に出席する。鹿島龍蔵・針重敬喜・山本鼎ら同席。同会は道閑会の前身。
2月14日、横山大観・森田恒友と、細川侯邸を訪ね、白隠や仙崖を見せてもらう。
2月15日~3月7日、横山大観・下村観山・木村武山らと大阪の浜寺に滞在。絵画制作のほか、太子伝など読む。途中、2月28日~3月1日にかけて京都にも足を延ばす。
3月8日、相良フサが脊髄で入院中。
3月15日、交換晩酌会が鹿島宅で開催。小杉・針重敬喜・山本鼎に加え、新たに香取秀真が参加する。
3月、日本美術院第4回試作展(16~31日、東京市谷中・日本美術院)洋画部に《幽居新緑》を出品する。
3月19~20日、《老道士》を描く。
3月28~29日、《月下梅林》を描く。※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
3月から4月にかけて、歯痛に悩まされる。
4月3日、午前中に田中松太郎が来訪。午後に牧野富太郎が植物雑誌の集金に来訪する。
4月7日、水戸へ行く。杉田雨人の火事見舞い。
4月18日、國華社にアジャンタ壁画の摸写を見に行く。
4月27日、満谷国四郎の娘の結婚式に出席する。
4月から5月にかけて、横山大観・木村武山・冨田溪仙との昨秋の琵琶湖周遊取材をもとに、絵巻《湖山秋色》を描く。7月の第2回日本美術院同人作品展に出品。
5月、第3回琅玗洞展覧会(24~25日)に、《月下梅林》《葛由仙人》(ともに日本画)を出品する。 ※現在、《月下梅林》は小杉放菴記念日光美術館蔵、
5月、三越絵画展(25~30日、大阪三越)に《晩凉》《幽居》(ともに日本画)を出品する。
5月17~28日、岳父・相良楳吉および柳沼澤介と上方へ旅行する。小杉の亡父・小杉富三郎が生前、楳吉と交わしていた約束を婿2人で果たすため。名古屋城、伊勢神宮、奈良、和歌山、紀三井寺、神戸、明石、京都をまわる。
6月11~14日、東京府青梅町および御岳山を旅行する。
6月22日、交換晩酌会が香取秀真宅で開催。芥川龍之介に初めて会う。
7月、小品画展観(5~9日、松屋呉服店)に、《阮咸》、《風神雷神》(双幅)を出品する。
7月8日、朝、二兄・小杉四郎がチフスに罹り陸軍病院に入院し危篤状態にあると、青島から電報が届く。夜、荒井寛方の歓迎会に出席する。
7月9日、二兄・小杉四郎が青島で亡くなり、電報で通知が来る。
7月11日、《柳陰読書》を描く。
7月、第2回日本美術院同人作品展(12~18日、東京市京橋・髙島屋呉服店)日本画部に《湖山秋色》(長巻)を、洋画部に《青嵐》《大和路》(以上油彩画)、《漁夫》(水彩画)を出品する。同展は大阪市(心斎橋・髙島屋[飯田]呉服店)へ巡回。
7月16日、日本美術院評議員有志8名が偕楽園(小石川区伝通院前の中華料理店か)に集合。笹川臨風の脱退問題について協議するも紛糾し、辰沢延次郎と小杉・長谷川昇・藤井浩祐・安田靫彦が衝突。辰沢は笹川に感謝状・功労金を送ることを要請し、笹川の辞表は承認される。
7月24日、東京駅で亡兄・四郎の遺骨を迎える。姉と長兄も駆けつける。
7月31日、小杉四郎の葬儀のため、日光へ帰郷する。8月1日夜に帰京。
7~8月、《西王母》(油彩画)を描く。
8月、聖徳太子の絵に苦心した結果、中止し、この年の院展出品を見合わせる。
8月20日、牧野富太郎を訪ね、植物図鑑『本草図譜』を借りる。
9月1日、末弟・小杉甲午郎が入営する。
9月2~16日、茨城県牛久保(現・ひたちなか市)へ先に行っていた家族を追って滞在する。6~7日に一時帰京し、渡辺六郎から日本美術院洋画部に毎年100円の支援を承諾してもらう。8日に再び牛久保へ。9日にジヨットを摸写。15日に杉田雨人のために尺五《水荘訪客》を描く。牛久保の漁師から、漁運稲荷神社の《修祠記碑》の撰文を頼まれる。
9月、再興第5回院展(10~30日、竹之台陳列館)が開催されるも、出品はせず。
9月13日、実業家の渡辺六郎と大阪の岸本吉左衛門が日本美術院の後援者となり、奨励金補助をすることが決定する。
9月24日、釈清潭(小見清潭)に、漁運稲荷神社《修祠記碑》撰文稿の添削を依頼する。
9月27日、小川芋銭が来訪。漁運稲荷神社《修祠記碑》の篆額を依頼する。
10月、東都作家新作展(1~5日、白木屋呉服店)に《秋思》(絹本墨画)を出品する。 ※現在、《秋思(窓辺佳人図)》の作品名で小杉放菴記念日光美術館蔵
10月7~15日、絵皿の《瀟湘八景》を描く。
10月13~15日、漁運稲荷神社《修祠記碑》撰文を書く。その後、《修祠記碑》は杉田雨人寄附の形で、漁運稲荷神社(現・ひたちなか市牛久保)に建立される。
10月15~22日、針重敬喜・藤井浩祐・満谷国四郎・弓館小鰐らポプラ倶楽部のメンバーと、名古屋、京都、大阪で試合旅行。
10月20日、ポプラ倶楽部メンバーと別れ、奈良県多武峯、京都をまわり、横山大観と合流。
10月21日、横山大観・吉田白嶺・谷上隆介らと大津へ。南近江まで船で移動した後、瀬戸川を下って京都へ向かう。
10月22日~11月26日、大阪府・浜寺に滞在。二尺五寸《水荘訪客》など描く。途中、11月23日に奈良県吉野へ足を延ばす。
11月10日、美術館期成同盟会(上野、精養軒)に出席する。
11月、中島重太郎主宰の日本風景版画会から、木版画《日本風景版画 第七集 琉球之部》(彫:伊上凡骨)を発行する。
11月、美術院同人新作展(14~16日、東京市上野・常盤華壇)に《七夕》を出品する。
11月、三越絵画展(23~29日、大阪三越)に《春景山水》を出品する。
11月、現代名家新作画幅展(大阪市心斎橋・髙島屋)に《老子》を出品する。 ※現在、スミソニアン博物館蔵
11月、妻・二男と栃木県今市へ行く。墓参りをした後、日光へ移動。12月1日帰京。
12月、三越絵画展覧会(12月1~7日)に《漁樵問答》を出品する。
―― この頃、山城正綱(画学生)、相良邦之助(義弟)、相良キミ(義妹)、小杉正城(甥)らが同居する。
1919(大正8)年 38歳 1月6~9日、森田恒友と房州旅行。現地の倉田白羊と合流し、富浦、那古、布良、金谷などをまわる。倉田の狩猟に同行し、関心を持つ。
1月14~17日、《漁村夕陽》を描く。
1月18~19日、《烟寺晩鐘》を描く。
1月末、《太子画稿》を試みる。
2月1日、倉田白羊・桑重儀一・山本鼎と中野のほうへ狩猟に行く。
2月、第5回日本美術院試作展(1~10日、竹之台陳列館)に《瀟湘八景》(日本画)を出品する。
2月5~8日、桑重儀一と茨城県潮来周辺を旅行。十六島、浪逆浦、稲荷山などをまわる。
2月11~23日、《山水長巻 山之巻》を描く。
2月16日、日本美術院の評議員を辞めたいと考える。
2月20日、村山槐多が病死する。
2月21日、村山槐多の訃報を聞く。
2月22日、村山槐多の火葬を、水木伸一・山城正剛と共に送る。夕方、都鳥英喜の渡欧送別会に出席。夜、横山大観を訪ね、日本美術院評議員辞退を申し出る。
2月26日、横山大観に頼んだ屏風が完成。長女・百合への雛屏風として、小杉が羽衣天女を、大観が松原と富士を描いたもの。 ※現在、《三保の松原・天女の図》の作品名で個人蔵
2月28日、村山槐多の葬儀(功徳林寺)に参列する。
3月1~8日、絵巻《山水長巻 水之巻》を描く。
3月15日、《吉野路》(水彩画)を描く。
3月17日、亡父十周忌のため、相良邦之助を連れて日光へ帰郷。妻と二郎は4日前に先発していた。
3月20日、亡父の墓前にて十周忌祭。一人先に帰京する。
3月22日、田端の画室の解体にかかる。5月にかけて改築。画室を母屋から引き離し、画室跡に玄関と台所と八畳の部屋を建てる。
3月、新代印画展覧会(23~28日、京橋区南伝馬町・たかしまや呉服店)開催。同月の『中央美術』予告記事に小杉の名があるが、同誌5月号展評から、出品はしなかったと推定される。
3月24~25日、《水郷初夏》(水彩画)を描く。
3月30~31日、《深柳打魚》(日本画)を描く。
4月1日、茨城県古河の城東楼に一泊する。
4月1日、朝鮮から長姉ヤヲが上京、しばらく滞在する。
4月3~6日、《桃に鳩》(水墨画)を描く。初めて描いた花鳥画で、〈花鳥かけぬ画家は真の日本画の分らぬ画家なり〉と日記に記す。
4月7~9日、2枚目の《桃に鳩》を描く。
4月9日、桑重儀一と茨城県古河へ行き、城東楼に一泊する。
4月11日、岸本吉左衛門が洋行するため、日本美術院洋画部同人がカフェーライオンに集まる。
4月21~22日、《深柳婦人》(日本画)を描く。 ※6月の琅玗洞記念展出品作《柳下美人》と同一作品か
4月26日、しばらく日本画の制作を止めることにする。
4月28日~5月3日、奈良へ一人旅。途中大磯に寄り、安田靫彦を訪ねる。29日に奈良着。奈良帝室博物館(現・奈良国立博物館)で《木造十大弟子立像》と《八部衆立像 阿修羅》などをスケッチする。5月2日、高島米峰からの紹介状で法隆寺管長(佐伯定胤)に会い、聖徳太子について教えを乞う。
5月、第3回日本美術院同人作品展(10~15日、大阪市心斎橋・髙島屋[飯田]呉服店)日本画部に《水之巻》《山之巻》を、洋画部に《水郷初夏》《薄氷》(ともに水彩画)を出品。《水之巻》は潮来、《山之巻》は日光を描いたもの。
5月10日、天竜舟下りに誘うため森田恒友を訪ねるも、旅行中で不在。
5月11~15日、天狗倶楽部の平塚断水と長野県飯田町を旅行。製氷会社の渡辺松太郎の案内で、天竜川の舟下りを楽しむ。
5月15日、藤井浩祐の結婚披露宴に出席する。
5月、壁画《聖徳太子図》の制作に苦心。
6月、新緑百画幅会(11~15日、髙島屋呉服店)に《浴風詠帰》を出品する。
6月、琅玗洞記念展覧会に《柳下美人》《水辺》を出品する。同店が上野山下に移転した記念展。 ※《柳下美人》は、現在《柳下美人図》(宮城県美術館蔵)として知られている作品か
7月13日、壁画《聖徳太子図》の制作を断念する。
7月13~17日、平泉と吉野の絵巻制作のため、岩手県平泉(現・西磐井郡平泉町)を旅行する。毛越寺、中尊寺などまわる。
―― 夏、《吉野秋意図》(紙本着色)を描く。 ※現在、《吉野山》の作品名で出光美術館蔵
8月上旬から中旬にかけて、壁画《老子出関》を描く。 ※現在、出光美術館蔵
8月7日、東京日日新聞社主催で計画されている「O・B(オールドボーイズ)庭球大会」の相談会に出席する。
8月14~15日、中沢臨川のために《竹林図》を描く。
8月19日、横山大観に日本美術院評議員の辞意を改めて伝える。
8月21日、横山大観・辰沢延次郎から評議員辞意について説得される。
8月29日、評議員辞意について、横山大観・辰沢延次郎へ改めて手紙を出す。
8月30~31日、東京日日新聞社が主催する、現役学生以外は参加自由とする「O・B(オールドボーイズ)庭球大会」(東京市神田・東京高等商業学校コート)に参加する。ポプラ倶楽部の宴席で、小杉や針重敬喜らが東京日日新聞社運動部長だった弓館芳夫(小鰐)に勧めて実現した大会。現在の毎日テニス選手権の第1回展として数えられている。小杉も一戦出場するも敗退。針重敬喜・山崎喜作チームが優勝し、都川(東京市大川端)での天狗倶楽部・ポプラ倶楽部10名ほどの祝勝会に出席する。
9月、再興第6回院展(1~29日、竹之台陳列館)洋画部に、《壁画出関老子》(油彩画)を出品する。同展は京都市(岡崎公園・第二勧業館)へ巡回。 ※現在、出光美術館蔵
9月2~6日、茨城県那珂郡湊町(現・ひたちなか市)の宿へ妻子を迎えに行き、滞在する。
9月10日、交換晩酌会が開催。鹿島龍蔵、香取正彦、釈清潭(小見清潭)、中澤弘光、針重敬喜、森田恒友、山本鼎らと出席する。
9月12~15日、《泰山木》(日本画)を描く。 ※現在、《たいざん木》(光ミュージアム蔵)として知られている作品か
9月20日、《晩秋帰院》(日本画)を描く。新潟県出雲崎から塚本格道和尚(全久院)と佐藤吉太郎(郷土史家)が来訪。良寛の遺跡保存について相談を受ける。
9月21日、平塚断水の兄・平塚晴俊のために武州御岳の紙本横物を描く。外務省の晴俊には滞欧中、ロシアで世話になったことがあり、そのお礼もかねた。
9月25~26日、《月暈》(絹本着色)を描く。
9月27~28日、《白衣観音》(日本画)を描く。
9月28~31日、《鯉》(日本画)を描く。
10月3日、《漁夫》(日本画)を描く。
10月8~10日、《秋晴》(紙本着色)を描く。
10月8日、小杉正城が犬を貰ってきたので「黒」と名づける。
10月11~17日、《前赤壁》(日本画)を描く。
10月14日、桑重儀一・平塚断水と高浜(茨城県石岡市)へ一泊旅行する。
10月20~28日、奈良県・和歌山県を旅行する。20日に京都で川端龍子らと合流。21日から龍子と2人で吉野、十津川、那智をまわり、大阪で別れる。
10月29日~11月12日、院展京都展にあわせ京都府・滋賀県を旅行する。30日に吉田白嶺と清水六兵衛を訪ね、陶器に絵を描く。11月1日に石山寺(大津市)、2日に比叡山(京都)。5日に弓館小鰐と近江古城山を登る。7日に長浜から汽船で琵琶湖遊覧を楽しむ。
11月、三越主催日本画展(三越呉服店)に《漁夫》を出品する。
11月11日、村山槐多遺作展(東京市神田・兜屋画堂)初日の槐多追悼会に出席する。
11月12日、京都駅を出た電車のなかで、偶然岡上徂水と再会する。
11月、ホトトギス社主催第4回俳画展に出品する。
12月4日、群馬県伊香保で開かれた不同舎旧友会の集まりに出席する。
12月7~10日、房州で倉田白羊と猟を楽しむ。
12月、個展「小杉未醒新作横幀展」(11~14日、東京市上野三橋・琅玗洞)を開催。《秋苑》《昼の月》《湖畔》《月色虫声》《黒髪山》《甲州の山》《雨後》《暮雲》《山海小巻》《新緑》など日本画11点を発表する。
12月12日、小杉の狩猟熱が横山大観にも移り、二人で鉄砲を買いに行く。
12月23日、小杉正城が大学病院で手術を受ける。
12月24日、大町桂月・岡上徂水・白河鯉洋らと、田岡嶺雲紀念会の打ち合わせ(木挽町・山月嶺)。初めて河豚を食べる。
12月25日、末弟・小杉甲午郎が会津の山中から帰ってくる。
12月25日、白河鯉洋が亡くなる。
12月26日、白河鯉洋の訃報を『東京日日新聞』で知る。
12月27日、小杉・桑重儀一・長谷川昇・森田恒友・山本鼎の40歳に入るを送る宴会が催される。
12月28~31日、桑重儀一・吉田白嶺を連れて日光へ帰郷。宇都宮駅から大谷に寄ろうとするも雪で行けず。日光で狩猟を楽しむ。
12月31日、鹿島龍蔵主催の忘年会(吉原・いづ虎)に、芥川龍之介・香取秀真・山本鼎らと出席する。
―― この頃、小杉の弟・甲午郎が長野県松本市で暮らし始める。同地で電気会社を経営していた中沢臨川の世話になる。
1920(大正9)年 39歳 1月8~10日、松内冷洋、大村幹(新聞記者)と伊豆に旅行。狩猟を楽しむ。
1月、中央美術協会創立記念展(23~25日、日本橋倶楽部)に《雲山》を出品する。
2月、第6回日本美術院試作展(1~10日、竹之台陳列館)が開催されるも、不出品。
2月11~14日、森田恒友と雪の信州旅行。大屋(現・上田市大屋)で山本鼎の父・山本一郎医師の世話になる。12日から桑重儀一・山本鼎が合流。沓掛、里野温泉をまわる。
2月、絵巻《湖山秋色》を描く。
2月25日、芥川龍之介宅にて交換晩酌会。鹿島龍蔵・香取秀真・山本鼎らと出席する。平塚雷鳥が参加予定だったが欠席。
4月、日本美術院派新作展(18~24日、福岡市博多呉服町・大平生命保険会社)に《前赤壁》(日本画)を出品する。
4月、《湖山秋色》長巻二巻が完成する。
4月8~9日、平塚断水と茨城県古河へ一泊旅行する。
4月10日、横山大観と、表慶館の「醍醐寺の寺宝展」を見る。とくに文殊渡海の図、閻魔天の図、金剛夜叉明王の図に感心する。
4月22日、『李太白集』を読む。
5月1~11日、日本美術院同人との瀬戸内海旅行。1日、倉田白羊と東京駅へ行き、横山大観、荒井寛方、川端龍子、長野草風、橋本静水、平櫛田中、藤井浩祐、筆谷等観、山村耕花、吉田白嶺らと合流。横浜で前田青邨と合流。沼津・修善寺に立ち寄り、京都で木村武山と合流。2日に厳島、3日に尾道、4日に鞆ノ浦、5日に福山をまわり、10日夜12時帰京に向けて出発となる。
5月、甥・小杉正城が手の病気で入院する。朝鮮から正城の姉・千代(放菴の姪)がかけつける。
5月20日、小杉正城が亡くなる。21日に火葬。
5月27日、横山大観を誘い、農民美術展を見る。
5月29日、国木田独歩の長女・貞子の葬儀に参列する。
6月9日、横山大観・吉田白嶺と、千葉県北條町(現・館山市)の倉田白羊を訪ねる。木村屋に投宿し、自動車で外房から白浜、布良をまわる。帰宿後、森田恒友が遅れて合流。10日に鷹之島のほとりで釣りを楽しんだ後、帰京。
6月18日、松方幸次郎(川崎造船所社長)がヨーロッパで収集した絵画・彫刻を、足立源一郎、森田恒友、山本鼎と共に見せてもらう。
6月22日、芥川龍之介が来訪。
6月25日、『槐多の歌へる』の会に出席する。
6月、《阿修羅》(絹本着色)を描く。
7月5~8日、水村取材のため、千葉県銚子に旅行する。利根川汽船で佐原、牛堀、潮来、鉾田、北浦などまわる。
7月17~18日、渡辺六郎に招かれ、横山大観・長野草風・吉田白嶺らと、箱根・塔ノ沢温泉の福住楼に一泊する。
7月、現代名家新作画幅夏季展観(江戸堀・髙島屋呉服店)に《鳰湖巻物》を出品。「鳰の湖(におのうみ)」は琵琶湖の別名。
7月30日、東京日日新聞社が明治神宮竣工を記念し、この日(明治天皇崩御の日)から2ヶ月間月極購読の契約者に、小杉原画になる記念附録《明治神宮》(二十度刷原色オフセット版、新聞一面大)を頒布するイベントを催す。
8月4日、この年の院展に日本画の出品を考えるもうまくいかず。
8月9日、中沢臨川の訃報を聞き、荻窪へ弔問に行く。死顔の写生を頼まれる。
8月16日、制作中の屏風がうまくいかず、この年の院展には出品しないことを決める。
8月17日、日記に〈予は茲に岐路に立つを見る、油絵は遂に予と分袂せんとするらし…〉と記す。
8月23日、〈油絵具次第に遠きものに見え 水と墨との騰蒸眼前に在る〉と日記に記す。
8月24日、岸本吉左衛門が収集したフランス近代絵画を見せてもらい、院展に陳列するべき作品について打合せをする。横山大観を訪ね、来秋こそはフランスのサロンに日本美術院の日本画を並べることを実現させたいと相談する。
8月27日、院展鑑査の場にて、院展会場にフランス近代絵画を並べることについて、平櫛田中が難渋を示す。評議員会にて、院の研究室に別会場として開催することに決まる。
8月28日、前日の結果を受け、山本鼎から日本美術院脱退の意向を聞き、共に脱退することを決める。倉田白羊、森田恒友らもこれに続く。
8月29日~9月2日、妻子が先発していた茨城県那珂郡湊町(現・ひたちなか市)に滞在。29日に杉田雨人を訪ね、村山槐多遺作の盆に刻むための文などを書す。 ※現在、村山槐多《焼絵盆「茶煙残夢」》(岡崎市美術博物館蔵)として知られている作品か
―― 初秋、《釣秋》(絹本着色)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
9月、再興第7回院展(1~29日、竹之台陳列館)開催されるも、出品せず。
9月16日、フランス留学から帰国した吉江孤雁を訪ね、吉江からフランスのサロンに日本画の出陳を望む相談を受ける。
9月17日、横山大観に日本美術院洋画部の連袂脱退について打ち明ける。大観からは、後日日本画家としての復帰を望まれる。
9月28日、辰沢延次郎、藤井浩祐に日本美術院脱退について話す。藤井からは留任を迫られる。
9月27日、再興第7回院展会期中、足立源一郎、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎ら、洋画部同人全員と脱退を申し出る。
9月29日、木村武山が日本美術院同人を代表して、小杉・森田恒友・山本鼎を訪問し、留任を勧請するが決裂。院同人会にて武山の報告後、洋画部同人の脱退が承認される。
10月2日、日本美術院洋画部脱退者の送別会(東京市下谷・伊予紋)に出席。横山大観が「送別の辞」を述べ、小杉が「惜別の辞」で受ける。
10月6~29日、森田恒友と長野県・中房温泉(現・安曇野市)周辺を旅行する。共に燕岳に登山した後、恒友は10月10日先に帰京。10日に絵巻《江山秋意》を描く。22日に松本市へ行き、弟の甲午郎と会う。25日に満谷国四郎が、26日に桑重儀一・柚木久太らが合流。28日に満谷・桑重らと、浅間山麓の奇岩「鬼押出し」まで足を延ばす。
―― 秋、三越絵画展(大阪三越)に《晴嵐》を出品する。
11月7日、中沢臨川追弔野球試合に参加する。
11月8~9日、桑重儀一・針重敬喜と茨城県古河へ狩猟に行く。
11月12日、相良邦之助が武侠社に務めるのは来冬までと決まる。
11月16日、長兄・小杉彦治、姉、妻ハル、二男・二郎が、正城の納骨のため日光へ行く。子供の時に日光で遊んだ〈望月のなかちゃん〉が夫を連れて来訪する。
11月から12月にかけて、長男・一雄、左手の外科手術を受ける。
11月15日~12月5日、杉田雨人のために二曲一双金屏風《ブルトン人の舞踊》を描く。 ※現在、《楽人と踊子》(茨城県近代美術館蔵)として知られている作品か。
12月6日~10日、桑重儀一・針重敬喜と、茨城県太田村(現・稲敷市)に旅行する。太田氏の招きによる。桑重は9日先に帰京。
12月15日、桑重儀一・柚木久太の二人展を見る。
12月24日、新聞朝刊にて、麻布で医師をしている親戚・中村鉄二(東京市会議員)が「東京市疑獄事件」に巻き込まれたことを知り、驚く。
12月26日、芝にいる妻の妹・ミツが急病、27日に入院となる。
12月30日、ミツを見舞う。望岳楼での忘年会に出席。ほか、芥川龍之介、大町桂月、田山花袋、平福百穂、森田恒友、与謝野晶子、与謝野鉄幹らが出席。花袋とは10余年ぶりに会う。
―― 《秋山》(紙本着色)を描く。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
1921(大正10)年 40歳 1月2日、日本美術院同人らとの宴席で横山大観から復帰を迫られるも断る。
1月3日、小林文七のところで光琳の陳列を見る。
1月6~7日、横山大観・吉田白嶺と修善寺(静岡県)に一泊。狩猟を楽しむ。
1月8日、滝田樗陰・山本鼎の40歳歓迎会が開かれ、鹿島龍蔵・平福百穂・森田恒友と出席する。
1月13日、《太子菜猟》(油彩画)を描く。
1月15日~2月25日、雪の新潟県高田を旅行する。高田館に投宿。野尻湖まで足を延ばす。滞在中、花々の屏風を描く。2月5日に五百城文哉を明治20年代に寄寓させたことがあるという山田氏が来訪。五百城が残した詩稿を小杉へ譲りたいとの相談。2月6日に「清彦」という、数え年18以来の友人の訃報を知らせる電報が届く。2月7日に頸城村百間町の山田邸を訪ね、五百城の遺稿を譲り受ける。2月25日、長野県国分寺村の農民美術教室に寄り、山本鼎に会ってから帰京。
3月、『中央美術』が「小杉未醒論」を特集。石井柏亭、芥川龍之介、沼波瓊音、針重敬喜、藤井浩祐、水木伸一が寄稿する。
3月、長男・一雄が滝野川第一尋常小学校(現・北区立田端小学校)を卒業する。
3月2日、速水御舟の結婚披露宴に、横山大観と出席する。
3月5日、一雄を連れ、靖國神社相撲場へ「西洋相撲対柔道日米国際試合」を観に行く。前月にアメリカから来日したレスラーのアド・サンテルと、その弟子ヘンリー・ウエーバーによって叩きつけられた講道館柔道への挑戦状を、系列の弘誠館の柔道家たちが受け、武侠世界社の後ろ盾のもとで開催された試合だった。
3月7日、芥川龍之介が来訪。中国に旅行するため話を聞きたいとの内容。
3月8~11日、針重敬喜と、茨城県太田村(現・稲敷市)に旅行。太田氏の世話になる。鴨撃ちを楽しむ。
3月30日、自宅の物置でボヤ騒ぎがある。
4月、松本政子の渡欧計画を支援するための洋画会が組織され、有島生馬・正宗得三郎・山本鼎らと共に発起人となる。
4月、長男・一雄が聖学院中学校に入学する。
4月9日、長谷川昇のフランス留学帰国を祝い、山本鼎も交え東京四ッ谷の三河屋で牛鍋を食べる。
4月10~16日、森田恒友と茨城県太田村(現・稲敷市)に旅行。13~14日に横山大観と吉田白嶺が合流。
5月、《芭蕉行脚の図》を描く。
5月28日~6月1日、足尾・日光を旅行する。庚申山上で一泊。奥日光の半月山から中禅寺湖へまわり、米屋旅館に投宿。千手ヶ浜を見た後、下山して日光町七里。
6月16~17日、琅玕洞主人に誘われ、川端龍子・横山大観・吉田白嶺と大宮公園に行き、料亭・萬松楼に一泊する。
7月6~7日、横山大観・吉田白嶺と茨城県五浦に旅行。日本美術院研究所跡、下村観山・木村武山・菱田春草の旧居跡など見てまわる。
7月20日、森田恒友・長谷川昇と、〈大崎の辻の工場〉で陶画を描く。
7月31日、芥川龍之介宅にて、釈清潭(小見清潭)と共に芥川が中国旅行で買ってきた書画を見せてもらう。
8月29日~9月1日、日光へ帰郷する。石燈籠(無月燈籠)3基を、渡辺六郎・横山大観・自宅へ発送する。
9月1日、日光から帰郷後、森田恒友と洋画部解散後初の院展を見に行く。
9月、雑誌『錦絵』主催第1回風俗画展(23~27日、東京市神田今川橋・松屋呉服店)に《琉球風俗》を出品する。
10月2~9日、吉田白嶺・横山大観・大智勝観・中村岳陵・橋本静水ら、日本美術院同人たちと信越旅行。3日に新潟県高田。4日に一人で春日山登山。5日野尻湖。6日一人で長野県松本市に弟・甲午郎へ会いに行く。7日に北安曇郡大町(現・大町市)の木崎湖・中綱湖・青木湖を、8日に松本市島々をまわる。
10月10日、友人の新聞記者・大村幹の訃報を聞く。
10月11日、鎌倉の寺へ大村幹の弔いに行く。
10月12日、大村幹の告別会(橋物町・清浄軒)に出席する。
10月14~17日、桑重儀一・針重敬喜と茨城県太田村(現・稲敷市)に旅行。鴨撃ちを楽しむ。
10月29日、五百城文哉遺稿の整理を始める。清書を高瀬老人に頼む。
11月4~7日、森田恒友・山本鼎と星野温泉(長野県)に旅行。狩猟を楽しむ。
11月10日、足立源一郎・長谷川昇・山本鼎らと新団体(春陽会)の打合せ。梅原龍三郎を誘うこと、中川一政・今関啓司・山崎省三を招待、再来春開催とすることなど決める。
11月、現代名家新作展(東京市京橋・髙島屋呉服店)に《茸》(絹本着色)を出品する。 ※現在、《茸》(小杉放菴記念日光美術館蔵)として知られている作品か
11月29日、栃木県鹿沼で柿沼老母の葬儀に参列する。日帰り。
12月1日、淀橋の姉が、朝鮮に行くと来る。
12月7~11日、針重敬喜と茨城県太田村(現・稲敷市)へ旅行。鴨撃ちを楽しむ。
12月12日、足立源一郎・長谷川昇・森田恒友・山本鼎と新団体について打合せ。会名を「春陽会」とすることに決定。一般公募をどうするかは会友にも計ることなど協議する。
12月16日、足立源一郎・長谷川昇・森田恒友・山本鼎と共に、鹿島龍蔵に招かれる。
12月29日、天然自笑軒の田端会(交換晩酌会か)に出席する。ほか、芥川龍之介・鹿島龍蔵・香取秀真・菊池寛・森田恒友・山本鼎が出席。
1922(大正11)年 41歳 1月、《波旬の三女》を描く。
1月5日、足立源一郎、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎、山崎省三と春陽会結成について打合せ。14日に発表することを決める。
1月9日、平和記念東京博覧会洋画部の審査員を依頼されるが、断る。
1月14日、日本美術院脱退メンバーを中心に、春陽会を創立。東京市本郷・燕楽軒にて発会式が開かれる。会員=小杉未醒、足立源一郎、長谷川昇、倉田白羊、森田恒友、梅原龍三郎、山本鼎。客員=今関啓司、石井鶴三、木村荘八、中川一政、岸田劉生、椿貞雄、山崎省三、萬鉄五郎。当日、今関と萬は欠席。小杉はリーダー格として晩年まで同会を牽引する。
1月16日、田口掬汀を訪ね、竹の台茶話会入会の手続きを頼む。
2月14日、柳沼澤介と茨城県取手へ漁師の宮文助を訪ねる。宮は「刀水漁老」と呼ばれる小川芋銭の親友。以後、親しく交友する。
2月15日、桑重儀一と共に柳沼澤介の新居に招かれる。
2月18日、交換晩酌会を改めた、田端に住む文化人の親睦会「道閑会」に出席。天然自笑軒ちかくの道灌山に由来する。ほか、芥川龍之介、鹿島龍蔵、香取秀真、木村荘八、山本鼎が出席。
2月19日、吉田白嶺と共に、東京美術学校へ大村西崖将来の中国絵画写真展を見に行く。
2月23日、石倉翠葉と俳画展覧会の打ち合わせをする。
2月25日、桑重儀一と茨城県古河へ日帰り旅行に行く。
2月28日、針重敬喜・柳沼澤介と共に茨城県取手の宮文助宅に一泊。29日に宮と手賀沼へ狩猟に行く。
3月3日、摠見寺の松岡範宗和尚が来訪する。
3月19日、亡師・五百城文哉の妻が来訪する。
3月22日、山本鼎と共に細川護立と会見。春陽会への寄附や春陽会研究所敷地について相談する。
4月2日、苦心していた《芭蕉行脚の図》が完成する。
4月13~15日、針重敬喜・柳沼澤介・宮文助と茨城県高浜に旅行。河岸問屋・篠目八郎兵衛の世話になる。狩猟を楽しむ。
4月26日、《一閑人》(屏風)が完成する。
5月1日、妻の祖母・相良ミツが亡くなる。
5月3日、フランス現代美術展を見る。
5月6~7日、義祖母・相良ミツの墓参りのため、日光へ帰郷する。
5月11日、日本農民美術研究所・本館建設に対し、細川護立公爵、実業家の岸本吉左衛門、森村開作らによる寄付が決定。高田老松町の侯爵邸で開かれた祝宴に出席する。出席者は、平福百穂・森田恒友・山本鼎・吉田白嶺ら10人あまり。
5月13日、山本鼎のための農民芸術の会(細川護立邸)に出席する。
5月25日、東京帝国大学(現・東京大学)に建設される安田講堂について、壁画を描かせてもらえるよう掛け合ってもらえないか、講師をしていた沼波瓊音に依頼する。その場に安岡正篤が同席。
5月29日、岸田劉生の個展を見る。
5月、《老牛像》(紙本墨画)を描く。 ※岩野平三郎旧蔵、現在、福井県立美術館蔵
6月1日、唐手の名人・富名腰義珍が沖縄から上京していることを聞き、山城正綱に勧められ、会いにいく。針重敬喜(武侠社)、弓館小鰐(東京日日新聞記者)たちを同伴。ポプラ倶楽部での空手指導を依頼する。富名腰は5月に沖縄県学務課の指名を受け、文部省主催第1回古武道体育展覧会(東京市御茶の水・女子高等師範学校)で沖縄の唐手を紹介。展覧会終了後すぐに帰郷予定だったが、各方面から空手指導の要請等が多かったため、そのまま東京にとどまっていた。
6月2日、「大観・観山新作画展覧会」(東京市日本橋・三越本店)を見る。
6月3~4日、富名腰義珍から唐手、とくに公相君の型の指導を受ける。
6月、個展「未醒個人展覧会」(12~14日、中央美術協会主催、日本橋倶楽部)を開催。あわせて画集『未醒邦画集』も刊行する。発表作はすべて日本画で次の通り。《水辺の春意》、《暮雪》、《一閑人》、《湖村初秋》(絵巻)《梅花小禽》、《古事記三題》、《秋霧》、《山居》、《深雪開路》、《四季山水》(扇面画4点)、《四季草木》(扇面画4点)、《白樺》、《水荘詩客》、《桃花鳴鳩》、《早雪》、《波旬之三女》、《薬草》、《幽居新緑》、《秋林》、《秋山》、《浴馬》、《漁樵問答》、《寒煙樵夫》、《山海十種帖(加波山道、二荒山、日光屏風岩、庚申山、高見山、鞆の津、瀬戸内、石狩の海、松島、直江津)》、《水国八種帖(江戸崎、波逆浦、鹿島、浮島、十六島、十二橋、筑波山、干潟)》、《玩咸》、《行脚芭蕉》。 ※現在、《水辺の春意》は《母》の作品名で田端文士村記念館蔵、《早雪》は《耶馬溪図(早雪)》の作品名で栃木県立美術館蔵
6月、『中央公論』6月号が「小杉未醒の日本画」を特集。またこの号から、小川芋銭、小林古径、平福百穂、森田恒友、安田靫彦と並び同誌の口絵を描くようになる。
6月22日、義弟・相良邦之助が亡くなったと電報あり。〈予が家には甲午郎と邦之助とを先づあづかり 次に正城と敏三とを預る 正城既に死し 邦之助亦死す 各々一人の青年予に先立つこと奇なりと云ふべし〉と日記に記す。
6月23~24日、相良邦之助の火葬等に立ち会うため、日光へ帰郷する。
7月1~4日、小川芋銭・宮文助と栃木県益子に旅行。日下田邸の世話になり、陶器への絵付け、宮の弟や日下田家のための屏風など描く。
7月11日、平福百穂に、義妹・相良キミの弟子入りを頼む。
7月13日、前日小杉邸に泊まった宮文助に誘われ、柳沼澤介と茨城県取手に網猟に行く。
7月17日、日光から岳父・相良楳吉が上京。キミを連れて平福百穂のもとへ入門に行く。
7月29日、日露戦争で共に従軍した蘆原緑子が、17年ぶりに米国から帰国・来訪する。
8月7日、沼波瓊音と連句「青麦春雨」を完成させる。
8月8日、中川八郎の告別式に参列する。
8月11日、横山大観・芥川龍之介と料亭伊予紋にて会食。大観に芥川を紹介する。大観は芥川に、「あの文章が出来て、絵が作れぬ筈はない」と絵を描くことを勧める。
8月12日~18日、大町桂月・神代種亮と青森県蔦温泉周辺を旅行。神代とは19日に別れる。
8月19日、青森県から山形県酒田へ移動。佐藤氏の世話になる。 ※佐藤良治か
8月20~21日、新潟県象潟を旅行する。
8月22日、宇都宮を経て、家族が待つ日光へ帰郷。24日単身帰京する。
9月22日、吉田白嶺と共に、藤井浩祐の父親(藤井祐敬)の告別式に参列する。
9月24日、道閑会(天然自笑軒)に出席する。ほか、芥川龍之介・鹿島龍蔵・香取秀真・下島勲・森田恒友らが出席。
9月26日、平福百穂・森田恒友・俳画堂主人と茨城県取手に旅行。小川芋銭・宮文助と合流し、網猟など楽しむ。
10月8日、三回目となる中国旅行の記念として、倉田白羊から雅号〈放居子〉の〈放〉の字を貰う(佐倉市立美術館蔵『倉田白羊日記』による)。
10月9日~13日、朝鮮・中国旅行旅行の前段として、京都・大阪をまわる。京都で旧友の新井謹也を訪ねる。近藤浩一路・吉田白嶺と合流する。
10月14日、近藤浩一路・吉田白嶺と山口県下関から出航。11月16日の帰京まで朝鮮・中国旅行を旅行する。
11月23~25日、桑重儀一を連れ、日光へ帰郷。狩猟を楽しむ。
11月26日、沼波瓊音と共に、「新井謹也氏陶器展展覧会」(東京市銀座・資生堂画廊)を見る。
12月、十七大家新作春掛展(5~12日、錦章堂)に《秋江漁夫》を出品する。
12月12~28日、千葉県銚子に旅行。
(12日宮文助・高浜の篠目八郎兵衛と共に銚子の暁鶏館に宿泊。13日篠目と別れ、小杉・宮はしばらく海鹿島[あしかじま]別荘に滞在。17日針重敬喜が合流、狩猟を楽しむ。21日一時帰京。22日麹町の中国公使館にて八顔氏寒木堂書画展を見た後、千葉県佐原に一泊。23日海鹿島に戻る。28日帰宅。)
―― この頃、福井県の紙漉き師・岩野平三郎と親交が始まる。
1923(大正12)年 42歳 ―― この頃、〈放庵〉と号するようになる。
1月8日、鶏小屋を改築する。
1月13日、風邪のため、道閑会を欠席する。
1月19日、森田恒友と茨城県取手に行き、小川芋銭と会う。車中で春陽会には日本画も出すことを話し合う。
1月、電話小石川6898番を、春陽会事務所と共用で開通する。
1月、第2回俳画会展(24~28日、東京市日本橋・三越本店)に《奥の細道八題》を出品する。
1月28日、文化学院の展覧会、俳画会展を見る。
1月30日、東京帝国大学の大講堂建築委員会にて、講堂舞台及便殿内に壁画を設置することが決定。画題・揮毫者の選定など協議員を設けて協議することになる。
2月1日、木心舎でクロッキーの指導を行う。
2月2~23日、信州を旅行する。2日、倉田白羊・山本鼎と大屋で合流、別所温泉・柏屋に宿泊。3日に農民美術研究所で2,3の意匠を作る。上田市の倉田白羊宅に一泊。4日に上田城を見物後、松本市へ移動。弟の甲午郎・中沢臨川・武居某・百瀬某らと会う。22日まで松本市に滞在。
2月27日、東京帝国大学の大講堂建築委員会にて、講堂舞台及廊下の三ヶ所の壁画を小杉に依頼すること、謝礼は6000円以内とすることが決定する。
3月1日、木心舎でクロッキーの指導を行う。
3月6日、東京帝国大学にて塚本靖より、講堂壁画が小杉に決まったことを聞く。古在由直総長に挨拶し、沼波瓊音に報告する。
3月15日、長谷川昇と日本美術院試作展を見る。
3月16日、東京帝国大学に境野哲学長と村上専精教授を訪ね、講堂壁画について挨拶する。
3月19日、日本美術院で催された宋元絵画の展覧会を見る。徽宗帝の花鳥画、李嵩の海嶋仙人山伝、李龍眠の人物画などが印象に残る。顧愷之の列女伝の写真を購入。
3月25日、木村武山を訪ねる。
3月31日、木心舎でクロッキーの指導を行う。
3月、《山西鶏鳴山》(紙本着色)を描く。 ※現在、出光美術館蔵。落款〈放庵未醒〉は、現在〈放庵〉落款として確認されている最初のもの。
4月2日、日光で相良邦之助の葬儀。妻が体調不良のため欠席する。
4月4日、満谷国四郎・桑重儀一・小柴錦侍・長谷川昇と、満谷の五十年記念展の打ち合わせをする。
4月12日、妻が入院する。
4月14~16日、信州旅行。
(14日平福百穂と大屋へ。15日山本鼎が所長を務める農民美術研究所[小県郡神川村]の開所式に出席。ほか、北原白秋・倉田白羊・滝澤真弓・平福百穂・山崎省三・吉田白嶺らが出席。倉田・平福・吉田と別所温泉に宿泊。16日平福・吉田と帰京。)
4月、大隈老侯記念美術展(早稲田大学大隈会館)に、《人物》(油彩画)を出品する。安田講堂壁画のための習作。
4月31日、春陽会展の初めての鑑査に出席する。
5月4日、第1回春陽会展招待日。夕方から晩餐会(精養軒)を開く。
5月、第1回春陽会展(5~27日、竹之台陳列館)に、《壁画稿「泉」》(油彩画)、《山西鶏鳴山》(紙本着色)、《洗剣亭眺望》、《如峰山》、《石仏古寺ノ一》、《石仏古寺ノ二》を出品する。  ※現在、《山西鶏鳴山》は出光美術館蔵
5月5日、長男・一雄と共に、長野県松本市で開かれた弟・甲午郎の結婚披露宴に出席する。一雄を残して日帰り。
5月18日、春陽会後援会について、 発起人の鹿島龍蔵、福原(信三?)と打ち合わせをする。
5月22~27日、山本鼎と大阪行。23日に春陽会大阪展を後援する大阪毎日新聞社で打ち合わせ。千秋楼に宿泊。26日に岸本吉左衛門と、大阪市民病院に寄附する壁画について相談する。
5月31日、木心舎でクロッキーの指導を行う。
6月4日、竹の台茶話会総会(精養軒)に出席する。
6月7日、木心舎でクロッキーの指導を行う。
6月14日、二科主催サロン・ドートンヌ日本部門展に出品する《帰耕》を描く。
6月15日、『画人行旅』(アルス)が刊行となる。見返しは相良キミの花鳥画を使用する。
6月15日~7月10日、春陽会大阪展への出張をかねて京阪を旅行。
(6月15日横山大観を訪ね、最近買ったという唐硯を貰う。夜の汽車で出発。16日春陽会展大阪会場へ行き、夜には大阪毎日新聞社の招待会に出席。18日斎藤弔花と会食。21日大阪市役所で小幡博士に壁画の予定サイズを伝えた後、京都に移動し滞在。23日山本鼎と苔寺[西芳寺]を見る。27日大阪。28日夕方に京都へ戻る。29日冨田溪仙らと会食。この日から7月8日まで寺通い。7月6日新井謹也の陶器展、丸山公園、京都帝室博物館[現・京都国立博物館]などまわる。8日山本鼎と共に新井謹也宅で陶画を描く。夜に田中善之助・樋口龍峡と会食。9日嵯峨へ冨田溪仙を訪ね、会食。10日帰京。)
7月16日、岸田劉生が来訪する。
7月18日、夜、芥川龍之介・森田恒友と、望岳楼で池大雅の屏風を見る。
7月20日、沼波瓊音から借りた、北一輝の『国家改造案原理大綱』を読み、感心する。
7月21日、北一輝の『国家改造案原理大綱』を横山大観に貸す。
7月23日、春陽会の会員会議に出席。ほかに、梅原龍三郎・倉田白羊・長谷川昇・森田恒友・山本鼎。小杉が、①会員客員の撤廃、②三年に一度、全日本大展覧会を開くこと、を提議。①は熟考、②は来年に延期となる。小杉はさらに、中国・インドの画家を交えた全東洋の展覧会を開催したいという腹案を抱いていた。
7月28日、森田恒友・吉田白嶺・俳画堂主人と共に、小川芋銭の見舞いに茨城県取手へ行く。
8月4日、来訪した宮文助に、蔦温泉薬師堂のブロンズ像3体を預ける。それぞれ宮、高浜の篠目家、取手駅長に渡してもらう。
8月4~12日、信州・飛騨・越中を旅行する。
(4日夜に柳沼澤介と出発。5日長野県松本市到着。午前は弟・甲午郎と中沢臨川に会う。午後は白沢老医と武居某を訪ね浅間の湯へ行く。6日甲午郎と松本市島々から稲核、奈川方面へ。7日飛騨へ下る。荒天にあい上ヶ洞[現・岐阜県高山市高根町]上田屋に宿泊。8日美女峠[現・高山市大島町]を越え、高山・長瀬旅館に宿泊。9日日枝神社、高山公園金龍ヶ岡、宗猷寺、善応寺、法華寺、大雄寺、櫻山八幡宮、飛騨国分寺など、高山町内を見物してまわる。小森氏・船坂氏の世話になる。10日高山から富山の神通川まで宮川下り。古川[現・飛騨市古川町]、杉原[現・飛騨市宮川町杉原]、蟹寺村[現・富山市蟹寺]を越え、猪谷[現・富山市猪谷]まで下る。11日庵谷(富山市)の峠を越え、笹津駅から汽車に乗り、富山駅、直江津駅で乗り換え、長野で甲午郎と別れる。12日帰京。)
8月、《鶏頭花》(絹本着色)を描く。翌年の第2回春陽会展に出品。
9月1日、電車に乗車中、神田旅籠町にかかる頃に関東大震災に遭う。急いで帰宅し、家族と自宅の無事を確認する。
9月2日、日光から相良英一と勲が様子を見に来る。
9月3日、御徒町にいるハルの従姉を心配し、宇都宮から三河屋が来る。英一と勲に頼み、長男・一雄と義妹・相良ミツを日光へ行かせる。柳沼澤介および松本市から駆けつけて来た弟の甲午郎・鈴木某と5人で付近の被災状況を見て歩く。
9月4日、篠目八郎兵衛が来訪し、米を送ってもらう約束をする。ハルの従姉が来訪し無事を確認。
9月5日、友人たちを見舞う。
9月6日、甲午郎ら松本市へ帰る。篠目八郎兵衛から米や味噌が届く。
9月8~9日、画室の壁に紙張りし、亀裂を塞ぐ作業。
9月13日、市内の被災状況を見てまわる。
9月14日、針重敬喜・柳沼澤介らを招き、無事を喜ぶ晩餐会を開く。
9月26日、《武陵桃源》(絵巻)が完成する。
9月28~29日、俳画堂主人と茨城県牛久に旅行、大師堂を見る。小川芋銭宅に一泊。29日に取手で宮文助と会う。
10月1日、吉田白嶺と家具を製作する工場を設ける計画を進める。じき、木心舎を仮の家具工作所に活動を始める。
10月5日、梅原龍三郎宅での春陽会会員会に出席。大阪毎日新聞・東京日日新聞社主催が主催する全日本の美術展が、11月に京都、来年1月に東京で開催されることを知り、先を越されたと悔しがる。同社の畑耕一から小杉と梅原に審査員を頼まれ、快諾する。
10月、甲府および長野県松本市を旅行する。
10月11日、《甲洲の山》(素描)を描く。
10月18日、青森県の小笠原耕一(臥雲)に、家具工作所で使う木材を注文する。
10月19日、小川芋銭と宮文助が来訪。
10月21日、亡師・五百城文哉の妻が来訪。文哉没後に養子に迎えた五郎と、小杉の義妹・相良フサとの縁談話が進む。
10月22日、相良フサの縁談のため、日光へ行く。
10月28日、大阪市民病院の壁画制作を開始する。
10月29日~11月2日、茨城県高浜に旅行。宮文助と鴨撃ちを楽しむ。篠目八郎兵衛の世話になる。30日に篠目家のために《後赤壁》を描く。
10月、小杉が描いた《浅草観世音像》33点が俳画堂(神田区一ツ橋通町)で頒布される。
11月3日、東京帝室博物館が復旧工事時の仮倉庫として使用するため、来年は竹之台陳列館を展覧会場に使うことは出来ないことを聞く。
11月7日、かねてより計画していた全日本美術展について、文書発表は避け、諸団体主脳者に座談的に話していくことで、梅原龍三郎・山本鼎に賛成してもらう。
11月10日、全日本美術展について、横山大観を訪ね、再考を約束する。
11月14~22日、日本美術展鑑査をかね京阪行
(15日関東大震災後京都に転居していた近藤浩一路に迎えられ、銀閣寺を見た後、日本美術展鑑査。京都ホテルに宿泊。16日鑑査後、平福百穂の宿へ行き、全日本美術展について賛成の意見を聞く。17日梅原龍三郎・土田麦僊・西山翠嶂・平福百穂を招き、全日本美術展について相談会を開く。18日鑑査後、北野恒富・冨田溪仙に全日本美術展について相談。19日近藤浩一路・満谷国四郎と鞍馬山。江端に宿泊。20日桂離宮を見学。夜、梅原龍三郎・土田麦僊・冨田溪仙・西山翠嶂・平福百穂・山下新太郎らを招き、全日本美術展の相談会。近藤宅に宿泊。21日近藤浩一路と日本美術展を見た後、南禅寺に岸田劉生を訪ね、大阪で院展を見る。近藤宅に宿泊。22日帰京。)
11月、日本美術展(会場:大阪毎日新聞・東京日日新聞社、会場:京都市・岡崎第二勧業院)の第二部(西洋画)審査員として、《甲洲の山》(素描)を出品する。
11月、二科会が創立10周年を記念して企画し、フランスで開催されたサロン・ドートンヌ日本部門Salond’Automne, Section japonaise(パリ, グラン・パレ) に《帰耕》(日本画)を出品する。
11月26日、横山大観を訪ね、京都での全日本美術展会合の結果について話す。
11月28日、春陽会の梅原龍三郎・長谷川昇・森田恒友・山本鼎を集め、京都での全日本美術展会合の結果について報告。会場は来年、上野を避けて三越か丸の内が良いと相談する。
12月31日、長男・一雄を連れて茨城県高浜へ狩猟に行く。取手から宮文助が同行。
1924(大正13)年 43歳 1月1日、妻ハル、一雄、百合、二郎、女中2人との元日。午前炬燵で寝て過ごし、午後はテニスを楽しむ。
1月3日、柳沼澤介のために《大黒天》(水墨画)を描く。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
1月4日、大阪市民病院の壁画を描き始める。
1月29日、木心舎で指導。
1月31日、大阪日日新聞社・東京日日新聞社主催日本美術展の東京展を見る。
2月7~11日、日光へ帰郷。
(8日柳沼澤介と宇都宮市の古賀志山に登った後、岩崎の馬頭観音[現・日光市, 岩崎観世音堂]を詣でる。9日従兄の小杉伴作および上州屋の若主人と共に狩猟を楽しむ。)
2月28日、木心舎で指導。
3月7日、『新小説』主催の怪談会(自笑軒)に出席。ほかの参加者は、芥川龍之介、泉鏡花、長田秀雄、菊池寛、久保田万太郎、斎藤龍太郎、沢田撫松、白井喬二、長谷川伸、畑耕一、馬場孤蝶、平山蘆江。
3月、第2回春陽会展(14~23日、東京市日本橋・三越呉服店)に、《壁画「採薬」》(油彩画)、《鶏頭花》(絹本着色)、《暮雲》(素描)を出品する。※《壁画「採薬」》は大阪に建築中の市民病院の壁画として制作。現在、《炎帝神農採薬図》の作品名で大阪市立大学医学部附属病院蔵
3月21日、大阪美術協会発会式(精養軒)に出席する。
4月17日、午前中に東京府美術館の新設計披露会(精養軒)に出席。午後に家族と茨城県取手へ遊びに行く。
4月19日、春陽会展大阪展招待日のため大阪へ行く。
4月20日~6月7日、長谷川昇と中国を旅行する。
(4月20日神戸発。4月21日長崎で偶然、久留島武彦と遇う。仁川従軍以来19年ぶり。22日長崎を見物。24日上海着。その後、杭州、銭塘江、巖子陵、七里瀧、西湖、蘇州をまわる。6月4日長崎着。7日帰京。)
―― 春、《裸婦》(素描)を描く。左上に、「驚破霓裳羽衣曲(霓裳羽衣の曲を楽しむ日々は砕け散った)」とある。霓裳羽衣の曲は、唐の玄宗が楊貴妃のために作ったとされる曲。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
5月、第1回大阪市美術協会展(5~25日、大阪市・天王寺公園勧業館)洋画之部に、《銭塘江》を出品する。
6月23日、道閑会に出席する。ほか、芥川龍之介、鹿島龍蔵、香取秀真、下島勲が出席。
6月26日、美術雑誌『アトリヱ』についての打ち合わせに出席。春陽会を背景にした雑誌としていくことを協議する。
7月1日、妻と市谷の五百城家を訪ね、義妹フサの破縁を決める。
7月、長谷川昇・小杉未醒支那旅行写生画展(9~15日、三越呉服店)を開催。《胡弓》《戯場》《青山一亭》《詩境十題帖》など小品20点を出品する。
7月6日、木心舎でクロッキーの指導をする。
7月10~13日、柳沼澤介と日光へ帰郷。墓参りなどする。
7月15日、平福百穂を訪ね、土佐春日絵巻(《春日権現験記》か?)について意見を交換する。
7月中旬、肋骨を損傷する。
7月22日、木心舎で指導。
8月11日、木心舎でクロッキーの指導をする。
8月12日、五百城家からフサの荷物を受けとる。
8月13日、壁画《野葡萄》が完成する。
8月16~22日、山梨県を旅行する。
(16日甲府市常磐町・若尾重造宅にて大町桂月と合流。長禅寺に宿泊。17日武田信玄の墓や昇仙峡天神森を見物。18日増富ラジウム温泉峡[現・北杜市須]。19日一人で宿近くの山を登る。20日増富村、新府城跡[現・韮崎市]など。21日甲斐善光寺、圓光院、大泉寺など甲府市の寺院をまわる。22日大町桂月・中村某と甲府を出発。帰京。)
8月26日、『東京朝日新聞』夕刊で、これからとりかかろうとしている安田講堂壁画の構想について報じられる。この時点で壁画は、東洋美術の特徴を採り入れた《土》《泉》《成熟》の三部作とする予定で、いずれも半円形のカンヴァスを予定していた。
8月30日、長谷川昇・森田恒友・山本鼎と会合。春陽会から岸田劉生への不満の声が高まる。
9月2日、院展の招待日を見る。夜、浮世絵商の金子清次と会食。金子が開業する浮世絵店について、孚水画房の屋号を考案し、看板の文字を書してあげた返礼。
9月14日、孚水画房で肉筆浮世絵展を見る。
9月15日、梅原龍三郎を訪ね、岸田劉生の件について相談する。
9月17日、木村荘八を訪ね、岸田劉生の件について相談する。
9月20~26日、長野県を旅行。21日野尻湖畔の飯嶋別荘に宿泊。23日、はんの木沼(針ノ木池)周辺や弁天島(琵琶島)を散策。25日、野尻湖の南・柏原村の小林一茶旧宅を見学後、藤屋ホテルに宿泊。26日に上田市下木町へ倉田白羊を訪ね、岸田劉生の件について相談した後、帰京する。
10月2日、上海の飯嶋某が来訪。孚水画房を紹介する。
10月8日、森田恒友・俳画堂主人と茨城県取手へ行く。宮文助宅の柘榴を写生する。
10月10日、孚水画房で飯嶋某の硯と墨の会を見る。
10月14日、長男・一雄と義妹・相良キミと共に、茨城県取手へ行き、柘榴を写生する。
10月15日、芥川龍之介を訪ねる。
10月16日、大町桂月と青森旅行の約束をする。
10月17日、精養軒で開かれた木下杢太郎(太田正雄)の茶会(橋の会)に出席する。杢太郎の兄・太田圓三(内務省復興局土木部長)が担当する震災復興橋梁のうち、駒形橋の装飾について相談を受ける。亀井至一の友人という人物と会い、明治10年代の東京写生図を見せてもらう。閉会後、木村荘八・山本鼎と打ち合わせ、岸田劉生の件は、岸田を名誉会員にすることで落ち着く。
10月22~31日、茨城県・青森県を旅行する。
(22日青森旅行の前段として茨城県水戸に杉田雨人の新居を訪ねる。23日水戸を出発。24日青森県三本木町[現・十和田市]到着。小笠原耕一[臥雲]に迎えてもらい、法蓮寺にて右衛門四郎仏を拝観後、夕方、上北郡法奥澤村[現・十和田市]蔦温泉にて大町桂月と合流。25日蔦温泉で開かれた、小杉の制作・寄進によるブロンズ像《薬師如来像》の開眼式に出席する。26日奥入瀬をまわる。29日出立。30日水戸の杉田雨人を訪ねる。31日杉田宅にて、一高の災害救済紀念メダルの原型を彫刻。杉田の新居を雨遇楼と名づける。笠間稲荷神社(現・笠間市)を詣でた後、汽車にて小山駅で乗り換え、日光へ向かう。※現在、《薬師如来像》は同時鋳造のブロンズ像が小杉放菴記念日光美術館蔵)
11月1日、日光で従兄の小杉伴作と狩猟を楽しむ。
11月2日、日光から帰京。妻と公田連太郎と共に、豊年斎梅坊主の演芸を帝国ホテル演芸場へ見に行く。小杉は梅坊主後援会発起人の一人だった。
11月11日、三越の淡交会を見る。
11月12日、桑重儀一と長男・一雄と共に、茨城県取手へ狩猟に行く。病気の宮文助を見舞う。
11月15日、公田連太郎と、黒田清輝の遺作展を見る。
11月18日、木村荘八と共に吉田白嶺を訪ね、太田圓三から頼まれた橋の図案について相談する。
11月29日、春陽会vs漫画団のベースボール試合に参加する。
12月15日、鉄道協会で開かれた復興局土木部橋梁課の招待会に出席する。「橋の会」関係か。
12月26日、道閑会(天然自笑軒)に出席する。ほか、芥川龍之介、鹿島龍蔵、香取秀真、下島勲、久保田万太郎が出席。
12月30日、桑重儀一と長男・一雄と共に、埼玉県浦和へ狩猟に行く。
1925(大正14)年 44歳 1月3日、おろか会に出席する。
1月11日、ビールのポスターを描く。
1月13~15日、山本鼎の呼びかけにより、鼎・倉田白羊・長谷川昇・森田恒友と、春陽会五人会を中華料理店・偕楽園(小石川区伝通院前)にて開く。
1月14~18日、吉田白嶺との二人展(伊藤銀行中支店)のため名古屋周辺を旅行。15日に二人展招待日、近藤浩一路が来場。16日に七寺(名古屋市・長福寺)で仏像など見てまわる。17日に甚目寺を見物した後、夜に名古屋発。18日に帰京。
1月21日、柳沼澤介、桑重儀一、長男・一雄、二男・二郎と、埼玉県浦和で狩猟を楽しむ。
2月15日、滝田樗陰の病床を見舞う。
2月20日、村山槐多の七周忌の会に出席。山本省三・今関啓司と飲み交わす。
2月23日、桑重儀一と茨城県牛久で雪の狩猟を楽しむ。
2月28日~3月1日、桑重儀一と茨城県牛久沼に一泊。
3月2日、《馬》を描く。描き損ねた安田講堂廊下の小壁画《泉》から切取ったものと合わせて、この月の春陽会展に出品することにする。
3月、第3回春陽会展(7~29日、竹之台陳列館)に《泉》《馬》(ともに油彩画)を出品する。 ※現在、《泉》は出光美術館蔵、《馬》は《双馬図》の作品名で小杉放菴記念日光美術館蔵
3月7日、おろかの会(吉田白嶺宅)に出席。ほか、木村荘八・長谷川昇・山本鼎など。
3月17日、梅原龍三郎と岸田劉生が春陽会を退会するつもりでいること、中川一政は留まるつもりであることを聞く。
3月18日、安田講堂廊下の小壁画《泉》が完成する。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
3月19日、安田講堂に完成した小壁画《泉》を送る。後日、この作品を廊下に設置することは中止し、別の作品に変更する。
3月26日、春陽会の会員会に出席する。
4月3日、道閑会(芥川龍之介宅)に出席する。
4月、安田講堂舞台の大壁画制作にとりかかる。先に設置を中止した廊下の小壁画《泉》を舞台大壁画へ発展させることにする。連日、東京帝国大学へ出張。栗田雄・水谷清・横堀角次郎・小杉一雄が助手となる。
4月8日、おろか会(木心舎)に出席する。
4月10~13日、春陽会巡回のため名古屋行。12日に京都から来た岸田劉生に、木村荘八・山本鼎・中川一政を交え、劉生の退会について協議する。
4月13~15日、水戸市に滞在する。
(13日朝、名古屋から帰京後すぐに水戸へ向かう。常総洋画展の審査会に出席。熊岡美彦・辻永・牧野虎雄と初めて会う。杉田雨人宅に宿泊。14日、杉田とその連れ大村某と、広浦で狩猟を楽しむ。15日に杉田のために《寒山拾得》を描く。常総洋画展に設けられた五百城文哉・中村彝の遺作特別陳列室にて五百城の遺作10点ほどを見た後、帰京する。)
4月、常総洋画展(16~22日、主催:常総新聞社、会場:茨城県公会堂)に《厳州城》(水彩画)を招待出品する。
4月16日、梅原龍三郎が、自身の春陽会退会について話し合うため来訪する。
4月22日、義妹・相良フサ(相良楳吉の四女)の結婚のため日光へ行く。
4月29日~5月3日、新潟県高田市に旅行。高田館に滞在する。
5月3日、長野県松本市から姉ヤヲが来訪。
5月7日、聖徳太子奉讃会展の相談会に出席する。
5月14日、明治神宮壁画のうち、《帝国議会開院式臨御》の制作依頼を受ける。
5月16日、聖徳太子奉讃美術展各部協議会にて、洋画部の代表委員となる。
5月24~25日、日光へ帰郷。
(24日柳沼澤介、二男・二郎と共に日光行。25日義弟・相良敏三[相良楳吉の二男]の婚儀に出席。26日帰京。)
6月、義妹・相良フサが遊佐清司(福島県安達郡)と入籍する。
6月3日、東京府知事による府美術館の今後についての相談会(帝国ホテル)に出席する。
6月15日、大町桂月が蔦温泉で病死したことを聞き、雑司ヶ谷の家へ弔問に行く。
6月16日、青山にある神宮奉讃会で、水谷清に貴族院玉座を写させる。
6月19日、衆議院にて貴族院議場、玉座を取材する。
6月27日、邇宮邸殿下の招宴に出席する。
7月6日、帝国大学(現・東京大学)にて、小杉が描いた壁画が設置された安田講堂の竣工式が催される。
8月7日、皇居にて明治天皇の衣装を写す。
8月13日、俳画堂主人と滝田樗陰を見舞う。
8月22~27日、大森(現・大田区)にある内田邸の襖絵を描く。
9月10日、安田講堂廊下の小壁画《動意》が完成する。
9月14日、安田講堂廊下の小壁画《静意》が完成する。
9月26日、安田講堂舞台の大壁画《湧泉・採果》が完成する。
10月、《初秋水村図巻》(日本画)を描く。※現在、出光美術館蔵
10月2~3日、茨城県取手に一泊旅行。
(2日木村荘八と取手へ行き、小川芋銭・宮文助と月見後、公田連太郎がいる宿へ行く。3日荘八が先に帰京。小杉・公田は石毛[現・常総市石下]へ平将門の墓を見に行く。)
10月10日、東京帝国大学から内田祥三・塚本靖・岸田日出刀が来訪。安田講堂壁画代5000円を受けとる。
10月11日、高嶋米峰を訪ね、聖徳太子について話す。
10月15日、『アルス美術叢書 9 大雅堂』の原稿を書き終える。
10月17日、森田恒友と共に、岩佐派の浮世絵展(日本美術協会)など見る。
10月22日、農民美術のための《富士登山人形》の型を制作する。
10月24日、午前中に郡司卯之助が来訪。午後、青山憲法記念館で開かれた明治神宮聖徳記念絵画館の壁画下絵を持ち寄った打ち合わせに出席。帰途、新井謹也の孚鮮陶画房小展(鳩居堂)を見る。
10月26日、貴族院衆議院から書記官が来訪、壁画代2000円を受けとる。
10月、九科会を倉田白羊・山本鼎・吉田白嶺ら日本農民美術研究所関係者と結成する。絵画・木彫・木工・木版・漆工・染織・レイス・刺繍・陶器の9科目を総合した美術団体。
10月26日、義弟・相良敏三(相良楳吉の二男)が大谷コウと結婚する。
10月27日、横山大観と共に、飯嶌の小展(孚水画房)を見る。
10月27日、滝田樗陰が腎臓病と喘息により、東京市本郷区根津片町(現・東京都文京区根津)の自宅で亡くなる。
10月29日、滝田樗陰を弔問する。
10月30日、滝田樗陰の葬儀に参列。米国から帰国する福田雅之助を横浜まで迎えに行く。福田雅之助はポプラ倶楽部で小杉と交友のあったテニス選手。
11月3日、妻ハル、長女・百合と共に、宇都宮市で大谷観音を見物後、日光へ帰郷。4日に義弟・相良邦之助の墓の字を書く。5日に義弟・相良英一と塩谷町の佐貫観音を見物。6日に叔父、ハル、百合、英一と山を散策。7日に帰京。
11月8日、早稲田大学にて、福田雅之助の歓迎試合を観戦後、大隈講堂で歓迎会。
11月13日、中川紀元が初めて来訪。日本画の話をする。
11月16日、押川家墓所(雑司ヶ谷墓地)にて、春浪天狗碑の建碑式が催される。
11月19~23日、茨城県水戸に旅行する。
(20日吉田神社。21日杉田雨人と袋田の滝[現・久慈郡大子町]を見物。22日矢祭の滝川渓谷[現・福島県東白川郡矢祭町]まで足をのばした帰途、自動車が故障したため、井筒屋に宿泊する。)
11月23日、水戸から帰京後、浅野邸に宋元絵画を見に行く。
11月29~30日、森田恒友と茨城県取手周辺を旅行。到着後、公田連太郎を誘う。30日に印旛沼へ行く。
12月3日、山中蘭径が、中国人画家・篆刻家の銭痩鉄を伴い来訪、親交を深める。銭は橋本関雪の知遇を得て以降、1923年から何度も日本を訪れていた。
12月、関尚美堂展(3~5日、主催:尚美堂関長次郎、会場:東京市日本橋・東京美術倶楽部)に《秋晴》を出品する。
12月4日、手工芸協会発会について、吉田白嶺宅での会議に出席。ほか、石井鶴三・木村五郎・木村荘八・栗田雄。
12月6日、芥川龍之助を訪ねる。
12月10日、銭痩鉄から〈放庵半禿〉の印を受けとる。
12月10日、手工芸協会を、石井鶴三、木村五郎、木村荘八、栗田雄、田中善之助、橋本平八、松村秀太郎、吉田白嶺と9人で結成したことが報じられる。同会は、洋画家、彫刻家が生活のために本業の傍ら壁かけ、イス、織物、焼き物など作っていくことを目的とする。
12月11日、聖徳太子奉讃会評議員会に出席。細川護立侯爵の会長就任が決定する。
12月13日、沼波瓊音から本朝名医伝、道元養生篇を借りる。
12月14日、横山大観と安田講堂の壁画を見に行く。新井某から野州美術会について相談を受ける。
12月15日、木村荘八宅で開かれた硯墨会に出席する。
12月、未醒・鶴三・荘八墨画小品展(15~24日、東京市京橋日米ビル2階・室内社画堂)を開催。木村は報知新聞連載小説「富士に立つ影」挿絵20点、石井鶴三は東京日日新聞連載小説「大菩薩峠」挿絵20点、小杉は神田伯山「清水次郎長」挿絵20点などを出品する。
12月18日、孚水画房で開かれた硯の展覧会を見る。
12月23日、九科会懇話会に出席する。
12月24日、北原(義雄か鉄雄)から大雅堂画法帖を借りる。鎌倉から相良敏三夫妻来訪。西田武雄の室内社招宴に出席する。
12月27~28日、水戸市に一泊旅行。杉田雨人に迎えられ、小田部氏の招宴に出席する。
12月30日、《林処士遊行像》を描く。
1926(大正15)年 45歳 1月3日、『アルス美術叢書9 大雅堂』(アルス)が刊行となる。
1月11日、《さんた・まりあ》が完成する。
1月13日、雑誌『美の国』主宰の石川宰三郎が来訪する。
1月18日、『東京日日新聞』から依頼された、弓館小鍔の連載小説「西遊記」の挿絵を引き受ける。
1月、『東京日日新聞』の連載小説、弓館小鍔「西遊記(全105回)」の挿絵を担当する(1月26日~5月26日夕刊)。
2月、第1回九科会展(1~8日、東京市・三越呉服店)に《素描》2点を出品する。
2月7日、《水郷図巻》が完成する。夕方、銭痩鉄に連れられ、石井林響を訪ねる。
2月10~13日、常総旅行。
(10日山本鼎・渡邊某と千葉県布佐周辺へ写生旅行。11日徳満寺[茨城県布川]、小文間村[現・取手市]、土浦をまわり、北条[現・つくば市]いせ屋に宿泊。12日筑波山まで歩き、江戸屋に宿泊。13日帰京。)
2月14日、帰国する銭痩鉄の送別会(永代橋の料亭・都川)に出席する。石井林響・森田恒友・外狩素心庵ら同席。この場で、日中画家の展覧会を橋本関雪案の「解衣社」に、外狩をマネージャーとし、小川芋銭を加えることなどを決める。
2月、第4回春陽会展(26日~3月20日、竹之台陳列館)に、《さんた・まりあ》(油彩画)、《水郷図巻(「帰園田居図巻」とも)》(日本画)、《はんの木沼》、《古利根の小沼》を出品する。この年同会は日本画室を設ける。
2月28日、おろか会(吉田白嶺宅)に出席。変装の回で、小杉は雲水の僧に変装し、二等賞となる。
3月11~15日、東海・関西旅行。
(11日栗田雄と名古屋へ。名古屋松坂屋での春陽会展について打ち合わせ後、三藤旅館に宿泊。12日大阪で足立源一郎と合流し、大阪毎日新聞社で打ち合わせ後、奈良の足立宅に宿泊。13日奈良帝室博物館[現・奈良国立博物館]を見学後、東大寺にて三月堂の内陣を清水公俊に見せてもらう。二月堂で九里[四郎?]・近藤[浩一路?]と会う。14日足立・九里・近藤と4人で生駒郡郡山町[現・大和郡山市]をまわった後、寝台列車で帰路につく。15日帰京。)
3月18日、書道振興に関する建議が衆議院に提案され、画家では小杉・松林桂月がこれを応援する。
3月21日、「橋の会」で相談を受けていた木下杢太郎の兄・太田圓三が自殺する。数日後、弔問に行く。
3月22日、木村荘八・中川一政と共に、鎌倉へ椿貞雄を訪ねる。岸田劉生もおり、皆で浄光明寺を詣り、会食する。
3月、解衣社を、橋本関雪、石井林響、小川芋銭、森田恒友、銭痩鉄、王一亭、劉海粟と結成。日中両国の古画の研究と鑑賞を目的とする。
3月、長男・一雄が聖学院中学校を卒業する。
4月、長男・一雄が早稲田大学附属第一早稲田高等学院に入学する。
4月13日、燕巣会の発会式(丸善)に出席する。同会は室内社の西田武雄・内田魯庵が発起人。ほかの会員は、石井柏亭、梅原龍三郎、岡田三郎助、藤島武二、満谷国四郎、安井曾太郎、和田英作、和田三造、山本鼎。
4月19~23日、日光へ帰郷。
(20日義弟の相良敏三・英一を連れて山歩き。所野、小百、高百、霧降川下流の床滑などをまわった後、墓参り。21日義弟・相良邦之助、義祖母・相良ミツの法事。夕方、相良英一と大日堂など見物。23日妻ハル、長女・百合と共に帰京。)
4月26日、聖徳太子奉讃美術展陳列のため、東京府美術館へ初めて行き、その出来栄えに感心する。
5月、第1回聖徳太子奉讃美術展(1日~6月10日、東京府美術館)第一部西洋画に、《秋果童子》(油彩画)を出品する。 ※現在、群馬県立館林美術館蔵
5月10日、石井林響宅にて、銭痩鉄が持ってきた中国の新古の水墨画を見る。
5月24日、木心舎でデッサン指導。東京美術学校へ中国・元時代の絵画展を見に行き、とくに黄鶴山樵(王蒙)の作品に感心する。
5月25日、木心舎でデッサン指導。
5月28日、木心舎でデッサン指導。夜に名古屋へ向かう。29日に名古屋。30日に三重県桑名で陶画を描く。
6月1~18日、母を見舞うため朝鮮旅行。
(1日山口県下関から出航。2日釜山着。慶州などまわる。7日京城の兄や老母の元へ行く。11日午後7時30分、母・小杉タエを看取る。14日告別式。15日釜山から出航。16日朝に下関着。夜中に名古屋市の三藤旅館着。17日夜の汽車で出発。18日帰京。)
6月、第1回燕巣会展(4~15日、主催:室内社・丸善、会場:東京市日本橋・丸善)に《採果》(油彩画)を出品する。
6月21日、次姉・永井キチが阿佐ヶ谷から来訪。
6月、第1回東西会美術展(23~29日、松屋呉服店)に《横湾漁舟》《柳》を出品する。
6月25日~7月17日、房州旅行。
(6月25日小林蹴月と千葉県富浦へ行き、山田邸に滞在。29日小林が先に帰京。30日山本[鼎?]が来訪。7月1~2日解衣社展へ出品する《江村秋意》を描く。4日一時帰京。弥生町の浅野邸で宋元古画を見る。7日富浦へ戻る。10日山田氏・高橋氏と富山[とみさん、現・南房総市]に登る。11日一時帰京。松屋の解衣社展初日へ行く。12日アトリヱ社に全日本綜合美術展についての質問書を諸美術家へ送るよう依頼する。勝山(現・安房郡)に宿泊。13日富浦へ戻る。17日帰京。]
7月、東西大家小品画東京大家新作品展(6~8日、主催:関尚美堂、会場:東京市日本橋・東京美術倶楽部)に、花を描いた日本画を出品する。
7月、解衣社日華展(11~15日、東京市銀座・松屋呉服店)に《江村秋意》(絹本着色)、《小林僧伎》を出品。会期終了後、8月に同展作品集『解衣磅礴集』が刊行となる。 ※現在、《江村秋意》は出光美術館蔵
7月24日、高浜の俳句の会に出席。ほか、中川紀元、中川一政、横堀角次郎ら。
7月26日~8月6日、大阪・大分旅行。
(7月26日針重敬喜・弓館小鰐・藤見[日本風景協会理事]と出発。27日大阪着。市民病院で自作の壁画を見た後、船で出港し、小豆島で大森財蔵と会う。28日大分県の別府港に着。亀の井旅館に宿泊。永井準一郎大分県知事の宴に招かれる。29日地獄めぐり。30日油屋熊八[亀の井旅館主人]・吉田初三郎一門と自動車で鶴見岳、九酔渓、三日月の滝など案内してもらう。31日深耶馬溪をまわる。8月1日別府へ戻る。2日針重・弓館が四国へ向かう。3日大分市。4日観海寺。5日大分市長に挨拶した後、出航。6日帰京。)
―― 夏、郷土美術展に《柳湾茶煙》を出品する。
―― 夏、《林和靖》(絹本着色)を描く。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館寄託
8月、個展「放庵未醒瀧十題展」(1~5日、東京市・孚水画房)を開催、《引泉》《悟空》《黄昏》《観音》《夏山》《晩竹》《江畔》《秋渓》《漁人》などの日本画を発表する。
8月、高橋氏のために《湖村小景》(絹本着色)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
8月7日、日光へ帰郷。亡母の納骨式のため兄姉親戚が集まる。12日に妻ハルと帰京。
8月18~23日、茨城県水木浜(現・日立市水木町)を旅行する。18日に兄と水木浜へ向かい、杉田雨人の別荘で妻子と合流。19日に亡き両親がよく行った河原子海岸を見に行く。20日迎え盆。21日に泉が森などまわる。23日に水戸の杉田雨人を訪ねた後、兄と帰京。
8月24日、兄と宮内省へ関谷氏を訪ねる。25日、兄と関谷氏自宅を訪ねる。
8月29日、森田恒友と橋場のカマ場で陶器の絵を描く。
9月3日、田中純を誘いテニスを楽しむ。
9月4日、芥川龍之介が来訪する。
9月、第5回日本南画院展(5~30日、東京市上野公園・日本美術協会列品館)に《山荘有客》《武生劇》を賛助出品する。
9月7~8日、森田恒友と茨城県に一泊旅行。宮文助も合流し、大洗磯前神社(現・東茨城郡大洗町磯浜町)の祭礼を見物。8日、涸沼で漁を楽しむ。水戸環翠亭で会食後、帰京。
9月9日、明治神宮聖徳記念絵画館の壁画にとりかかる。
9月14日、木村荘八・吉田白嶺と共に、沼波瓊音から連句を教わる。
9月15日、虎杖会と称する連句会に出席する。ほか、木村荘八・中川一政・吉田白嶺ら。
9月21~22日、茨城県取手に一泊旅行。宮文助と網猟を楽しむ。公田連太郎・中川一政・森田恒友・三成氏・浅野侯が合流。新町に宿泊。22日に大宝八幡宮の祭礼を見物した後、帰京。
9月29日、栗田雄に明治神宮聖徳記念絵画館壁画のための参考品集めを頼む。
―― 秋、《山帰来》(絹本着色)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
10月3日、朝日新聞社が主催する明治大正名作展の相談会(帝国ホテル)に出席する。
10月20日、《牧童採薬》(油彩画)を名古屋へ送る。
10月23日、岳父・相良楳吉、宮文助、子供たちと高尾山(八王子市)を登る。
10月31日~12月10日、田山花袋と九州を旅行。
(10月31日田山花袋・藤見[日本風景協会理事]・俳画堂主人と出発、京都に宿泊。11月1日熊野にある新井謹也の孚鮮陶画房にて、俳画堂展覧会のための陶画を描く。2日恩賜京都博物館[現・京都国立博物館]を見学後、大阪の天保山沖から出航。3日大分県の別府港に着。亀の井旅館に宿泊し、油屋熊八の世話になる。4日中津、自性寺、大雅堂、福沢諭吉邸などまわる。夜に耶馬溪へ行き、第一楼に宿泊。5日羅漢寺、指月庵、柿坂などまわる。途中、鷲尾順敬と偶然遇う。6日奥耶馬溪の伊福や立羽田をまわり、大有亭に宿泊。7日平田邸。8日下郷村、雲八幡宮、朝陽橋、麗谷[うつくしだに]などまわり、四自館に宿泊。9日田山花袋と合作した日本画を描く。11日由布の亀の井別荘を訪ねた後、別府に戻り、しばし滞在。13日田山花袋が先に出発。19日中津に寄った後、福岡県若松へ行き、吉田磯吉と会食。20日小倉発の汽車で宇佐八幡宮に詣でる。別府に戻り、聴潮閣へ行く。21日別府港から汽船で出航。22日大阪着。奈良へ向かい、奈良の月日亭に宿泊。24日畝傍[うねび]の竹葉に滞在し制作。27日中谷秀[奈良県警察部長]と志貴山に遊ぶ。29日上市の坂本氏のために《山人水客帖》を制作。30日滞在場所を月日亭に移し、制作。12月8日京都へ移動し、観世楼へ行く。9日近藤浩一路の新居を訪ねる。藤見と夜の汽車で帰路につく。12月10日帰京。)
―― 初冬、久保田氏のために《林處士》(絹本着色)を描く。 ※現在、日登美美術館蔵
12月12日、長男・一雄、二男・二郎、義弟・相良英一を連れ、千葉県の鋸山(現・安房郡)に登る。
12月13日、燕巣会の会合に出席する。ほか、和田英作、岡田三郎助、石井柏亭、安井曾太郎、山本鼎。
12月16日、永井準一郎(元大分県知事)が在京と聞き、会食する。
12月28日、岸浪静山(百草居)を誘い、中川一政宅の連句会に出席する。
―― 《梅花泉》(紙本着色)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
―― 《梅花高士》(紙本着色)を描く。 ※『小杉放菴画集』(日本経済新聞社,1987)№111
―― 《絵皿 牛》を描く。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
―― この頃、東京府美術館を寄贈した佐藤慶太郎への春陽会からの返礼として、会員らが寄せ描きした《春陽帖》を贈る。小杉は《騎馬》図を描く。
―― この頃、石川寒巌と交友が始まる。
1927(昭和2)年 46歳 正月、雑誌『アトリヱ』のために「私のパレット」の図を描く。2月号に掲載。
1月13日、道閑会(香取秀真宅)に出席。ほか、芥川龍之介、鹿島龍蔵、北原白秋、木村荘八、久保田万太郎、下島勲、脇本楽之軒らが出席。
1月29~30日、針重敬喜・弓館小鰐らと房州へ一泊旅行する。29日に水産学校にて硬式・軟式のテニス試合に参加した後、木村屋に宿泊。30日に女学校で軟式テニスをコーチした後、夜に帰京。この日、木心舎であった連句会に間に合わなかったため、電報で〈のりはづす汽車を見送る霞かな〉の句を送る。
2月9日、長谷川昇と共に、春陽会新会員になった岡本一平のもとへ挨拶に行く。
2月12日、連句の会に出席する。ほか、木村荘八・中川一政・吉田白嶺らが出席。
2月17~19日、水戸市に滞在する。
2月、春陽会邦画展(18~20日、主催:関尚美堂関長次郎、会場:東京市日本橋・東京美術倶楽部2階)に《西遊記》を出品する。 ※現在、《西遊記絵詞》の作品名で出光美術館蔵
2月25日、第2回燕巣会展に出品する《乳糜供養》が完成する。
2月、第5回春陽会展に出品する《帰牧》(油彩画)を描く。
3月7日、第6回仏蘭西現代美術展を見る。
3月14日~4月9日、東海・九州・関西を旅行する。
(3月14日沼波瓊音の病床を見舞った後、夜の汽車で出発。15日名古屋市着。松坂屋に安藤老を訪ねる。16日安藤・後藤と岐阜県恵那郡中津町[現・中津川市]へ恵那峡を観光後、名古屋市の宿で老妓のために画帖を描く。17日大阪港から出航。18日大分県の別府港に到着。別府市にしばらく滞在する。25日高倉観崖が来訪。27日内本浩亮・高倉観崖・宇都宮某・藤見[日本風景協会理事]と自動車で日田町[現・日田市]へ移動。しばらく料亭の松栄館[現・豆田まちづくり歴史交流館内]に滞在する。31日に福岡県久留米市を経て門司発の汽車で京都へ向かう。4月1日に京都着く。木屋町の観世楼にしばらく滞在。近藤浩一路と会う。2日「奥の細道」の画帖を描く。9日帰京。)
3月、東亜勧業博覧会美術展(25日~5月23日、主催:福岡市、会場:福岡市西公園同博覧会美術館)第二部洋画に、《サンタマリア》を出品する。
4月10~16日、《水荘訪客絵巻》を描く。
4月、第2回燕巣会展(17~26日、主催:室内社画堂、会場:丸善楼上)に《乳糜供養》(油彩画)を出品する。 ※現在、奈良県立美術館蔵
4月、第5回春陽会展(22日~5月15日、東京府美術館)に《帰牧》(油彩画)、《水荘有客》(日本画)を、本年から新設された挿画室には《奥の細道帖(挿入未完)》を出品する。 ※現在、《帰牧》と、《奥の細道帖(挿入未完)》は《奥の細道十二題》の作品名で出光美術館蔵
―― この頃、小杉の提唱により、漢学者の公田連太郎を中心とする漢籍勉強会「老荘会」が発足し、荘子や詩経などが講じられる。
4月27日、三男・三郎が誕生する。
5月、尚美春季展(1〔招待日〕~5日、主催:尚美堂関長次郎、会場:東京丸ビル・丸菱呉服店催場)に《水郷暮靄》(日本画)を出品する。
5月12日、寶瓜硯を入手する。
5月、第6回双水美術協会展に《一閑人》(日本画)を出品する。
5月20日~6月20日、関西・九州・東海を旅行する。
(5月20日夜に藤見[日本風景協会理事]と汽車で出発。21日白木屋大阪店の春陽会展招待日に行く。22日京都着。近藤浩一路の新居を訪ねた後、観世楼に滞在。23日小林雨郊らが来訪。24日近藤浩一路・藤見らと丹波市の天理教大会堂を見物。28日大阪で田山花袋と合流し、汽車で福岡市へ出発。29日福岡市着。福岡日日新聞社の中野唖蝉の案内で、西公園、東公園、筥崎宮などまわる。30日太宰府町へ移動。戒壇院、観世音寺、太宰府天満宮など観光。久留米市で久留米城址など観光した後、大分県日田町[現・日田市]へ移動する。31日亀山公園、天ヶ瀬温泉、慈眼山、岳林寺など日田町を観光。6月1日田山花袋・内本浩亮・高倉観崖・藤見と5人で、福岡県八女郡福島町[現・八女市]へ移動。日向神渓谷、猿駈山を経由し、熊本県の杖立温泉に宿泊。2日南下しつつ、小国町の下城跡、土田滝、阿蘇神社など観光。3日内本浩亮・高倉観崖と共に、森勇喜[阿蘇町町長]の案内で大観峰の遠見ヶ鼻、阿蘇山を登る。碧翠楼に宿泊。4日大分県久住(現・竹田市)に行っていた田山花袋らが戻る。5日熊本市へ移動。宮本武蔵の墓、熊本城、本妙寺、加藤清正の墓、水前寺公園を観光した後、田山花袋と別れる。7日に南郷谷。8日高倉観崖と大分県竹田町[現・竹田市]で田能村竹田旧居、魚住の滝を観光。9日久住町[現・竹田市]に寄った後、別府市にしばらく滞在。18日別府を出発。19日名古屋市にて吉田白嶺の木心舎展に寄る。近藤浩一路と会う。夜の汽車で帰途につく。20日帰京。)
6月、「明治大正名作展覧会」(3~30日)に、《水郷》《ブルターニュの女》《或る日の空想》が出品される。
6月15日、田山花袋との共著『耶馬溪紀行 附別府』(実業之日本社)が刊行となる。 ※同日付で、田山花袋小杉未醒合著発行会(油屋熊八が経営する別府市・亀の井ホテル内)から非売版も刊行される。
6月21日、西洋画部評議員を務めた朝日新聞社主催の明治大正名作展を見る。
6月23日、沼波瓊音の病床を見舞う。
6月、中国の銭痩銭から結婚したとの知らせが届く。画友の劉海粟が日本へ観光に行くので、支援してあげてほしいともあり。
7月1日、東京日日新聞社による日本新八景の会合に出席する。
7月3日、日本新八景審査会に出席する。
7月8日、横山大観と日本新八景について華厳の滝へ行く打ち合わせをする。
7月12日、中国から来日した劉海粟・王濟遠ら一行の歓迎会を、永代橋の料亭・都川にて開く。解衣社・春陽会より4~5人が参加。劉は解衣社にも参加した水墨画家、王は洋画家で、同月2日から、東京朝日新聞社で二人展を開催していた。上海美術専門学校で教師をしており、小杉が1924年に同校を訪ねた時に出会っていた。
7月13~14日、横山大観・東京日日新聞社の木下某と日本新八景のための日光取材旅行。13日、華厳の滝、中禅寺湖を見てまわった後、米屋旅館に宿泊。14日に大観と木下は昼前先に帰京し、小杉は妻の実家に寄ってから帰京。
7月15日、岡田三郎助・山本鼎・和田三造と綜合展について協議する。
7月19日、沼波瓊音が亡くなる。同日、訃報を聞く。
7月20日、沼波家へ弔問に行く。アトリヱ社が企画している『東西素描大成』の編集に参加するため、平凡社から頼まれていた『世界美術全集』評議員の話を断る。翌日、平凡社の方は木村荘八が執り成してくれることになる。
7月23日、沼波瓊音の告別式に参列した後、中川一政宅の俳句会に出席する。
7月24日、横山大観の招宴の座中、芥川龍之介が田端の自宅で自殺したことを聞き、驚く。
7月25日、芥川家へ弔問に行く。ショックで終日何も手につかず。
7月27日、沼波家に弔問。木村荘八と共に芥川龍之介の告別式(谷中斎場)に参列。道閑会を代表して弔詞を頼まれるが固辞する。
7月28日、岡田三郎助・山本鼎・和田三造と綜合展について協議する。
7月29日、茨城県取手の春陽会納涼会に出席する。
7月30日、アトリヱ社『東西素描大成』の会議に出席。ほか、平福百穂・山本鼎・和田三造が出席し、安田靫彦が欠席。
8月13日、山中蘭径を訪ね、浦上玉堂の傑作に感服する。
8月17~29日、富山県・山梨県を旅行する。
(8月17日藤見[日本風景協会理事]と出発。18日富山市で神通川、高岡市で瑞龍寺、新湊、奈呉ノ浦など観光し、富山ホテルに宿泊。19日千垣[現・中新川郡立山町千垣]から常願寺川を遡り、立山[現・中新川郡立山町芦峅寺]の温泉に宿泊。20日、弥陀ケ原の餓鬼田、立山室堂をまわる。22日富山市に戻る。24日に一人で出発。長野を経て山梨県甲府市にて望仙閣へ寄り、長禅寺に宿泊。25日昇仙峡、仙娥滝、集塊岩、板敷渓谷を遡る。26日金櫻神社を詣でた後、甲府から大月[現・大月市]、谷村町[現・都留市]を経由して、船津[現・南都留郡富士河口湖町]船津ホテルに宿泊。27日筒口神社、精進湖を観光。28日本栖湖、富士の樹海を観光。29日帰京。)
9月2~7日、茨城県水木浜に家族と滞在。宮文助らと遊ぶ。
9月、第6回日本南画院展(東京市桜ヶ岡・日本美術協会陳列館)に《水郷三題》(水墨画)を出品する。
9月10日、老荘会。公田連太郎が講師となり、ほか、岸浪静山(百草居)・木村荘八・外狩素心庵・中川紀元・吉田白嶺らが出席。
9月13日、茨城県牛久沼で催された春陽会会員の月見会に出席。ほか、石井鶴三・岡本一平・木村荘八・栗田雄・長谷川昇・中川一政・山本鼎らが出席。
9月20日、老荘会。
9月23~24日、岸浪静山(百草居)・中川一政と茨城県取手の長禅寺に一泊。前年からやりかけていた棕櫚の絵巻を描く。
9月26日、明治神宮聖徳記念絵画館の壁画制作画家たちと、宮内省にて明治天皇の各種肖像を見せてもらう。
10月1日、老荘会。佐藤功一・田澤田軒が新たに会員となる。
10月14~25日、芭蕉の足跡を慕い、岸浪静山(百草居)と東北・北陸を旅行する。
―― 秋、〈未醒〉印章を自刻する。
11月2日、護国寺にある沼波瓊音の墓地に銀杏を植える。
11月10日、老荘会。
11月19日、針重敬喜宅の新築祝いに招かれる。
11月21日、針重敬喜・弓館小鰐と千葉県富浦に永井準一郎(元大分県知事、号:南風)を訪ねる。22日帰京。
11月27日、テニスの試合中に右足をひどく痛める。年末までしばらく痛みに苦しみながら、聖徳記念絵画館の壁画制作に励む。
12月、尚美展(3~5日、主催:尚美堂関長次郎、会場:東京市日本橋・東京美術倶楽部)に《古木高間》を出品する。
12月25日、田山花袋との共著『水郷日田 附博多久留米』(日田商工会)が刊行となる。
―― 《水村長夏》(絹本着色)を描く。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
―― 郵政省簡易保険局による簡易保険奨励用のための扇面画《ざくろ》を描く。 ※現在、郵政博物館蔵
1928(昭和3)年 47歳 1月6日、《奥の細道》が完成する。
1月10日、老荘会。
1月14日、押川春浪の父・押方方義の訃報(1月10日没)を知る。
1月16日、国際協会が主催する全国児童画展の鑑査に、山本鼎・平福百穂らと出席する。
1月17日、王濟遠の宴席(第一楼)に招かれる。
1月19日~2月10日、富山県旅行。
(19日泊で藤見[日本風景協会理事]と合流し富山市へ。20日前年に奈良県警から異動してきた中谷秀[富山県警察部長]に八尾町を案内してもらい、おわら節を聞く。26日藤見と滑川町に一泊。28日医師・川崎順二の招きで再び八尾町へ。温泉に一泊。2月1日宇奈月温泉に滞在。10日富山市に戻る。川崎順二に依頼された越中おわら節の新歌詞として作詞した「八尾四季」を送付。のち、これに振付がつけられ「四季踊り」が完成する。)
2月11~17日、大阪府・滋賀県を旅行。
(11日富山市から大阪へ移動。13日南海電車の岡田意一を訪ねる。近藤浩一路と会う。15日近藤浩一路と大津市へ行き、義仲寺や幻住庵を見学した後、紅葉館に宿泊。16日大阪に戻り、夜の汽車で帰途につく。17日帰京。)
2月20日、老荘会。
2月23日、岸浪静山(百草居)と、百草苑へ松の写生に行く。
3月11日、「泰西美術展覧会 大原孫三郎氏蒐集」(東京府美術館)を見た後、岡本一平宅の老荘会特別会に出席する。
3月20日、老荘会。
3月、長兄・小杉彦治が、病気療養のため進明女学校副校長を辞任し、財団法人進明女学校の有給理事となる。
―― 春、《春風有詩》(絹本着色)を描く。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
―― 春、《酔李白》(絹本着色)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
―― 春、《白衣大士》(紙本着色)を描く。 ※岩野平三郎旧蔵、現在、福井県立美術館蔵
4月1日、老荘会。
4月3日、『アルス美術叢書 大雅堂 普及版』(アルス)を刊行する(1926年に同社から出版した同題書の普及版)。
4月7日、《羅摩物語》が完成する。野州美術会の相談会に行く。
4月10日、老荘会。
4月13~14日、下野新聞社からの依頼で、野州名作展の鑑査のため宇都宮市へ行く。荒井寛方・松本姿水・瀧津某が同行。日光に一泊する。
4月15~16日、常総美術展鑑査のため水戸市へ行く。木村武山・辻永が同行。
4月20日、老荘会。
4月、第6回春陽会展(28日~5月14日、東京府美術館)に、《羅摩物語》(油彩画)、《漁樵閑話》《奥の細道十五題》(ともに日本画)を出品する。 ※現在、《羅摩物語》は東京国立近代美術館蔵
4月30日、庭に金魚用の噴水池を作る。
5月2日、老荘会。
5月10日、老荘会。
5月、《寒山拾得》(紙本着色)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
5月、第7回双水美術協会展に《帰漁》(水墨画)を出品する。
5月、第3回燕巣会展(13~22日、主催:丸善株式会社・室内社画堂、会場:東京市日本橋・丸善階上)に《造仏図》を出品する。
5月14日、長野県大久保に倉田白羊を訪ねる。
5月15~30日、富山県旅行。
(15日に高倉観崖・藤見[日本風景協会理事]・中谷秀[富山県警察部長]と落ち合う。16日魚津町に滞在。20日近藤[浩一路か]・藤見と滑川町で落ち合い八尾町へ移動、松下楼に一泊。21日魚津町に戻る。27日氷見町へ行く。30日富山市に一泊する。この旅行中に《水荘有客》を描く。※現在、出光美術館蔵)
5月、資生堂が主催する第1回資生堂美術展(21~30日、東京市銀座・資生堂画廊)に《波旬の女》(素描)を出品する。
5月31日~6月8日、京都・大阪旅行。
(5月31日富山から京都へ移動。6月1日春陽会大阪展招待日に行った後、京都へ戻る。5日王濟遠を見舞う。7日大阪に宿泊。8日住吉観音寺に実業家の野上菊太郎を訪ねる。)
6月9~19日、京城旅行。
(9日下関港から出航。10日釜山着、京城へ兄・小杉彦治の病床を見舞う。13日清涼堂を見物。14日仁王山に登る。16日腹膜炎で入院中の喬[彦治の三男]を朝鮮総督府病院に見舞う。17日釜山から出航。18日下関港着。19日帰京。)
6月21日、《洞裡長春》を描く。翌月の「祝に因む絵画展」(琅玕洞)出品作。
6月24日、天然自笑軒の芥川龍之介一周忌祭に出席する。
7月1日、老荘会。
7月2日、壁画を小野憲二に手伝ってもらうことにする。
7月6~7日、《田父酔帰》(屏風)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
7月、「祝に因む絵画展」(18~22日、東京市下谷区上野公園前・琅玕洞)に《洞裡長春》を出品する。昭和天皇の御大典を記念した展覧会で、ほかに荒井寛方・石井柏亭・小川芋銭・川端龍子・木村武山・小林古径・長野草風・中村岳陵・速水御舟・平福百穂・前田青邨・森田恒友・安田靫彦・山村耕花・横山大観が出品した。
7月19日、雑司谷共同墓地の沼波瓊音一周忌祭に出席する。
7月20日、老荘会。
7月27日、栃木県人有志による那須御用邸献上屏風の相談会に出席する。佐藤功一ら参加。
8月2日、茨城県取手で開かれた小川芋銭・宮文助の還暦祝いに出席する。ほか、公田連太郎・杉田雨人・西山泊雲・森田恒友・平福百穂ら。
8月10日、老荘会。
8月11日、雑誌『平凡』に小説を連載することになり、主人公の名を「鳴門了三」と決める。
8月12日、《寒山拾得》を描く。
8月18日、中川一政宅の俳句会に出席。木下杢太郎と小宮豊隆が来会。
8月20日、薬局生時代に代診していた坂本善重を弔問する。
8月21日、老荘会。
8月25日、ポプラ倶楽部に来た国木田虎雄とテニスをする。
9月1日、老荘会。
9月2~6日、茨城県水木町旅行。2日水戸市に寄った後、水木町に滞在。宮文助と合流する。
9月10日、老荘会。
9月12日、甥の小杉良和(小杉彦治の四男)が京城から上京し、同居することになる。
9月15日、明治神宮壁画《帝国議会開院式臨御》完成。満足な出来にならず、引き受けたことを後悔する。
9月18日、第2回資生堂美術展に出品する《湿婆神舞踊》を描く。
9月20日、老荘会。
9月、資生堂が主催する第2回資生堂美術展(21~30日、東京市銀座・資生堂画廊)に《湿婆神舞踊》(ミニアチュール)を出品する。 ※現在、出光美術館蔵
9月30日~10月4日、長野県旅行。
(9月30日藤見[日本風景協会理事]と長野市へ行く。10月1日湯田中温泉に宿泊。2日長野市で藤見と別れ、倉田白羊と別所温泉に宿泊。3日独鈷山。4日帰京。)
10月、《洞裡長春》(絹本着色)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
10月10日、老荘会。
10月20日、老荘会。
10月23~25日、杉田雨人・山中蘭径および硯工の堀部・堀越と、茨城県大子町小久慈の渓で硯石を採掘する。
11月1日、起訴された渡辺六郎(東京渡辺銀行専務)の家を山本鼎と見舞う。夜、老荘会。
11月10~12日、田中純・針重敬喜らポプラ倶楽部のメンバーと茨城県旅行。10日助川町。11日水戸市で試合。12日帰京。
11月19日、御用品《みのる秋》(25号)を宮内省へ納める。
11月24日、山中蘭径から浦上玉堂の山水画の大幅を買う。
11月28日、アトリヱ社の藤本韶三と、上野で唐宋元明の展覧会を見る。
11月30日、東京帝室博物館で特別陳列の唐宋展を見る。
12月18日、同情週間の催しとして、石井柏亭・満谷国四郎と色紙の会(東京朝日新聞社本社)を開く。
12月19~27日、北信越旅行。
(19日夜の汽車で出発。20日、滋賀県米原町で近藤浩一路・藤見[日本風景協会理事]と落ち合い、福井県武生町へ。21日福井市。22日橋本左内の墓、藤島神社、新田塚など福井市内を見物してまわる。24日富山県滑川町の清水花壇に宿泊。25日長野市。26日須坂町に田中某を訪ねた後、長野駅から夜の汽車で帰途につく。27日帰京。)
1929(昭和4)年 48歳 1月28日、老荘会。この回より毎月第一・第三月曜日に開催となる。
2月4日、老荘会。
2月15日、矢沢弦月の渡欧送別会に、岸浪静山(百草居)と出席する。
2月19~20日、名古屋松坂屋での個展準備のため、名古屋市に一泊旅行。車中で哲学者の安岡正篤と会う。
2月24日、資生堂で、足立源一郎・木村荘八・山本鼎と発起人になって主催した「倉田白羊山村風景作品展覧会」を見る。
2月25日、東京日日新聞社で開かれた日本風景協会発起人会に出席する。
2月27日~3月2日、名古屋松坂屋での展覧会のため、吉田白嶺と名古屋市に滞在する。
3月、長男・一雄が早稲田大学附属第一早稲田高等学院を卒業する。
3月18日、老荘会。
3月19日、中国の天津から遠山某が、宣統帝の弟と皇后の弟を連れて来訪し、驚く。
3月23日、一雄、百合、二郎、相良英一、甥の小杉良和と埼玉県飯能町で遊ぶ。
3月26日、妻の妹・ミツが柳沼澤介と離婚して日光へ帰る。同日、宮文助の訃報を聞き、森田恒友と共に茨城県取手に弔問へ行く。
3月28日、公田連太郎・森田恒友と取手に行き、宮文助の葬儀に参列する。
3月31日、石井林響の訃報を知る。
4月、長男・一雄が早稲田大学文学部史学科東洋史学専攻に入学。會津八一の指導のもと東洋美術史を学ぶようになる。
4月8日、華厳社展の集り(上野・翠松園)に出席する。栃木県出身・所縁の日本画家有志による組織。
4月9日、岸浪静山(百草居)の渡欧送別会に出席する。
4月14日、森田恒友に、油絵を離れ水墨画のみの道を進むことについて相談する手紙を書く。
4月23日、京城の長兄・小杉彦治が亡くなる。
4月26日、小杉彦治の訃報が届く。体調不良のため、28日の葬式に行くことは諦め、回復次第向かうことにする。
4月、第7回春陽会展(27日~5月19日、東京府美術館)に《山童嬉遊》(油彩画)、《古事記》《古事記(稗田阿礼)》《古事記(泉津平坂)》《古事記(天岩戸)》《古事記(建御雷と建御名方)》(以上日本画)を出品する。この回の出品目録により、春陽会では初めて〈放庵〉号が記録される。
5月頃、第8回双水美術協会展に《清風長笛》《老子出関の図》(ともに日本画)を出品する。
5月1~13日、京城行。
(1日下関港を出港。2日釜山港着。京城の亡兄宅へ行く。4日入院中の小杉喬を見舞う。7日喬が病死。10日釜山港を出港。11日下関港着。大阪で針重敬喜と合流し一泊。12日夜の汽車で帰途につく。13日帰京。)
5月18日、麹町半蔵門前の橋本家にて、与謝蕪村の《奥の細道屏風》を見る。
5月26~27日、森田恒友と茨城県取手へ宮文助の墓参りに行く。水戸市で森田と別れた後、杉田雨人と合流して一泊する。
5月27日、水戸から帰京後、渡欧する水谷清のため、小野・栗田雄を招いて会食する。
5月28日~6月18日、山中蘭径と秋田県を旅行する。横手、田沢湖、大曲、潟尻、秋田などまわる。新聞記者の赤川菊村や田口松圃らと会う。
6月、吉井勇が創刊した詩歌文芸雑誌『相聞』1巻1号に、短歌「庭にて歌ふ」を寄せる。これが好評を得たことで、短歌に力を入れるようになる。
6月、第4回燕巣会展(7~16日、主催:丸善株式会社・室内社画堂、会場:東京市日本橋・丸善階上)に《蹴球之図》(油彩画)を出品する。
6月25日、山崎省三の渡仏送別会に出席する。
6月27日~7月21日、九州旅行。大分県では春日浦にある内本浩亮の別荘(遅日荘)に滞在。宇佐や臼杵の石仏、長崎県の雲仙岳や島原、熊本県の江津湖などを観光してまわる。
7月、美之国五周年記念展(17~21日、東京市日本橋・三越)に《漁村夕陽》を出品する。
7月23日、日帰りで水戸市へ行き、杉田雨人・仲田某と、太子硯や五百城文哉の油彩画寄贈の件、小杉の画会のことなど相談する。
8月4日、京城から亡兄と喬の遺骨が届く。
8月12日、銭痩鉄夫妻を自宅に泊める。
8月14日、銭痩鉄と松坂屋へ行き、銭の個展の約束をとりつける。
8月21~24日、水戸市に滞在する。
―― 新秋、銭痩鉄に〈未醒〉の印章を彫ってもらう。
9月1日、銭痩鉄の個展(松坂屋)を見る。
9月2日、春陽会洋画研究所が東京市麹町区(現・千代田区)内幸町ビルディング4階に開設となる。
9月3~7日、亡兄と喬の納骨のため日光へ帰郷。3日姉と日光へ行く。4日丸美で墓所を選ぶ。5日納骨式。6日相良英一と高原山に登る。7日帰京。
9月9日、春陽会洋画研究所披露式に出席する。
9月17日、茨城県取手の宮文助の墓参りをかねた月見会に出席する。ほか、倉田白羊・中川一政・森田恒友らが出席。
9月28日、華厳社の集まり(上野・鳥鍋)に出席する。
10月2日、玄関前に水盤を据える。
10月6日、日光から取り寄せた石で、庭に沓脱石を据える。
10月7日、老荘会。
10月19日、鴨内某と山本清子の結婚披露宴に、針重敬喜と共に出席する。
10月20日、浅野長武に招かれ、刀や雪舟の水墨画など見せてもらう。
10月21日、老荘会。
11月刊、清水比舟(比庵)が主宰する日光短歌会の歌誌『二荒』(のち『下野短歌』と合併)の装画を担当する。(~1941年1月号まで)。
11月7~10日、山中蘭径と水戸市に滞在する。
11月18日、老荘会。鹿島龍蔵・中川一政・山中蘭径らと出席。
11月29日、夜、華厳社の披露会が上野・翠松園で開かれ、出席する。
12月、第1回華厳社展(1~5日、東京市上野・松坂屋)に《小林面壁》《観馬》(ともに日本画)を出品する。ほかの出品者は、荒井寛方、小堀鞆音、石川寒巖、大貫鉄心、岡田蘇水、河内舟人、小林草悦、関谷雲崖、武井晃陵、福田浩湖、松本姿水。
12月1日~2月13日、九州旅行。
(12月1日夜の汽車で出発。2日大阪港から出港。3日別府港着。大分市春日浦の内本浩亮別荘[遅日荘]に滞在。4日別府柴石。6日日本画家の首藤雨郊と英彦山に登る。7日首藤と別れ、英彦山神宮奉幣殿や豊前坊をまわる。17日再び遅日荘に滞在。21日鹿児島県指宿温泉に滞在。22日池田湖を観光後、霧島町の霧島温泉、栄之尾温泉をまわる。23日宮崎県の都城、青島をまわる。24日、鵜戸窟、延岡、三田井をまわり、今国旅館に宿泊。25日高千穂町で天岩戸と高千穂神社を参拝後、大分市に戻る。31日長崎県島原の南風楼で年越し。)
―― アトリヱ社発行の『東西素描大成』全16巻を、安田靫彦・山本鼎・和田三造と編集する。
―― この頃、岩野平三郎製の和紙を使い始める。
1930(昭和5)年 49歳 1月~2月、昨年から年をまたいで九州・四国旅行。
(1月4日島原城。5日雲仙岳を登る。長崎へ移動。6日長崎図書館、大浦天主堂などまわる。7日島原に戻る。8日熊本を観光。9日大分県竹田・岩城館に滞在。10日大分県春日浦の内本浩亮別荘[遅日荘]にしばらく滞在。11日内本浩亮のために描いてきた《鎮西画冊》が完成に近づく。首藤雨郊・福田平八郎と会食。18日夜に大分から出航。19日高松に到着。屋島に登る。20日観音寺。21日白峯。22日高知。23日室戸岬。津呂で岡上徂水と会う。25日高知城。26日高知港から舟で桂の浜や龍王岬などをまわる。香宗の岡上徂水宅に滞在。2月12日船で帰途につく。13日帰京。)
1月、華厳社の宇都宮展(下野新聞社3階大ホール)に出品する。前年の東京展の会員に、荒木月畝、戸室臨泉、大山雅堂(魯牛)が加わる。
2月19日、水戸市に一泊する。
3月20日、船越義珍に再びポプラ倶楽部で唐手を指導してもらう。
3月31日、体育協会で開かれた極東オリンピックポスターの鑑査に出席する。審査員はほかに、斎藤素巌、日名子実三、和田(三造?)。
4月、第8回春陽会展(東京府美術館)に、《後赤壁図巻》(紙本着色)、《養鯉》(紙本着色)、《試馬》(日本画)、《秋水仙》(日本画)、《椿》を出品する。 ※現在、《後赤壁図巻》は《後赤壁賦》の作品名で小杉放菴記念日光美術館蔵、《養鯉》は出光美術館蔵
5月4日、久しぶりの老荘会に出席する。
5月7日~6月19日、岡上徂水と満洲旅行。
(5月7日出発。8日に三の宮から香港丸で出航。大連、奉天、長春、ハルピンなどをまわり、6月19日神戸港へ到着。大阪に滞在後、そのまま九州旅行へ向かう。)
5月13日、田山花袋が亡くなる。
5月15日、『放庵画論』(アトリヱ社)が刊行となる。
5月20日、『景勝の九州』(別府商工会議所)が刊行となる。
5月、資生堂美術展(24~30日)に出品する。
5月、長谷川氏のために《芍薬》(絹本着色)を描く。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
6月20日、『彦山』(英彦山振興会)が刊行となる。
6月24日~7月17日、熊本県・大分県旅行。たびたび内本浩亮の世話になる。
7月、『福岡日日新聞』に連載された田山花袋の遺稿「阿蘇及び久住(全105回)」の挿絵を担当する。
8月13日、『満州日報』へ送る絵を描く。
8月22~27日、日光へ帰郷。
(22日百合・二郎を連れ、初めて東武日光線で日光へ行く。途中、出流[現・栃木市]で観音を見る。26日一雄・二郎と中禅寺、立木観音などをまわり、華厳の滝のエレベーターに乗る。27日帰京。)
9月13日~10月16日、滋賀県・福井県・富山県旅行。
(9月13日大津。14日竹生寺。15日高浜。17日多賀神社、八日市、大津。23日彦根。佐和山に登山。大津。24日安土にて摠見寺に宿泊。25日大津。28日叡山。29日名古屋に一泊。30日小浜。10月1日小浜神社や小浜公園を観光。2日モーターボートで小浜湾をまわる。芦原温泉に滞在。5日山中温泉。6日金沢。7日三国。9日岡本村。11日富山県八尾。川崎病院を訪ねる。12日自作の歌「八尾八景」を贈る。13日川崎順二と山田の湯へ行く。14日風呂先の屏風を描く。15日富山県桜木町に一泊。16日帰京。)
10月18日、日光東照宮朝陽閣で開かれた栃木県名勝保存委員会の初協議会に出席する。ほかに原田維織栃木県知事(会長)、今井徳順、大槻省司、加藤直久、久保市三郎、黒板勝美文学博士、国府犀東、見目清、清水秀(比庵)、原農学博士、藤巻正之、星藤太、本多静六林学博士らが出席し、「日光塩原の名勝地調査」「杉並木保護経営」「史跡調査」について討議。午後、自動車で中禅寺湖まで登り、華厳滝のエレベーターで滝壺を見学後、歌ヶ浜からモーターボートに乗船。中禅寺の立木観音、菖蒲ヶ浜をまわり、湯元の南間ホテルに宿泊する。
10月19日、栃木県名勝保存委員会一同と竜頭ノ滝を見学後、山内の開山堂と四本龍寺、船生の佐貫石仏、塩原などをまわり、帰京する。
10月26日、かつての義父・国府浜酉太郎の訃報を聞く。
11月1日、頼まれて《自画像》を描く。※現在、出光美術館蔵
11月7~8日、招かれて荒井寛方と日光へ帰郷。
(7日鬼怒川、大野口の名鐘、瀞で舟遊び、鬼怒川温泉。8日川治の後、七里にある妻の実家へ行き、相良キミと龍蔵寺へ国府浜夫妻の墓参りに行く。帰京。)
11月10日、『景勝の九州 増補改版』(日本風景協会)が刊行となる。
11月14日、春陽会の箱根日帰り旅行に参加する。
11月16日、油彩画《菊》8号を描く。
11月20日、帝展を見る。
11月27日、岸浪静山(百草居)と水戸に一泊する。
12月、歌に因む展覧会(東京市上野・琅玕洞)に《岩の上》を出品する。
12月6~30日、高知旅行。
(6日夜の汽車で出発。7日大阪に寄った後、夜神戸港から出航。8日室戸岬に到着。高知で岡上徂水と行動を共にする。30日帰京。)
1931(昭和6)年 50歳 1月20日、久しぶりの老荘会に出席する。
1月25日、小山敬三が来訪する。
2月上旬、横山大観との会食の場で日本美術院に戻るよう頼まれるが断る。
2月27日、『琵琶湖をめぐる』原稿を脱稿する。
2月28日、老荘会に出席する。
3月15~18日、長女・百合の肖像を描く。この年の春陽会展に《娘》として出品。
3月19日、中谷某・内本浩亮と共に、浮世絵綜合展(12~20日、主催:東京浮世絵協会、会場:東京府美術館)などを観る。
3月20日、松坂屋で開かれた東京日日新聞社主催「活きた広告展」の鑑査に出席する。
3月23日、《鯉》を描く。
3月27日、宇都宮市で開かれた第1回下野美術展(下野新聞社主催)の鑑査に出席。ほか審査員は石川宰三郎・小堀鞆音・荒井寛方・松本姿水・川島理一郎ら。
3月28日、朝、日光へ帰郷。町長の清水秀(比庵)と山内を見てまわり、日光町観光課から発行するパンフレット用の鳥瞰図について打ち合わせる。妻の実家に寄り、相良敏三夫妻と共に帰京する。
4月、第1回下野美術展(1~15日、主催:下野新聞社)に、審査員として《羅摩物語》(油彩画)を参考出品する。同展は好評により、閉幕日が7日から延長された。 ※現在、東京国立近代美術館蔵
4月7日、日光町観光課から発行が予定されているパンフレット用の日光鳥瞰図に着手する。
4月12日、松本市から姉ヤヲが来訪する。
4月、第9回春陽会展(12日~5月3日、東京府美術館)に《娘》(油彩画)、《蒙古馬》、《寒山子》(水墨画)、《土佐風景 一》(紙本墨画)、《土佐風景 二》(紙本墨画)を出品する。5月に大阪市(貿易館)へ巡回。 ※現在、《土佐風景 一》《土佐風景 二》は《海南画冊》に貼りこまれ、東京国立近代美術館蔵
4月15~25日、富山県を旅行する。(15日滑川町。17日魚津。19日大岩不動尊、眼目山立山寺を参拝。20日八尾町。川崎順二に迎えられ、春の祭りを見物。21日八尾町城ヶ山公園。22日滑川町。24日夜に富山を発。25日帰京。)
4月26~28日、高浜屏風を描く。
5月4日、日光町観光課パンフレット用の絵が完成する。
5月7日、東京日日新聞社の催しで、民国絵画について講演する。
5月12~15日、春陽会大阪展の準備のため大阪市へ行く。
5月16日、大阪から安土に立ち寄り、夜の汽車で帰途につく。
5月17日、朝に帰京。次姉・永井キチが胃癌・喉頭癌により亡くなる。
7月 後援者として名を連ねた、「銭痩鉄氏小品画及篆刻遊印展覧会」(11~12日、東京銀座・資生堂ギャラリー)が開催される。その他の後援者は、會津八一・小川芋銭・橋本関雪・山中蘭径など。
7月16日、来夏のロサンゼルスオリンピックのスポーツ芸術競技会に参加するために設立された、大日本体育芸術協会の創立総会(東京市丸ノ内・工業倶楽部)に出席する。
7月20~27日、一雄・二郎・義男・岸浪百草居を連れ、日光へ登山旅行。山内にて日増院の昌競和尚が加わり、従弟が案内役となる。
8月上旬、針重敬喜・田中純・藤見(日本風景協会理事)と美濃・飛騨を旅行。26日に帰京。
―― 夏、鷹見久太郎が、資金繰りが困難になった東京社の倒産を避けるため、武侠社の柳沼澤介に経営を譲る。東京社は戦後、婦人画報社になり、柳沼の息子が経営を引き継ぐ。
9月、《達磨》(絹本着色)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
9月14~16日、日光東照宮のため《洗馬》(絹本墨画)を描く。 ※現在、日光東照宮蔵
9月17日、『琵琶湖をめぐる』の装幀を描く。
9月19日、八代某が来訪し、新赤倉温泉に別荘を建てる相談をする。
9月24日、日光東照宮へ《柳陰洗馬》と袋戸棚の絵を発送する。
9月25日、国立公園協会が主催する国立公園洋画展の会議に出席する。
9月28日、国立公園洋画展会議に出席する。
9月30日、『工房有閑』(やぽんな書房)が限定予約版として刊行される。
10月4日、石井柏亭・梅原龍三郎・和田三造と、正木直彦東京美術学校校長を訪ねる。春陽会・二科会・国画会などの団体の西洋画を帝展西洋画部に合流、統一する方法がないか相談する。
10月5日、国立公園洋画展会議に出席する。
10月19日、辰沢延次郎(10月14日没)の告別式に参列。木村荘八の和田堀の新居で開かれた老荘会に出席する。
10月21日~12月3日、九州・四国を旅行する。
(10月21日内本浩亮と共に出発。22日福岡県鳥飼に建てられた内本の新邸に滞在。11月3日大分。7日鳥瞰図を描く約束のため耶馬溪に行き、山国屋に宿泊。29日中津で耶馬溪鳥瞰図の打ち合わせ。12月1日宇和島。2日松山。3日帰京。)
12月15日、長女・百合と水谷清の結婚披露宴が上野の精養軒にて開かれる。媒酌人は木村荘八夫妻。招待客は、鹿島龍蔵・金井紫雲・田澤良夫・満谷国四郎・山本鼎・横山大観ら。娘夫婦は、中川紀元の紹介で信州諏訪の温泉へ新婚旅行に発つ。
12月29日、春陽堂から小杉の『奥の細道画冊』出版の話が進み、名古屋の神野某に作品借用を依頼するも断られたため、新たに作品を描きおろすことにする。
―― 倉田白羊・山崎省三・山本鼎・吉田白嶺らが発起人となって起ち上げた「村山桂次君後援会」に協賛する。
1932(昭和7)年 51歳 1月、新潟県妙高高原の赤倉温泉に別荘が完成し、安明荘と名づける。
1月8日、《奥の細道》43枚完成。
1月17日、耶馬溪鳥瞰図の墨刷稿を渡す。
1月、第3回漆如会展(17~20日、東京市京橋・髙島屋)に《早春》《一石一松一□人》を出品する。ほか、冨田溪仙・正宗得三郎・結城素明が出品。
1月18~24日、名古屋に滞在。
(18日出発。19日名古屋着。春陽会名古屋展の打ち合わせなど。滞在中、屏風絵を描く。)
1月24~27日、関西に滞在。
(24日名古屋から安土へ移動。摠見寺へ行く。25日春陽会大阪展打ち合わせ。27日帰京。)
2月、第1回六潮会展(6~10日、東京市日本橋・三越ギャラリー)に、招待出品として《全九州山水大画冊》が特別陳列される。 ※現在、《鎮西画冊》の作品名で出光美術館蔵
2月6日、六潮会展初日を見に行き、自分の《鎮西画冊》が無断で招待出品されているのを面白く思う。下野新聞社の招宴、六潮会の宴に出席する。
2月8日、一雄・二郎・三郎を連れて動物園に行き、水牛を写生する。
2月13日、屏風《呉牛》の制作にとりかかる。
2月16日、大日本体育芸術協会から、日本オリムピック美術委員に推薦される。推薦美術家は次の通り。日本画=鏑木清方、矢沢弦月、松岡映丘、結城素明、平福百穂、洋画=和田三造、金山平三、牧野虎雄、南薫造、安井曾太郎、版画=石井鶴三、硲伊之助、山本鼎、彫刻=池田勇八、豊田勝秋、高村豊周、藤井浩祐、藤川勇造、斎藤素巌、北村西望、日名子実三、建築=土浦亀城、佐野利器、佐藤武夫、岸田日出刀。
3月、日本創作画協会展(17~21日、東京市上野・松坂屋)に《寒山子》を出品する。
3月、長男・一雄が早稲田大学文学部史学科東洋史学専攻を卒業する。
4月、長男・一雄が早稲田大学大学院に進学する。指導教授は會津八一。
4月7日、宇都宮市で開かれた第2回下野美術展(下野新聞社主催)鑑査に出席する。
4月10日、横山大観が来訪。小杉の水墨画の話などする。
4月12日、横山大観と会食する。
4月、第10回春陽会展(24日~5月15日、東京府美術館)に、《雲山》《水郷八景》《呉牛》(すべて日本画)を出品する。大阪市(白木屋呉服店)へ巡回。 ※現在、《雲山》は出光美術館蔵
4月26日、八代氏のために陶画を描く。
5月2日、老荘会に出席。岸浪百草居の特別会で大勢集まり、書画会となる。石川寒巌が初参加。
5月5~6日、栃木県那須旅行。
(5日出発、宇都宮駅から川村氏が同車。那須温泉「山楽」に一泊。6日火山、殺生石、弁天温泉、大丸温泉、北温泉、茶臼岳、峰の茶屋などまわる。黒磯駅から帰京。)
5月11日、横山大観を訪ね、二人で話す。
5月、第10回オリンピック芸術競技会ロサンゼルス大会出品作の国内展(22~29日、主催:体育協会、会場:東京朝日新聞社画廊)に、審査員として《ラグビーの一構図》(油彩画)を出品する。
5月28日、老荘会。
6月8~14日、春陽会大阪展のため大阪市に滞在する。
(8日出発。9日安土·摠見寺で本堂工事を見学後、大阪へ行く。10日大阪城を見物。12日大阪毎日新聞社が主催する剣道大会の旗の図案を描く。14日朝の汽車で下関へ移動。下関港から夜の船で釜山へ向け出航。)
6月15~27日、国立公園絵画の金剛山取材のため、朝鮮半島へ行く。
6月15日、『琵琶湖をめぐる』(日本風景協会)を刊行する。日本風景協会は針重敬喜(田端521番地)の主宰。
6月20日、『小杉放庵画集』(アトリヱ社)を刊行する。
7月、個展「小杉放庵氏新作画展」(大阪市・髙島屋)に《仙家長春》など近作20余点のほか、オリンピックに出品予定の《ラグビーの一構図》(油彩画)も出品する。
7月、第10回オリンピック芸術競技会ロサンゼルス大会(ロサンゼルス美術館)に《ラグビーの一構図》(油彩画)を出品する。
7月6日、川村氏と栃木県足利市を観光。行道山、足利学校、鑁阿寺などをまわる。宇都宮に移動し一泊。
7月7~9日、水戸市に滞在。
(7日宇都宮から水戸へ移動、杉田雨人の雨遇楼に滞在。9日帰京。)
7月10日、『奥の細道画冊』(春陽堂)が刊行となる。
7月11日、老荘会。
7月13日、《金剛山萬瀑洞》(25号、油彩画)が完成する。10月の国立公園洋画展に出品。
7月14日、横山大観を訪ね、秋に予定している個展について相談、会場のことを引き受けてもらう。
7月19日、三越に行き個展について相談、11月に開催することを取り決める。
7月24日、田端・自笑軒で開かれた芥川龍之介の年忌法要に出席する。
7月25日、体調不良で老荘会を欠席する。
8月8~13日、安明荘から富山県へ旅行する。
(8日安明荘。9日富山県宇奈月へ行く。10日黒部谷、滑川をまわり、上市町に一泊。11日富山、高岡、放生津をまわり、出町の酒井憲三邸に一泊。12日庄川発電所見学後、蒸気船で瀞をのぼり、大牧温泉に一泊。13日安明荘へ戻る。)
8月13~23日、安明荘に滞在して制作する。
8月25日、春陽会で日本画を手がける画家の会合に出席する。
9月2~24日、安明荘に滞在する。
9月24日~10月4日、秋田県を旅行する。
10月、国立公園洋画展覧会(7~11日、東京市・日本橋三越本店)に《金剛山萬瀑洞》(油彩画)を出品する。この後、大阪三越(10月)、高松市の三越支店(11月)へ巡回。
10月11日、三越本店にて国立公園洋画展覧会を観た後、翌月の個展について打ち合わせをする。
10月18日、翌月の個展出品作27点が完成する。
10月20日、個展出品予定作品を大塚巧芸社が撮影する。
10月24日、老荘会。
11月、個展「小杉放菴紙本水墨画展」(1~5日、東京市日本橋・三越本店)を開催。《水亭》《洗馬》《山湖》《雨竹》《水荘有客》《松下人》《霜後》《山荘有客》《新雲》《渓魚》《罌粟》《泰山木》《朝雲》《松下一閑人》《草山》《石上独嘯》《小春野》《養魚》《風竹》《高千穂》《役行者》《山荘長夏》《蒼海》《入江》《水村黄昏》《長老沙彌青道心》(すべて日本画)を発表。個展27点中17点が売れる。 ※《水亭》は小杉放菴記念日光美術館蔵、《洗馬》は横山大観記念館蔵
11月7日、老荘会。内務省の唐沢俊樹が参加。
11月8日、佐藤功一・湯沢三千男と会食する。
11月1日、老荘会の友人たちと根岸に遊ぶ。
11月21日、老荘会。松尾芭蕉の遺墨収集家として知られる内本浩亮(観魚荘)が参加する。
11月27~28日、水戸市に滞在する。
12月、松島画舫新作絵画展(4~6日、主催:松島画舫、会場:銀座・三共製薬)に《山荘有客》(日本画)を出品する。
12月5日、老荘会。森田恒友が食道癌で千葉医科大学付属病院に入院したことを聞く。
12月7日、鹿島龍蔵と共に、森田恒友を見舞う。
12月16日、森田恒友を見舞う。
12月19日、老荘会。
12月24~31日、針重敬喜と青森県を旅行する。
―― 冬、《桃花》(紙本着色)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
―― 冬、《泰山木》(油彩画)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
この頃 歌誌『大分歌人』の題字を書す。
1933(昭和8)年 52歳 1月7日、木村荘八・中川一政と共に、森田恒友を見舞う。
1月18~25日、摠見寺のために襖絵《石上》を描く。この年の春陽会展出品作。
1月27日、山陰旅行。
1月31日~2月17日、福岡県を旅行する。
(1月31日門司、出光佐三に迎えられる。2月1日、新築の出光邸を訪問。表装された自作《雲山》を見る。3日午前中に太宰府、観音寺、天満宮などを詣る。午後に福岡市の実業家・内本浩亮[観魚荘]を訪ねる。天神の青木旅館に滞在する。4日内本邸に岸浪百草居・高倉観崖など集まる。6日《仙家朝陽》を描く。9日内本邸の襖絵を描き始める。10日、宿を内本邸に移す。11日内本邸の襖絵完成。15日門司から夜の汽車で帰途につく。16日京都・安土に立ち寄り、摠見寺の新築本堂を見る。17日帰京。)
2月18日、森田恒友を見舞い、死期が近いことを悟る。
3月6日、老荘会。
3月10日、《稗田阿礼》(油彩画)を描く。
3月20日、老荘会。
3月24日、一家で茨城県取手まで宮文助の墓参りに行く。
3月26日、三越の淡交会展を見、竹内栖鳳の技術に驚く。
3月、《役小角》を描く。
4月5日、『日本の十和田湖と青森の山水』(日本風景協会)が刊行となる。
4月8日、森田恒友危篤の知らせを聞き、病院まで駆けつける。森田はすでに逝去。通夜に参加する。
4月9日、倉田白羊が来泊。
4月11日、森田恒友の告別式に参列。硲伊之助から春陽会退会の申し出を聞く。
4月15~25日、安土旅行。摠見寺に滞在して制作する。
(15日夜の汽車で出発。16日高倉観崖と合流。17日福岡から内本浩亮が来る。18日摠見寺の襖絵にとりかかる。19日襖絵《夕陽の松》完成。20日襖絵《風竹初月》にとりかかる。22日九州から来た岸浪百草居が合流。《風竹初月》完成。24日帰りの途につく。25日帰京。) ※《夕陽の松》は現在《日の出》、《風竹初月》は《竹林》の作品名で小杉放菴記念日光美術館寄託。
4月、第11回春陽会展(23日~5月14日、東京府美術館)に、《石上》、《山水南北冊(春水、籠堂、獨耕、初夏山、渓石、火山、瀑背、山湖、地下洞、野水、山荘、雪山)》、《松下》(すべて日本画)を出品する。 ※現在、《石上》は摠見寺蔵・小杉放菴記念日光美術館寄託、《山水南北冊》は《山水十二趣》の作品名で出光美術館蔵
4月26日、宇都宮市で開かれた第3回下野美術展(下野新聞社主催)鑑査に出席する。
5月、妻の妹・相良キミ(相良楳吉の五女)が高橋英男(栃木県塩谷郡藤原村)と結婚。同月、同じく相良ミツ(相良楳吉の三女)も再婚する。
5月14日、岸浪百草居が日本南画院同人になったことを聞く。
5月15日、老荘会。
5月18~26日、広島県旅行。湯沢三千男知事の計らいで厳島を取材する。
5月30日、横山大観を訪ね、日本美術院で公田連太郎に講義をしてもらってはと提案。9月から王陽明の講義をすることに決まる。
5月31日、岸浪百草居の日本南画院同人推挙を祝う会に出席する。
6月3~14日、安明荘に滞在する。
(3日赤川菊村・横堀角次郎らと安明荘へ行く。4日岸浪百草居来訪。5日山中蘭径来訪。7日鹿島龍蔵・木村荘八・中川一政来訪。8日鹿島・木村帰宅。9日中川・赤川帰宅。12日横堀と二人になる。13日吉井勇・イノベ氏来訪。)
6月15日~7月6日、新潟市および佐渡旅行。
(6月15日、出発。新井で横堀角次郎と別れ、高田で吉井勇・イノベ氏合流。新潟市・イタリヤ軒。欧州遊学の時に同船したイタリア人男性が始めたホテル。17~29日、吉井勇らと佐渡に滞在。30日佐渡出航、新潟市のイタリヤ軒に滞在後、7月6日帰京。)
7月9日、三越に行き、今年も個展を開く約束をする。
7月16日、横山大観に内本浩亮を紹介する。
7月17日、老荘会。
7月18日、横山大観に会うため、十数年ぶりに谷中の日本美術院を訪ねる。大観と共に、丸の内・九州水力電気株式会社へ内本浩亮を訪ね、池大雅・与謝蕪村の《十便十宜画冊》を見せてもらう。
7月19日、友人たちと水戸市に一泊する。
7月20日、李王家城寿宮美術院の相談会に出席。夜の空襲演習に参加する。
7月26日、油彩画《厳島風景》完成。広島県庁の湯沢三千男へ送る。 ※《厳島風景》は現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
8月10日~9月末日、安明荘に滞在。
(8月10日夜の汽車で赤倉へ向かう。11日安明荘に滞在。個展の作品制作に励む。滞在中、連日上に乗っていた庭の大石を掘り起こす。9月7日〈今春予がかける「石上」の石によく似たるもおかし〉。14日夜の汽車で一時帰京。15日田端の自宅に針重敬喜、摠見寺住職が来訪。夜に横山大観・公田連太郎と会食。この日、日本美術院で公田の最初の陽明学講義が開催。16日再興院展を見てから安明荘へ戻る。9月末日までの滞在中に庭からまた石をいくつか掘り出す。
10月1日、赤倉から夕方の汽車で長野県上田へ行く。倉田白羊に迎えられる。2日上田から帰京。
10月2日、石井鶴三・木村荘八・中川一政・鹿島龍蔵が来訪、春陽会について相談。夜に老荘会。
10月7日、岸浪百草居の画談会(如水会館)に出席する。
10月、第4回淡如会展(14~19日、東京市日本橋・髙島屋)に《胡馬》を出品する。
10月30日、平福百穂が脳溢血で亡くなったことを知る。
11月、三越本店第2回個展(6~11日)を開催。《漁楽》《湖山新霽》《松下有泉》《水郷黄昏》《緑陰対局》《湖山春暁》《緋鯉》《枕渓》《雨竹》《山禽》《秋山独嘯》《寒山拾得》《鶏頭》《深篁打魚》《山院有酒》《渓亭》《五柳子》《水牛》《竹石一閑人》《三笑》(すべて日本画)を発表。20点中18点売約となる。 ※現在、《漁楽》は小杉放菴記念日光美術館蔵、《湖山新霽》《松下有泉》《水郷黄昏》は出光美術館蔵
11月6日、個展会場に横山大観が来訪。共に平福百穂の告別式に参列する。
11月2日、内本浩亮夫人の訃報を知り、弔電を送る。
11月7日、五百城文哉が遺した詩の整理がほぼ終わる。
11月10日、『放菴歌集』のために整理した自作の短歌を竹村書房に渡す。
11月11~14日、福岡県旅行。
(11日個展終了。妻を亡くした内本浩亮をはげますため、午後の汽車で福岡市へ向かう。車内で『西廂記』を読む。12日福岡着。内本を見舞う。福田平八郎がつきっきりで慰めていた。13日外狩素心庵が合流。仙崖寺にて共に墓地を選んだ後、同寺に伝わる仙崖の六曲屏風を見せてもらい、傑作と感心する。夜の汽車で帰りの途につく。14日帰京。車内で『戦争論』『三国志演義』を読む。)
11月20日、老荘会。
11月21日、日記で〈コテンの仕事は去年のに比してたしかに一段の進歩あり コテン後 特にわが仕事の出来不出来わかる心地す 実技進まねば芸術わからず 実技知らぬ批評家は盲象なり 実技至らぬ作家の評は下の座敷で二階を想像す〉と振り返る。
11月22日~12月1日、水戸市に滞在。杉田雨人・佐藤晩香(常総新聞記者)らに迎えられる。整理した五百城文哉の詩集『文哉詩鈔』原稿を杉田へ渡す。滞在中、山本鼎・岸浪百草が来訪する。
12月3~4日、日光に一泊帰郷。
(3日義妹・キミ夫妻が経営する川治温泉を訪ねる。4日清水秀[比庵]町長に会う。鉢石の柳田氏、義弟·相良英一と共にケーブルカーで明智平へ行く。30数年前に五百城文哉と徒歩で登って以来。夕方帰京。)
12月5日、東京府美術館常議員会に出席。夜に木村荘八宅にて、各人の書画をクジ引きで分かつ老荘会特別会に出席する。
12月7日、『放菴歌集』題字を書く。
12月、松島画舫新作展観(東京市銀座・越後屋ビル)に《赤い実》を出品する。
12月8~31日、秋田県を旅行。
(8日夜の汽車で出発。9日大曲着。赤川菊村・田口松圃に迎えられる。仙北ホテルに滞在。13日角館。平福百穂の墓参り。14日大曲に戻る。15日秋田市。16日横手。なじみの平利旅館に滞在。17日平利旅館で開かれた平福百穂追善会に出席。22日女学校で講演会。23日赤川菊村・田口松圃・富樫伝右衛門らと玉川橋畔·玉川屋へ雪見に行く。28日大曲に戻る。夕方に太平山の小玉家を訪ね宿泊。29日朝に大曲へ戻り、宿にて小杉の送別会。30日夕方の汽車で帰りの途につく。31日帰京。)
12月25日、初めての歌集『放菴歌集』が刊行となる。書名で初めて〈放菴〉と署す。函の装幀を中川一政に、扉を木村荘八に、カットを子どもたちに手がけてもらう。
12月31日、秋田県旅行から帰宅し、届いていた『放菴歌集』を手にとる。日記に〈画も大分進歩したり モ少しにて水墨新南画一番の名人となるらん〉とこの年を振り返る。
12月頃、五百城文哉の遺稿をまとめた『文哉詩鈔』が刊行となる。
1934(昭和9)年 53歳 1月1日、老荘会。
1月2日、麻布の医師・中村鉄二宅にある小杉旧作になる六曲一双屏風の売却について相談を受け、少しでも高くなるよう手を加える約束をする。
1月3日、横山大観の招宴に出席する。泉鏡花も同席。
1月9日、湯沢三千男・唐沢俊樹・針重敬喜と会食する。
1月20~23日、針重敬喜らと安明荘に滞在し、スキーを楽しむ。
(20日夜に出発。23日帰京。)
1月27日、水戸市にて明治初年の油絵について講演する。日帰り。
1月29日、老荘会。
1月31日、六潮会の招宴に出席する。
2月1日、安土から運んできた水盤を自宅の庭に据える。
2月5日、春陽会会員会に出席。鳥海青児・別府貫一郎・水谷清ら新会員として参加する。
2月、三越美術部が主催する三越東西画伯色紙展(6~11日、東京市日本橋・三越本店)に《暮雪》(水墨画)を出品する。
2月、以前、横山大観・泉鏡花との「炉邊の会」で、大観がお揃いの煙管を小杉と鏡花へ贈り、その返礼として小杉と鏡花で、下谷・伊勢梅に大観を招待する。銀の煙管に紫の煙草入れを、小杉は終生愛用していたという。
2月10日、松方氏蒐集欧洲絵画展(6~20日、主催:青樹社、会場:東京府美術館)を見る。
2月12日、老荘会。
2月13日、名古屋での個展用の新作25点を描き終える。
2月19日、杉田雨人夫人の急逝を聞き、水戸へ行く。20日葬儀に参列し、帰京。
2月23日、新著『草画随筆 満鮮と支那』の原稿を交蘭社に渡す。
3月5日、老荘会。
3月12日、動物園で尾長鳥を見る。
3月13日、一雄に尾長鳥を買ってきてもらう。
3月15日、二郎を連れ、国技館へピストン堀口のボクシング試合を見に行く。
3月17日、泉鏡花・吉田白嶺と共に、横山大観を招く宴を下谷・伊勢梅で開く。以前「炉邊の会」で、大観から揃いの喫煙具を贈られた返礼。銀の煙管に紫の煙草入れを、小杉は終生愛用した。
3月24日、「花の扇散らしの屏風」制作にとりかかる。 ※この年の第12回春陽会展出品《草木春秋屏風》か
4月5日、『草画随筆 満鮮と支那』(交蘭社)が刊行となる。
4月7日、故森田恒友宅にて遺作を選ぶ。
4月10~11日、名古屋松坂屋での個展のため、名古屋市に滞在する。
4月13~17日、油絵を描いてみるが上手くいかず。
4月、第12回春陽会展(22日~5月13日、東京府美術館)に、《草木春秋(屏風)》を出品する。大阪市(朝日会館)へ巡回。
4月23日、老荘会。森田恒友の遺墨を分けあう。
4月27日、夜、宇都宮市へ行き、白木屋本店に一泊。
4月28日、下野新聞社にて第4回下野美術展の鑑査に出席した後、帰京。
4月29日、横山大観の招宴に出席する。
5月2日、横山大観と相談した国会議事堂を会場とした展覧会について唐沢俊樹に意見を求め、その返事が届く。
5月4~12日、愛知県旅行。
(4日夜出発。5日名古屋市到着。11日自動車を頼んで知多半島をまわる。12日帰京。)
5月15日、子どもたちと日帰りで、群馬県太田町の大光院、館林町のつつじ園、ぶんぶく茶釜で知られる茂林寺を観光する。
5月16日、日本南画院展の招待日に参観。石川寒厳、大山雅堂(魯牛)、岸浪百草居の作品に感心する。
5月、東京髙島屋新作画展(16~20日)に《木蓮に尾長鳥》を出品する。
5月19日、吉田白嶺の招宴に出席する。横山大観も同席。
5月20日、一雄・二郎と日帰りで妙義山を登山する。
5月21日、老荘会。
5月26日、東京美術学校で和田英作校長に面会。李王家美術館のために春陽会の絵を購入してもらう打ち合わせをする。
5月30日、横山大観・唐沢俊樹と会食。丸の内に展覧会場を作りたい話など交わす。
5月31日~6月23日、安明荘に滞在する。滞在中、大山雅堂(魯牛)、倉田白羊、公田連太郎、針重敬喜らが来訪する。
6月、国画清鑑社紙本画展(6~10日、東京市新宿・伊勢丹)に《青嵐》を出品する。
6月、戸田観美堂主催新作画展(9~11日、東京市日本橋・東京美術倶楽部)に《水荘有客》(日本画)を出品する。
6月、橋本多聞洞が主催する東西名家新作画展(21~23日、東京市銀座・資生堂画廊)に《横竹小禽》を出品する。
6月25日、出光佐三から依頼された油絵にとりかかる。
6月26日、油絵《太山木》(10号)を描く。
6月27日、初めて花をつけた、宮文助が生前に植えた柘榴を描き始める。28日完成。秋の個展に出すことにする。 ※三越本店第3回個展出品作《柘榴花》か
7月2日、老荘会。
7月3~7日、息子2人と尾瀬に滞在する。
7月14日、《尾瀬沼》(25号)を描く。
7月15日、杉田雨人夫人の新盆のため水戸市に行き、一泊する。
7月16日、老荘会。
7月20日、外狩素心庵との集まりに出席。公田連太郎・岸浪百草居・大山雅堂(魯牛)らが同席。
7月25日、取手で催された宮文助追悼の観月会に出席する。篠目八郎兵衛・岸浪百草居らが同席。
7月31日、李王家徳寿院の陳列替会議に出席する。
8月6日、老荘会。
8月12日~9月22日、安明荘に滞在。黒姫山登山などする。
8月20日、『工房小閑』(竹村書房)が刊行となる。1931年の『工房有閑』を加減添削したもの。
10月1日、個展に出品する木爪の二曲一双屏風の制作にとりかかる。夜、老荘会。
10月2日、横山大観と会食。髙島屋で開催予定の横山大観・大智勝観・冨田溪仙・前田青邨らとの展覧会について打ち合わせをする。
10月16~18日、秋田県田沢湖畔・潟尻村(現・仙北市西木町西明寺字潟尻)に建立される歌碑《みづうみの夕の水の落つるなり 家七つある潟しりのむら》の除幕式に出席するため、山中蘭径と秋田県大曲町に滞在する。歌は1929年初夏に田沢湖に遊んだ時に詠んだもの。角館の医師・佐藤順一や、赤川菊村らの働きかけにより歌碑が建立された。
(16日山中蘭径と大曲町・仙北ホテルに宿泊。17日除幕式に出席。18日帰京。)
10月、三越本店第3回個展(23~30日)に、《画冊山水八種》、《椿》、《峡雲》、《野兎》、《石上人》、《山駅》、《鴬》、《尾長鳥》、《春苑》、《山居の春》、《小蓬壷》、《柘榴花》、《水ぬるむ》、《はつなつ》、《山居》、《むくげ》、《三笑》、《対石説法》、《横竹鳴禽》、《春耕》(すべて日本画)を出品。6点残し売約となる。 ※現在、《画冊山水八種》は《山水八種》、《峡雲》は《渓雲》、《小蓬壷》は《蓬莱島》、《山居》は《夏山》の作品名で出光美術館蔵
10月23日、個展招待日。横山大観と帝展を見に行った後、三越の個展会場へ行く。大山雅堂(魯牛)、鹿島龍蔵、岸浪百草居、公田連太郎、中川一政、中川紀元、長谷川昇ら来会。
11月5日、老荘会。
11月7日、横山大観・唐沢俊樹・小栗一雄警視総監と会食する。
11月、東西大家新作日本画展(9~12日、主催:関尚美堂・日本創作画協会、会場:大阪市・そごう)に《水荘訪客》(日本画)を出品する。
11月29日~12月9日、秋田県横手町に滞在する。
12月、松島画舩新作画展(6~8日)に《梅花鳴禽》を出品する。
12月10日、秋田県横手町から水戸市へ向け出発。
12月11~21日、水戸市に滞在。杉田雨人の世話になる。
(11日水戸市到着。17日いったん帰京して老荘会に出席。18日再び水戸行。21日帰京。)
12月22日、東京府知事の招宴になる東京府美術館開館十年記念展の相談会に出席する。
12月31日、油絵《稗田阿礼》のためにカンヴァスを張る。日記に「仕事だんだん水墨に慣れてうまくなり行くを覚ゆ 東洋水墨の諸先君子公等の後又一世界を開くものあらんとするを見よ」と振り返る。
1935(昭和10)年 54歳 1月、素描《稗田阿礼》を描く。
1月11日、渋谷の料亭 無私庵にて、横山大観・唐沢俊樹(内務省警保局長)・広田弘毅(外務大臣)と会食。広田は唐沢の紹介による。
1月14~21日、安明荘に滞在。滞在中、友人たちとスキーを楽しむ。
(14日出発。16日足立源一郎・石井鶴三・鹿島龍蔵・木村荘八・鳥海青児・山崎省三・横川毅一郎が来訪。)
1月22日、従兄の小杉伴作が、親戚の小杉三郎を連れて日光から上京。三郎を預かり夜学に通わせる約束のため。
1月、現代大家作品展(28~30日、大阪市・大阪朝日新聞社楼上)に出品する。東北凶作義援金募集のために、同社が企画した展覧会。
2月8~9日、岸浪百草居・中川一政と、栃木県川治温泉(現・日光市)に一泊旅行。
2月18日、老荘会。『詩経』を読む。
2月27日、公田連太郎[訳文]・小杉放菴[註解]による『全訳芥子園画伝』(アトリヱ社)の刊行が始まる。1936年2月までかけ全13冊刊行。
3月4日、老荘会。
3月23日、東京府美術館開館十周年記念現代綜合美術展の陳列委員会に出席する。
3月27日、鳥屋で九官鳥やイカルを購入する。
3月、東京府美術館開館十周年記念現代綜合美術展(31日~4月21日)に《羅摩物語》が出品される。 ※現在、東京国立近代美術館蔵
4月2日、東京府美術館開館十周年記念現代綜合美術展の招宴(精養軒)に出席する。
4月6日、東京府美術館開館十周年記念現代綜合美術展を見る。
4月、第1回踏青会展(13~17日、東京市日本橋・髙島屋)に《空山一亭》(日本画)を出品する。踏青会は髙島屋美術部の主催により、前年晩秋に結成されたグループ。メンバーは、日本美術院から大智勝観・小川芋銭・小林古径・冨田溪仙・速水御舟・前田青邨・安田靫彦・横山大観(いずれも同人)、帝展から鏑木清方(帝国美術院会員)・福田平八郎(帝展初入選)・矢野橋村(帝展推薦)、旧国画創作協会会員から榊原紫峰・村上華岳、そして日本画団体には無所属として小杉が招かれた。1936年の第2回展で解散となるが、小杉の参加は第1回展のみ。
4月23日、《三魔女習作》(油彩画,15号)完成。東京日日新聞が取材に来る。この月の春陽会展に出品。夕方、佐藤春夫の連載小説挿絵のため、東京日日新聞社で打ち合わせする。
4月、第13回春陽会展(28日~5月20日、東京府美術館)に、《三魔女習作》(油彩画)、《松下人(屏風)》《山居十趣》(以上日本画)を出品する。名古屋市(名古屋新聞ギャラリー)、大阪市(朝日会館)へ巡回。 ※現在、《松下人》は栃木県立美術館蔵
5月1日、宇都宮市へ行き、下野新聞社にて第5回下野美術展の鑑査に出席。夜の汽車で東北へ向かう。
5月2日、秋田県大曲で友人たちと会食後、角館へ行く。医師佐藤順一の招宴に出席し、小林旅館に一泊。
5月3日、佐藤順一らの尽力により田沢湖畔に建立された、山中蘭径の詩碑《日東第一深》の除幕式に出席。夕方、大曲から帰りの汽車に乗る。翌朝、上野駅に到着。
5月6日、山本鼎と王濟遠の個展を見る。夜、老荘会。
5月7日、大阪髙島屋での個展出品作が全て完成。夕方、木村荘八・岸浪百草居らと、王濟遠を招く会を永代橋の料亭・都川にて催す。
5月8日、三越の密画展出品作を描く。
5月9日、第14回朝鮮美術展覧会の第二部審査に出席するために朝鮮へ行き、13日まで滞在。14日下関に到着。15日京都に寄った後、夜の汽車で帰途につく。17日帰京。
5月19日、春陽会の友人たちと茨城県取手にて船遊びを楽しむ。
5月20日、和田英作が来訪、初めて帝展改組計画について聞かされる。夕方、文部省に呼ばれ、添田敬一郎政務次官と赤間信義専門学務局長と面会し、帝国美術院新会員として春陽会からは自分だけでなく山本鼎も選んで欲しいと頼むが拒絶される。
5月21日、帝国美術院新会員を受諾するか否について、木村荘八に相談する。
5月23日、帝国美術院の件について、鹿島龍蔵・公田連太郎に相談。午後、和田英作に帝国美術院新会員承諾の返事をする。
5月24~26日、大阪髙島屋での個展のため、大阪市に滞在。吉田白嶺と合流する。
5月28日、松田源治文部大臣により帝国美術院改組が発表される(松田改組)。在野団体から新会員をとりこみ、従来の無鑑査資格が解消される内容が多くの反発を呼ぶ。
5月29日~6月2日、安明荘に滞在する。
5月31日、帝国美術院規程が廃止され、新たに帝国美術院官制が制定。
6月1日、帝国美術院長に清水澄が就任。旧会員30名のほか、在野美術団体から春陽会の小杉放菴、日本美術院の横山大観らを含む19名が新任される。
6月3日、長野県茅野で岸浪百草居・中川一政らと待ち合わせ、蓼科山麓にある第一銀行山荘に滞在。7日、上田の倉田白羊を訪ねた後、帰京。
6月7日、春陽会が松田改組への第一次声明を発表。帝展に参加するにあたっての要望を提出する。
6月8日、足立源一郎・石井鶴三・木村荘八・中川一政らと松田改組について話し合う。
6月10日、横川大観と会談する。同日、小杉が編集した『森田恒友画集』(春鳥会)が刊行となる。
6月11日、老荘会。
6月16日、横山大観・唐沢俊樹らと会食する。
6月18日、佐藤春夫の小説挿絵にとりかかる。
7月9日、老荘会。
7月、関尚美堂展(10~12日、東京市日本橋・東京美術倶楽部)に《初秋》(日本画)を出品する。
7月11日、針重敬喜と明治神宮へ行く。
7月15日、新喜楽で催された横山大観の招宴に出席する。赤間信義(文部省専門学務局長)・唐沢俊樹(内務省警保局長)・文部政務次官ら同席。
7月18日~8月10日、北海道旅行。札幌市の中央創成小学校で開催された、春陽会講習会(主催:北海道新作家美術協会)に参加する。
8月11~27日、秋田県旅行。28日帰京。
9月頃、春陽会の小栗哲郎が、郷里である静岡市で第1回個展を開催するにあたり、足立源一郎・石井鶴三・木村荘八・中川一政と共に賛助となる。
9月2日、老荘会。
9月3~21日、安明荘に滞在。滞在中、岸浪百草居ら来訪。
9月22日、安明荘から、長野県小諸の釈尊寺・布引観音に立ち寄り、帰京。
10月3~15日、個展のため、京城(現・ソウル)に滞在する。
(3日石川宰三郎と出発。5日京城到着。滞在中、土田麦僊・福田浩湖・正宗白鳥ら来訪。13日釜山から出航。14日下関に到着。15日帰京。)
10月、個展(6~7日、京城日報社来青閣)を開催。《花賣翁》《松下試武》《一竿子》《緑蔭対極》《暮雲》《木爪》《アトリ》《芙蓉》《つるもどき》《辛夷》《泰山木》《明月》などを出品。
10月16~19日、奥日光を旅行する。
10月25日、長男・一雄に、秋田県横手の旧家・遠藤花子との縁談が持ちこまれる。
10月27日~11月2日、日光に帰郷する。
(10月27日岸浪百草居と栃木県川治の鳥屋場へ写生に行く。31日岸浪が先に帰京。11月2日宇都宮市にて、下野新聞社の川村直成や県知事らと面会後、帰京。)
10月、関尚美堂主催新作画展(28〔招待日〕~30日、東京市日本橋・東京美術倶楽部)に《あとり》(日本画)を出品する。
11月15日、一雄の縁談がまとまる。夜、日比谷の中華料理店 陶陶亭で開かれた帝展第二部新会員会議に出席する。
11月17日、針重敬喜らと静岡市へ行く。静岡県図画教育研究会で講演する。
11月18日、日本平や吐月峰など静岡市内を観光後、夕方に帰京。夜、老荘会の後、石井鶴三・鹿島龍蔵・木村荘八・中川一政に、帝国美術院会員を辞すこと、春陽会の今後について相談する。
11月19日、《松下一閑人》を描く。翌月の三越日本画綜合大展覧会に出品。
11月、現代名家新作画展(20~24日、東京市日本橋・髙島屋)に《春鳥小景》(日本画)を出品する。
11月21日、足立源一郎宅で開かれた春陽会委員会に出席する。
11月22日、山本鼎から、もし自分に帝国美術院参与の任命があった時は、春陽会を退会して応ずるとの意思を伝える手紙が届く。
11月24日、山本鼎と都川にて今後のことを話し合う。
11月25日、長谷川昇を訪ね、話し合う。
11月26日、山崎省三から春陽会を退会する旨を聞く。
11月27日、金井紫雲の引退の会に出席後、木村荘八・足立源一郎と都川にて話し合い。
11月28日、安明荘に東隣する土地を購入するため、妻ハルと一雄が赤倉へ行く。
11月29日、新帝国美術院第2次総会に出席。春陽会から参与として長谷川昇・山本鼎、指定に足立源一郎・石井鶴三・木村荘八・倉田白羊・中川一政が選任・指名されるも、山本以外の全員がこれを拒絶することになる。
11月、日本画綜合大展覧会(30日〔招待日〕~12月8日、主催:三越美術部、会場:東京市日本橋・三越本店)に《樹下一閑人》を出品する。
12月、三越日本画展(1~8日、東京市日本橋・三越)に《松下一閑人》を出品する。
12月1日、小杉宅にて実施した春陽会委員会にて、会として帝展に参加しないことが正式に決定となる(第二次声明書)。夕方、妻ハルと一雄が帰宅。挨拶に来た遠藤花子と顔合わせをする。
12月2日、東京美術学校に和田英作校長を訪ね、帝国美術院会員辞意を告げる。夜、木村荘八宅にて老荘会。
12月4日、清水澄帝国美術院長宛に、帝国美術院会員の辞表を送付。和田英作、赤間信義(文部省専門学務局長)、唐沢俊樹(内務省警保局長)ほか、帝展第二部会員数名にも手紙を出す。あわせて自己の立場を明らかにする文書を春陽会に寄せ、春陽会は5日に会報としてこれを発表する。
12月5日、新聞記者や電話がうるさく、水戸に旅行中ということにして居留守する。
12月6日、横山大観・唐沢俊樹に呼ばれ、話し合う。
12月7日、三越日本画展を見る。
12月、松島画舫主催新作画展(9~11日、東京市日本橋・東京美術倶楽部)に《啄木》(日本画)を出品する。
12月26日、水戸市に一泊。
12月27日、杉田雨人を訪ね、県庁関係者らと会い、夜に帰京。六潮会の忘年会へ駆けつける。
12月29日、横山大観宅にて文部大臣や唐沢俊樹らと会う約束をしていたが、風邪で行かれず。
12月31日、一雄の婚礼が1月30日に決まる。
1936(昭和11)年 55歳 1月6日、老荘会。
1月7日、横山大観宅での招宴に出席する。唐沢俊樹(内務省警保局長)・広田弘毅(外務大臣)が同席。
1月10日、佐藤春夫[著]・小杉放菴[画]『掬水譚 法然上人別伝』(大東出版社)が刊行となる。
1月11日、妻の弟・相良英一(相良楳吉の三男)が伴瀬ヒサと結婚する。
1月17日、出光佐三の招宴に出席する。
1月20日、老荘会。『晋書』を読み始める。
1月23日、三越本店第4回個展招待日にて16点が売約となる。唐沢俊樹、湯沢三千男ら来館。
1月、三越本店第4回個展(24~27日)に、《山中秋意》《閑庭》《春昼》《五月春》《車輪梅》《虎杖》《白鷴》《石榴》《清風明月》《金剛山》《麗春》《黒真珠》《白頭》《朴》《八仙》《雪中紅》《南枝早春》(すべて日本画)を発表する。 ※現在、《黒真珠》は秋田県立近代美術館蔵。《山中秋意》《春昼》《白鷴》《南枝早春》は出光美術館蔵
1月25日、春陽会に出品する二曲一双屏風(《横斜》か)の下絵を描き始める。
1月27日、赤間信義(文部省専門学務局長)が来訪。長谷川昇・山本鼎への伝言を頼まれる。山本へ手紙を出す。
1月28日、長谷川昇を訪ね、赤間からの伝言を伝える。
1月30日、長男・一雄が遠藤華子と結婚(入籍は4月24日)。上野·精養軒で催された披露宴に出席する。會津八一・佐藤功一・中川紀元・針重重敬ら列席。一雄夫妻が夜の汽車で赤倉へ行くのを見送る。
1月頃、白日荘展に《霜後》(日本画)を出品する。
2月1日、帝展改組を主導した松田源治文部大臣が急逝する。
2月12日、日光で催された義弟・相良英一の婚礼に出席する。一泊。
2月13日、華厳の滝で大氷柱を見る。
2月14日、一雄夫妻が赤倉から帰ってくる。
2月17日、摠見寺のための梅の襖絵を描き終える。夜、老荘会。 ※この〈梅の襖絵〉は他に希望者が現れたため、摠見寺には納められなかったと考えられる。
2月18日、動物園でブッポウソウを写生する。
2月23日、小杉が挿絵を担当した、佐藤春夫『掬水譚 法然上人別伝』の出版記念会に出席する。
2月25日、岸浪百草居の夜談会(老荘会?)、公田連太郎の『世説新語』解講話始まる。
2月26日、二・二六事件。知人の安否を気にする。
2月27日、唐沢俊樹(内務省警保局長)、小栗一雄(警視総監)らの無事を知り安堵する。
―― 春、銭痩鉄に〈石上人〉の印章を彫ってもらう。
3月2日、帝展を見る。
3月4~7日、安明荘に滞在。子どもたちとスキーを楽しむ。
3月17日、科学博物館で開かれた第11回オリンピック芸術競技会ベルリン大会国内展(28日~4月3日、東京府美術館)の審査員をつとめる。小杉の出品はなし。ベルリン展は7~8月にかけて、カイザーダムの展示場Ausstellung Hallenにて開催された。
3月18日、借地を広げて自邸を新築するため、荷物を長男宅やポプラ倶楽部などに運ぶ。
3月29日、ポプラ倶楽部三十年記念祭に出席する。
4月1日、春陽会展の鑑査に出席する。
4月2日、神奈川県湯河原町に国木田独歩文学碑が建立されることになり、同町へ場所と碑石の選定に行く。吉江孤雁と西條八十が同席。碑はこの年6月23日に独歩三十年忌に建立され、現・湯河原万葉公園内に現存する。
4月、第14回春陽会展(3~20日、東京府美術館東京府美術館)に《保呂保呂鳥》《横斜》(ともに日本画)を出品する。大阪市(5月28日~6月6日、朝日会館)、名古屋市(6月10~21日、名古屋新聞社ギャラリー)へ巡回。 ※現在、《保呂保呂鳥》は小杉放菴記念日光美術館寄託
4月3日、第14回春陽会展招待日に行く。
4月7日、冨山房から図画教科書を頼まれ、木村荘八に相談する。
4月11日、春陽会の友人たちと茨城県牛久沼で舟遊びを楽しむ。日帰り。
4月13日、冨山房の図画教科書について、木村荘八と打ち合わせ。おおむね荘八に任せることにする。夜、老荘会。雨がひどく公田連太郎は欠席となる。
4月14日~5月10日、岡山市・高松市に旅行。
4月、踏青会第2回日本画展(4月29日~5月5日)が開催されるが、小杉と村上華岳の出品は間に合わず。
5月、第1回芳美会絵画展(1~3日)に日本画7点を出品する。
5月12日、宇都宮市へ行き、下野新聞社にて第6回下野美術展の鑑査に出席。同席の川島理一郎を春陽会へ誘おうとして止める。
5月13日、新築自邸の上棟式を行う。午後、横山大観を訪ねる。
5月14日、倉田白羊個展(銀座・三昧堂)に行き、会場で会った白羊・山本鼎と永代橋の料亭・都川で会食する。
5月15日、湯河原の国木田独歩文学碑の文を書す。岸浪百草居を訪ね、日本南画院展出品予定の屏風を見る。夜の汽車で広島へ出発。
5月16日、小杉と鏑木清方が顧問となった挿絵倶楽部発会式が開かれたが、小杉は広島旅行中で欠席。同会には、石井鶴三・岩田専太郎・木村荘八・河野通勢・中川一政・林唯一らが参加した。
5月16~26日、広島市に滞在。滞在中の19日、中国新聞社の案内で、吉井勇と比治山、饒津公園、広島城お壕端、太田河畔をドライブする。
5月27日、広島から大阪へ移動。夜、十合呉服店で催された春陽会講演会にて「にせ物の話」をする。31日まで滞在。
6月1~6日、香川県に滞在。
6月4~5日、平生釟三郎文部大臣と帝国美術院会員各部別懇談会が文部大臣邸で開かれ、官展を再び四部による綜合展とすること、春に帝国美術院主催の招待展、秋に文部省が主催する鑑査展の、2回に分けて開催し、無鑑査資格の格付けは撤廃することなどが諮られる(平生改組)。
6月7日、大阪に立ち寄った後、帰京。
6月8日、木村荘八と平生改組について話し合う。夜、老荘会。
6月11日、春陽会会務委員会にて、平生改組についての会議に出席する。夜、平生改組を受け、松田改組に賛成の立場をとっていた横山大観ら多数の帝国美術院会員が辞表を提出したことを聞く。
6月13~16日、安明荘に滞在する。
6月17日、東京日日新聞社主催の日本風景写真展鑑査に出席する。20数年ぶりに藤田嗣治と会う。
6月23日、岩田某による横山大観を招く会(下谷布袋屋)に出席する。
6月25日、春陽会委員会に出席する。
6月28日、木村荘八宅にて開かれた春陽会委員会に出席する。文部省への通知を聞く。
6月29日、針重敬喜、湯沢三千男(内務次官)、萱場軍蔵(内務省警保局長)と会食する。
7月1日、足立源一郎宅にて、富山房の図画教科書について打ち合わせ。足立と木村荘八に大体をまかせることにする。
7月、現代八名家新作扇面画展(1~5日、主催:髙島屋美術部、会場:東京市日本橋・髙島屋)に《じやがたら》《八月》などを出品する。
7月、関尚美堂主催新作画展(3〔招待日〕~5日、東京市日本橋・東京美術倶楽部)に《小壽鶏》(日本画)を出品する。
7月12日、満谷国四郎の訃報を聞く。春から夏にかけて瀬戸内海南北に取材した絵を《泛内海画冊》としてまとめる。 ※現在、出光美術館蔵
7月13日、満谷家へ弔問に行く。
7月15日、満谷国四郎の葬儀および告別式に参列する。
7月16~19日、一雄・二郎・水谷清と磐梯山へ登山旅行する。
7月25日、満谷国四郎の追悼座談会(東京市大川端・都川)に出席する。ほかの出席者は、金山平三・藤島武二・牧野虎雄・安井曾太郎ら。
8月3~6日、軽井沢に滞在。
8月6日、軽井沢から新潟県赤倉へ移動。安明荘に滞在する。20日、長野県上田の倉田白羊のもとに立ち寄り、帰京。
8月13日、『旅窓読本』(学芸社)が刊行となる。
8月22日、岸浪百草居・針重敬喜と浅草へ行く。
9月2日、再興第23回院展を見る。再興時の同人数名以外は感心せず。
9月7日、第23回二科展を見る。夜、老荘会。新築の自邸が落成するまでは、各会員宅の持ち回りで開催していくことを話し合う。
9月13日~10月26日、満洲旅行。
(9月13日夜の汽車で満洲に向け出発。14日神戸市に到着。神戸画廊に個展用の作品最後の5点を預ける。午後、船で門司へ向かう。15日朝に門司着。午後出航。17日大連に到着。しばらく滞在し、長男·一雄と合流。その後、奉天、新京をまわる。10月23日釜山から出航。24日朝、下関港に到着。神戸画廊で個展の結果を聞き、画廊主の大塚銀次郎、亀高文子と3人で会食。大阪市・伊藤旅館に一泊。25日終日、大阪高島屋。26日帰京。新築成った自邸に満足する。)
9月、個展「小杉放菴新作日本画展」(神戸市元町1丁目・神戸画廊)を開催。14点を発表する。
9月、白日荘主催現代大家新作画展(東京市日本橋・三越)に《山珍》を出品する。
10月29日、吉田白嶺一門による木心舎展を見に行き、会場にいた吉田・横山大観とそのまま新喜楽にて会食する。
10月31日、髙島屋の招宴(新喜楽)に出席する。
11月2~3日、日光へ帰郷。山で写生する。
11月4日、午前中に日光から帰京。午後、早稲田大学大隈会館で催された針重家・渡邊家の婚儀に出席する。
11月10日、夜、日光へ帰郷。13日朝に帰京。
11月、宮崎井南居主催第2回東西大家新作画展(11〔招待日〕~13日、後援:伊藤平山堂・本山幽篁堂、会場:東京市日本橋・東京美術倶楽部)に《故郷春》《秋興》《叭々鳥》(すべて日本画)などを出品する。
11月15日、自邸新築工事のうち、左官工事が完了する。
11月、第2回三越日本画展(30~12月8日)に《春苑》を出品する。
12月7日、自邸新築披露会に老荘会の友人たちを招く。足立源一郎・石井鶴三・大山雅堂(魯牛)・鹿島龍蔵・加山四郎・岸浪百草居・木村荘八・公田連太郎・佐藤功一・田澤田軒・外狩素心庵・中川一政・藤本韶三・宮崎井南居・山中蘭径・山本鼎・横堀角次郎らが出席。以後、老荘会は新築2階に作った画室で開かれるようになり、旧画室には小杉一雄夫妻が住む。
12月10日、オリンピック芸術連盟の会議に出席する。
12月11日、春陽会五人会(永代橋料亭・都川)に出席する。
12月15日、個展に出品する水墨画を制作中、日記に「南画いつしか北画となる」と記す。
12月21日、老荘会。4人だけだったため談笑して終わる。
12月22日、春陽会研究所の構図コンクール審査に出席する。石井鶴三同席。
12月23日、坂崎坦(朝日新聞社)の早稲田大学文学博士号取得の祝賀会に出席する。
12月29日、春陽会の忘年会(永代橋料亭・都川)に出席する。
1937(昭和12)年 56歳 1月6日、宇都宮市にて、佐藤功一設計による4代目栃木県庁舎工事が起工となる。
1月、三越本店第5回個展(19~23日)に《昔噺》《洛神賦》《南海》《春宵》《初冬》《十月》《椿》《仏法僧》《冬篭》《渓竹》《搏風》《山行》《遊禽》《春秋二曲屏風》《樹下小集》(すべて日本画)を出品する。 ※現在、《昔噺》は河村美術館蔵、《春秋二曲屏風》は《春秋屏風》の作品名で新潟県立近代美術館蔵
1月19日、三越本店第5回個展初日で13点が売約となる。細川護立・湯沢三千男らが来場する。
1月20日、門司の福井某が個展に来場、残る2点が売約され、全点赤札となる。
1月21日、横山大観が個展に来場する。
1月24日、第5回六潮会展(17~22日、日本橋三越本店)初日を見に行き、木村荘八の作品に感心する。
1月25日、三越美術部から新築祝いに火鉢を贈られる。夜、三越の重役らを梶田屋に招き、個展5年目を祝う会を開く。
1月27日、故満谷国四郎の家を訪ね、焼香する。
1月29日~2月6日、安明荘に滞在。滞在中、足立源一郎・加山四郎らが来訪する。
2月8日、岸浪百草居・渡邊大虚と浅草で遊ぶ。水墨画家たちで作るグループについても相談、会ではなく倶楽部にすること、会名に「墨人」を入れることなど決める。
2月10日、大阪朝日新聞社が主催する明治大正昭和三聖代名作美術展の関係者披露会(帝国ホテル)に出席する。
2月12日、松林桂月と永代橋の料亭・都川で会食する。
2月14日、故河合新蔵を語る会に出席する。
2月15日、老荘会。公田連太郎の出版記念会について話し合う。
2月18日、田中松太郎に感謝する会(日本橋通 明治屋ビル・中央亭)に出席する。長年美術印刷の先覚者として従事してきた半七製版所主田中松太郎の功績を讃えるため、岡田三郎助・和田英作・高島米峰・石井柏亭・岩波茂雄ら数十名が発起となって催された。
2月20日、墨人会倶楽部を結成。山水楼の発会式に出席する。ほか、岸浪百草居・瀧秋方・津田青楓・渡邊大虚・吉田登榖らが出席。
2月24日、出光佐三が貴族院議員に選任された記念として、《南枝第一春》(紙本着色)に手紙を添えて出光へ贈る。夜、公田連太郎の『荘子 全訳』(アトリエ社)出版記念会を、虎ノ門の中華料理店・晩翠軒で催す。 ※現在、《南枝第一春》は出光美術館蔵
3月5日、満谷国四郎遺作展(7~14日、日本美術協会)のための関係者の集まり(赤坂の料亭・白水)に出席する。小杉は、大原孫三郎・岡田三郎助・中村不折・藤島武二・和田英作と共に発起人となった。
3月6日、満谷国四郎遺作展へ行く。
3月9日、岸浪百草居と共に、出光佐三の招宴に出席する。
3月14日、閉幕日となった満谷国四郎遺作展を再度見に行く。
3月18日、近藤利兵衛(近藤利兵衛商店3代目か)の招宴に出席し、20年ぶりに清水楊之助と再会する。
3月28日、苦心の末に、屏風絵《椿》を描き終える。
3月30日、栃木県庁壁画稿《二荒古譚(稿)》油絵小品の制作にとりかかる。
4月2日、《二荒古譚(稿)》が完成する。この月の春陽会展に出品。午後、針重敬喜と共にポプラ倶楽部の山崎喜作を訪ねる。
4月4日、横山大観の、小栗一雄・唐沢俊樹・広田弘毅・寺内(寿一か)ら官僚を招く宴席(新喜楽)に同席する。
4月5日、老荘会。
4月6日、會津八一ら、長男・一雄の先生を招く宴席をもうける。
4月7日、清泉堂に屏風絵《椿》の砂子を撒いてもらう。翌月の春陽会展に出品。
4月8~9日、春陽会展の鑑査に出席する。
4月、第15回春陽会展(11日~5月4日)に、《椿》(紙本着色)、《二荒古譚(稿)》(油彩画)を出品する。名古屋市(5月22~30日、名古屋新聞社ギャラリー)、大阪市(6月5~13日、朝日会館)へ巡回。 ※現在、《椿》は東京国立近代美術館蔵
4月11日、第15回春陽会展の招待日に行き、夜、髙島屋の招宴に出席する。
4月12日、一雄・二郎・義弟の相良英一を連れ、千葉県君津郡(現・君津市)鹿野山に遊ぶ。日帰り。
4月13日、村山・山口貯水池までドライブ。夜、春陽会の出品者会に出席。1点出品した佐藤春夫も来会する。
4月21~22日、山桜を写生するため日光へ帰郷する。
4月23日、午後に日光から帰京。夜、春陽会4人会に出席する(永代橋の料亭・都川)。鹿島龍蔵も参加。会場に日本画室を設けること、春陽会研究所を日暮里に移すことを話し合う。
4月、明治大正昭和三聖代名作美術展(25日~5月25日、主催:大阪朝日新聞社、会場:大阪市立美術館)に《水郷》《羅摩物語》が出品される。 ※現在、ともに東京国立近代美術館蔵
5月、新築される4代目栃木県庁舎の壁画が、設計者の佐藤功一を通して、正式に小杉放菴へ依頼される。これ以前に、佐藤は小杉に打診しており、すでに壁画の習作が今春の春陽会展に出品されている。
5月、松島画舫主催春季日本画展(3~5日、東京美術倶楽部)に《若葉の江》を出品する。
5月4日、閉幕日の春陽会展に行く。
5月5日、宇都宮市へ行き、下野新聞社にて第7回下野美術展(8~19日、下野新聞社)の鑑査に出席。鑑査後、10才頃以来40数年ぶりに多気山不動尊に詣でる。日帰り。
5月、伏原春芳堂主催新作画展(7~9日、東京美術倶楽部)に《白雨》(紙本着色)を出品する。 ※現在、出光美術館蔵
5月8日、針重敬喜と共に、湯沢三千男を訪ね閑談。夕方浅草で映画を観る。
5月、井南居主催水墨画附墨展(13~17日、髙島屋)に《緋鯉》を出品する。
5月17日、老荘会。
5月19日、水戸市で開かれた第7回茨城美術展の審査会に出席。晴光亭に一泊。他の審査員は、木村武山・飛田周山・永田春水・山口蓬春・五島耕畝。
5月、本県出身大家作品展示会(20~23日、宇都宮市・下野新聞社楼上)に出品する。ほか荒井寛方・大山魯牛・大貫銕心・大根田雄國・岡田蘇水・荻田東嶺・河内舟人・小林草悦・小堀安雄・島田訥郎・須藤悟雲・鈴木有哉・関谷雲崖・福田浩湖・松本姿水・水野陽水・村上得明が出品。
5月、第7回茨城美術展(21~30日、主催=いはらき新聞社、後援=茨城県、会場=水戸市・茨城会館)に顧問(審査員)として《呉牛》を出品する。閉会後、《呉牛》は中崎憲(いはらき新聞社社長)が譲り受ける。
6月2~9日、ポプラ倶楽部の西日本旅行に同行する。同行者は斎藤弥助、関沢廉、針重敬喜、山崎喜作、ローンテニスの伊藤など。
(6月2日夜行列車「富士」で出発。3日広島到着、宮島参拝、広島ローンテニスク倶楽部と試合、山金旅館に宿泊。4日に岩国に向かい、永田新三允[岩国町長、元実業之日本社幹部]の案内で、錦帯橋や光雲神社を見物。国木田独歩が育った地で、永田は国木田と小学校の同級生だった。午後に下関を経て門司着。三井の寺尾、三菱の麻生などに迎えられ、三井のコートへ移動したが、小杉は用事で別行動。夕方合流して博多へ移動。九州帝国大学の七瀬・佐藤・高橋が迎えに来る。青木旅館に宿泊。5日迎えに来た人たちの案内で、東西の公園から筥崎宮、天満宮、観世音寺を見物。午後は福岡クラブで試合。6日大雨のなか柳川へ。午後好天したため伝習館中学のコートで試合。7日別府。9日四国。小杉はここで別れ大阪に向かう。)
6月9~13日、大阪に滞在する。
(9日朝に大阪着。春陽会展の大阪会場へ行く。墨人会倶楽部のために来た岸浪百草居・津田青楓・矢野橋村・菅楯彦・渡邊大虚らと打ち合わせする。伊藤旅館に宿泊。10日夜、墨人会倶楽部の発表会に出席。11日、墨人会倶楽部一同と別行動をとり、夕方、春陽会の国盛義篤・鳥海青児・水谷清らと会食。13日、昼過ぎの汽車で帰京。)
6月、小杉放菴新作画幅展と吉田白嶺新作木彫展(大阪市長堀橋・髙島屋)を同時開催。小杉は《春山訪友》《春閑》《尾長鳥》《蝶》《池》《孟夏》《水訪有客》《村荘有客》《白雨》《老子》《柘榴樹》《樹下石上人》《渓畔》《渓竹》《西風》《摶風》を出品。あわせて作品集『木心放菴展観図録』(大塚巧芸社)を刊行する。
6月18日、文部省が帝国美術院を廃し、文士や音楽家なども加えた帝国芸術院を設立するとの計画を知る。
6月20日、文部省の有光次郎学務課長が来訪。新設される帝国芸術院新設の会員となる内諾を求められ、芸術院の趣旨には賛意を表するも会員は断わる。
6月22日、再び有光学務課長が説得に訪れ、熱意に動かされ帝国芸術院会員を受諾する。
6月23日、帝国美術院官制が廃止され、帝国芸術院官制が制定される。文芸・音楽が加えられ、会員の定員は80名となる。旧帝国美術院の院長および会員はそのまま再任。官展は文部省が主催することになり、帝国芸術院は官展運営から切り離される。
6月24日、帝国芸術院会員に、新たに小杉ら26名が任命される。美術には、新たに書と建築の分野から会員が追加となる。
6月、墨人会倶楽部第1回展(27~7月5日、大阪朝日会館)が開催されるが、小杉の出品は間に合わず。出品者は、生田花朝、渡邊大虚、吉田登榖、瀧秋方、津田青楓、中川一政、矢野橋村、矢野鉄山、八百谷大樹、小松均、岸浪百草居、菅楯彦の12名。
6月28日、宇都宮市観光課に招かれ、荒井寛方・松本姿水と共に市内の観光地を見てまわる。夕方、松村光麿知事らと会食。鬼怒川の浅屋旅館に一泊。
6月29日、栃木県庁の公用車で川治へ連れていってもらい、塩谷町の佐貫石仏や籠岩などを見てまわる。一同と日光で別れ、妻の実家に寄った後、帰京する。
7月1日、藤島武二・岡田三郎助の文化勲章受章祝賀会(東京会館)に出席する。
7月5日、老荘会。
7月6日、東京日日新聞社主催のスポーツ写真コンクールの審査に出席する。
7月9日、文部大臣による帝国芸術院会員を招く会に欠席する。
7月11日、満谷国四郎の一周忌に、満谷家へ焼香に行く。
7月13日、髙島屋の招宴に出席する。横山大観・吉田白嶺が同席。
7月15~20日、山形県旅行。蔵王、立石寺などをまわる。
7月22日、岸浪百草居を訪ね、個展の作品を見る。
7月、現代画壇代表大家傑作展(25~30日、東京市銀座・松坂屋)に《ほろほろ鳥》《閑庭》を出品する。
7月29日、妻と三郎と共に、しばらく安明荘に滞在する。
8月3日、春陽会講演会のため、安明荘から長野県上田へ行き、「東西芸術の区別について」話す。石井鶴三・倉田白羊・中川一政ら同席。夕方安明荘に帰る。
8月10日、銭痩鉄が治安維持法違反等により特別高等警察(特高)に検挙される。銭は諜報活動にたずさわっていた。1941年まで禁錮。
8月15日、安明荘にて、山中蘭径からの手紙で銭痩鉄痩鉄が検挙されたことを聞く。
8月16日、東京へ帰る一雄に、湯沢三千男宛の手紙を預ける。
8月17日、二郎が荒彫りし、小杉が仕上げをした山の神の祠が完成する。
8月18日、銭痩鉄のため、夜の汽車でいったん帰京する。
8月19日、會津八一と共に、湯沢三千男の紹介による菊池警視庁特高部長(菊池盛登か)を訪ね、銭痩銕の容疑について詳細を聞く。刀剣のコレクションを宇都宮師団に寄附するため、目録を作る。
8月20日、再び安明荘に戻る。
8月、賛助員となった大野麥風の『大日本魚類画集』(和田三造監修、西宮書院)が刊行される。ほかの賛助員は、石井柏亭、岡田弥一郎、小川芋銭、西村新、林重義、飛田周山、正木直彦、村上華岳、結城素明。
8月29日、公田連太郎が安明荘に来訪し滞在する。
9月1日、公田連太郎が帰京する。
9月5日、菊池特高部長から、小杉が銭痩鉄へ送った手紙について訊きたいことがあるため、警視庁まで来るようにとの手紙が届く。
9月6日、安明荘から上京。夜、老荘会。
9月8日、銭痩銕との交友について、警視庁で取り調べを受ける。菊池特高部長から絵の依頼を受ける。
9月9日、安明荘に戻る。
9月、白日荘新作画展(22~29日)に《喜鵲》を出品する。
10月14~16日、日光へ帰郷する。
(14日日光へ帰郷。妻の実家にて、病床の岳父を見舞う。15日栃木県庁壁画の材料を求めて奥日光へ行き、中禅寺湖菖蒲ヶ浜、竜頭の滝、小田代ヶ原、西ノ湖など見てまわる。丁田屋に一泊。16日帰京。)
10月18日、老荘会。
10月19~26日、再び日光へ帰郷する。
(19日水谷清を連れて日光へ。20日清・百合夫妻と奥日光に遊ぶ。22日輪王寺に依頼し、書庫で古譚を探し写させてもらう。日光縁起六巻も見せてもらう。23日両親、五百城文哉、国府浜家の墓参り。26日帰京。)
11月、小杉放菴絵画・吉田白嶺木彫展(19日~22日、名古屋市・松坂屋)を開催する。
11月19~20日、吉田白嶺との二人展のため名古屋市に行く。
11月22日、三越本店の第8回七弦会展、白木屋の一橋会、髙島屋日本橋店の近藤浩一路新作画展を見てまわる。
11月25日、《閑人画冊十冊》が完成。翌月の春陽会日本画展に出品する。
11月26日、湯沢三千男と共に、小川芋銭古稀記念新作展(25~27日、日本橋・東美倶楽部)を観る。
11月、満谷国四郎遺作画稿秀作素描展観(帝国美術院附属美術研究所)にて、「満谷国四郎について」の講演をする。
11月、第3回三越日本画展覧会(29日~12月7日)に《遊禽》を出品する。
11月29日、日光の岳父が危篤との知らせを受ける。福島県の義妹・遊佐フサも出産後の病があり、その姉である高橋ミツが代わりに行く。
12月、松島画舫主催秋季展(1~3日、東京市日本橋・東京美術倶楽部)に《竹裏春》を出品する。
12月、春陽会日本画展第一回展(1~7日、東京市銀座・三越)に《閑人画冊十冊(石上一閑人、山又山、壷酒、雲中山など)》を出品する。ほか、石井鶴三・木村荘八・中川一政が出品。
12月1日、春陽会日本画展を観る。《閑人画冊十冊》がすぐ売約となる。
12月7日、湯沢三千男・藤沼庄平(栃木県出身の政治家)が来訪する。
12月8日、岳父・相良楳吉の訃報を聞き、すぐに日光へ駆けつける。夕方いったん帰京。
12月、現代名家新作画展(9~13日、東京市日本橋・髙島屋)に《海錯》を出品する。
12月10日、日光へ行き、相良楳吉の葬儀に参列。夕方帰京。
12月11日、水谷清宅で開かれた春陽会会員・会友の集まりに出席する。
12月13日、戦地で負傷した赤倉の知人“米さん”を、一雄・二郎を連れ陸軍病院に見舞う。
12月29日、小杉作詞の『象潟』が謡本となった記念を兼ねた晩餐会に出席する。1941年刊本以前に作られた謡本があったということになるか。
12月30日、寒山拾得の屏風にとりかかる。
1938(昭和13)年 57歳 1月2日、山寺の屏風制作にとりかかる。
1月4日、横山大観のもとへ年始の挨拶に行く。
1月10日、山寺の屏風制作を中止する。
1月11日、岸浪百草居が来訪。墨人会について相談する。
1月12~16日、安明荘に滞在。ポプラ倶楽部や春陽会の友人たちが遊びに来る。
1月17日、寒山拾得の屏風制作にとりかかる。
1月24日、清泉堂に屏風絵《青鸞》へ砂子をまいてもらう。
1月、矢来荘日本画展(24~29日、三越)に《閑庭》を出品する。
1月28日、寒山拾得の屏風制作を中止する。夜、足立収栃木県知事・湯沢三千男らを招待し会食する。
2月4日、華北への派遣軍顧問として発つ湯沢三千男を、針重敬喜と共に羽田で見送る。夜、墨人会の会合(永代橋の料亭・都川)に出席する。ほか、岸浪百草居・瀧秋方・矢野橋村・渡辺大虚ら出席。
2月6日、最近の制作が上手く行かないことから、三越に当年の個展延期をお願いする。
2月11日、小川芋銭が脳溢血で倒れた知らせを聞く。夜、渡辺大虚と共に都川にて津田青楓と会う。
2月15日、岡上(徂水?)家に招かれ、徳田秋声と同席となる。
2月24日、関如来の告別式(全生庵)に参列する。
3月、渡辺氏旧蒐集洋画売立展観(3~7日、東京市銀座・青樹社)に小杉の作品も出る。出品者は日本美術院の活動や小杉の渡欧を支援してくれた渡辺六郎。
3月、白日荘展(4~10日、東京市銀座・三越)に《横竹遊禽》を出品する。
3月8日、髙島屋の飯田某による招宴(柳橋の料亭・柳水)に出席する。近藤浩一路・吉田白嶺が同席。
3月9日、出光佐三の招宴に、岸浪百草居と共に出席する。
3月13日、松林桂月の招宴に出席する。
3月15日、宇都宮市へ行き、壁画を依頼されている新築の栃木県庁を見る。夕方日光へ帰郷し、亡くなった岳父の百日祭に出席する。
3月16日、日光から帰京する。
3月19~25日、奈良・大阪旅行。
(19日岸浪百草居・針重敬喜と月ヶ瀬旅行。月瀬館に滞在。21日、奈良県賀名生[現・五條市]、観心寺[現・大阪府河内長野市]をまわり、大阪市へ行く。22日瀧秋方・渡辺大虚と共に菅楯彦を訪ねる。23日木心舎第2回展[23~26日、大阪市南海・髙島屋)を見る。24日瀧秋方・渡辺大虚・菅楯彦ら墨人会同人らと会食。25日帰京する。)
3月29日、山崎省三近作展(28日~4月2日、東京市銀座・青樹社)を見る。
4月、第16回春陽会展(9~27日、東京府美術館)が開催されるも出品せず。この年から日本画室を廃したため。
4月、茨城洋画展(17~26日、主催:いはらき新聞社、会場:水戸市・茨城会館)に日本画《麗春》を特別出品する。
4月18日、老荘会。
4月29日、型会(かたちかい)第1回発表展(24~29日、東京市銀座・資生堂)を見る。二男·小杉二郎のほか、東京美術学校工芸科を卒業した金子徳次郎・黒瀬英雄・高橋節郎の4人による工芸展。夜、木村荘八の招宴(向島の料亭 水神八百松)に出席。
5月、傷痍軍人慰問美術家連盟(京都市美術館内)が設立され、文部省の斡旋、陸軍省・海軍省・厚生省の後援により、全国の陸海軍病院へ寄贈する皇軍将兵慰問の絵画が募集となる。日本画・油彩画あわせて3500点以上の作品が集まり、小杉もこれに参加する。
5月3日、苦労の末、《姉羽鶴》(日本画)が完成。当月の三越五作家新作画展に出品。
5月5日、荒井寛方・福田浩湖・松本姿水と共に宇都宮市へ行く。下野新聞社にて第8回下野美術展の鑑査に出席後、栃木県庁へ壁画設置予定の現場に行き、画題を思案する。県庁土木課職員らと夕食後、車で日光の相良家まで送ってもらう。
5月6日、五百城文哉の墓参り。
5月7日、日光町丸美にて、亡父·小杉富三郎の三十回忌祭を開く。清水秀(比庵)日光町長、小杉伴作(従兄)らが出席。
5月9日、中禅寺湖や湯元などを観光後、帰京する。
5月15日、《山厨》(日本画)が完成。当月の三越五作家新作画展に出品。
5月、戦争美術展覧会(18日~6月5日、東京府美術館)に《日露戦役スケッチ》が出品される。
5月、三越五作家新作画展(19~23日、主催:三越美術部、会場:東京市日本橋・三越本店)に《姉羽鶴》《山厨》を出品する。ほかの出品者は、鏑木清方・川端龍子・橋本関雪・山口蓬春。
5月20日、長野県上田市の倉田白羊を見舞い、安明荘へ行く。6月10日まで滞在し、墨人会に出品予定の摠見寺襖絵《山行》を描く。
6月4日、岸浪百草居らが安明荘に来訪。
6月11日、約3週間滞在した安明荘から帰京する。
6月、三越小品展(15~20日、東京市日本橋・三越本店)に《鷭》を出品する。
6月16日、墨人会展の鑑査に出席する。
6月18日、墨人会の招待日に行く。同人の小松均と会い、面白き人と思う。
6月、第2回墨人会展(18~27日、東京市上野・日本美術協会)に、《青鸞》《山行》を出品する。次回展以降は公募を廃し、会員・客員・会友・推挙の4種となる。 ※現在、《青鸞》は東京国立近代美術館蔵、《山行》は摠見寺蔵・小杉放菴記念日光美術館寄託
6月22日、小松均と渡辺大虚を都川に招き、会食する。
6月27日、墨人会展会場にて岸浪百草居・横川毅一郎と会い、横川から公募展を止めるようにと助言を受ける。
7月11日、木村荘八宅で催された老荘会の書画会に出席する。
7月14~18日、大阪旅行。
(14日大阪市で瀧秋方・渡辺大虚と墨人会の今後について相談。15日矢野橋村邸を訪ねる。夜、菅楯彦・矢野らと会食。18日帰京。)
7月、三昧堂第2回日本画展(16~18日、東京市銀座・三昧堂)に小品を出品する。
7月19日、岸浪百草居と墨人会について相談する。
8月5日、横山大観を訪ね、再興第25回院展に出品予定の《梅花薫る》下図を見せられる。
8月8~9日、岐阜に一泊旅行。
8月10日、東京日日新聞社学芸部記者を都川に招き会食する。
8月11日、長野県上田市へ行き、別所温泉の花屋旅館に一泊。石井鶴三・中川一政と墨人会や春陽会について相談。近年の春陽会の油絵の多くが純洋画となり、水墨画と合わなくなってきたため日本画室を廃止にしたことなど話す。
8月、傷痍軍人慰問美術家連盟による募集慰問画の関係者だけに限られた内覧会(12~15日、東京府美術館)が開催。その後、全国の陸海軍の各病院へ寄贈。小杉が寄贈した日本画《落葉》は、臨時東京第三陸軍病院(現・独立行政法人国立病院機構相模原病院)へ寄贈となる。
8月12日、中川一政と共に、上田市の倉田白羊を見舞った後、春陽会絵画講習会上田北校で「戦時下の芸術」について講演。夕方、安明荘へ行き、9月20日まで滞在する。
8月13日、来訪してきた名古屋の安藤老と共に、郷倉千靱の別荘を訪ね、揮毫中の院展出品作を見せてもらう。
8月17日、津田青楓を新しい別荘に訪ね、墨人会について話し合う。
8月21日、渡辺大虚が来泊する。
8月23日、一雄と二郎が来て、戸隠山登山を計画する。
8月25日、一雄・二郎・山田某と4人で戸隠神社(中社、宝光社)へ参拝に行き、一泊。
8月26日、戸隠山に登山後、安明荘に戻る。
8月28日、一雄が先に帰京する。
8月29日、二郎・三郎・石田某・山田某と5人で丸山に登山する。
8月31日、二郎と三郎が帰京する。
9月6日、栃木県知事から11月初旬までに県庁壁画を完成させて欲しいとの手紙が来た旨を聞く。
9月11日、岸浪百草居・横川(毅一郎?)・中林芳三郎が来訪。中林は3年後に刊行されることになる小杉作詞の謡曲『象潟』の発行者で、この日はその節付けを持参して来る。
9月12日、観世流の谷村直次郎が来訪。谷村は小杉作詞の『象潟』に節付をしてくれた人物。
9月19日、時々彫ってきた《大山祇像》がだいぶ進む。
9月21日、一ヶ月半ほどの安明荘滞在から帰京する。
9月23日、佐藤功一を訪ね、栃木県庁壁画について相談する。
10月3日、再興第25回院展(9月4日~10月4日、東京府美術館)と第25回二科展(9月3日~10月4日、東京府美術館)を見る。院展の堅山南風《残照》に感心、二科展のシュルレアリスムを面白く思う。
10月5日、二郎と百合を、五百城文哉夫人のもとへ見舞いにやる。1924年に五百城家の養子と、小杉の義妹·相良フサとが離婚して以来、文哉夫人との往来は途絶えていた。
10月10日、二郎と共に日光へ帰郷。栃木県庁壁画のために栃ノ木を探す。二郎のみ当夜帰京。
10月11日、栃ノ木を写生した後、帰京する。
10月12日、壁画に栃ノ木を加えることを断念し、以前計画した二荒山を入れることにする。
10月17日、三郎が腹痛を訴える。翌日、盲腸が疑われる。
10月19日、三郎が盲腸の手術を受ける。翌日ガスが出、術後の経過を見守る。
10月25日、第2回新文展(16日~11月20日、東京府美術館)を見る。
10月28日、佐藤晩香(常総新聞記者)が来訪する。
11月6日、三男の三郎が盲腸炎により死去する。
11月8日、三郎の告別式を執り行う。のち龍雲院(東京市文京区白山前町)に墓が建てられる。戒名は心光不昧童子。墓は小杉放菴設計。この墓は放菴没後、日光市の小杉家墓所へ移されることになる。
11月28日、岳父·相良楳吉一周忌のため日光へ帰郷。自家の墓地も新たに設けるため、知人の畑地を譲ってもらい、下工事を依頼する。
11月29日、朝、倉田白羊の訃報の電報を受け、すぐに日光から帰京。そのまま長野県上田市の倉田家を弔問し、別所温泉に一泊する。
11月30日、倉田家を訪ねた後、いったん帰京。
12月2日、再び別所温泉に宿泊。
12月3日、倉田白羊の告別式に参列。ほか、石井鶴三・木村荘八・山本鼎・吉田白嶺らが参列。
12月4日、倉田家を訪ねた後、吉田白嶺と帰京する。
12月10日、ニューヨーク万国博覧会への出品を依頼されたことが発表される。
12月、東京朝日新聞社が主催する同情週間色紙半折即売会(16~18日、東京市銀座・松屋)に出品する。
12月17日、小林徳三郎長男の告別式に参列。帰途、公田連太郎に『唐詩及唐詩人』の稿本を依頼する。
12月18日、前日の小川芋銭の訃報を聞く。息子や知友の相次ぐ死に傷心する。
12月19日、東京日日新聞から小川芋銭追悼取材を受ける。
12月21日、長尾健吉追悼会(丸の内マーブル)に出席する。
12月22日、茨城県牛久の小川芋銭告別式に参列する。日帰り。
12月24日、多摩墓地にて倉田白羊の納骨式に出席。あわせて友人たちと森田恒友の墓参りもする。
12月27日、倉田白羊夫人とその長男・平吉が来訪。夜、足立源一郎・石井鶴三・岸浪百草居・木村荘八・公田連太郎・中川一政・山中蘭径と8人で忘年会。
12月31日、二郎と浅草へ参拝に行き、三郎が遺した10銭白銅貨を賽銭とする。
1939(昭和14)年 58歳 1月3日、ニューヨーク万国博覧会に出品する《僧》の下絵を描く。
1月8日、樋口罔象の告別式に参列する。この20年ほどは交友が途絶えていた。
1月11~17日、安明荘に滞在。友人たちとスキーを楽しむ。
1月20日、朴の木会に出席する。ほか岸浪百草居・中川一政らが出席。
1月22日、ニューヨーク万博出品の油彩画《僧》を描き始める。岸浪百草居・矢野橋村・渡辺大虚らと墨人会の今後について相談する。
1月25日、春陽会会員会に出席する。
2月1日、《僧》が完成。午後、岸浪百草居と三越の二十五作家展を観る。
2月2日、《僧》に砂子をまく。
2月3日、ニューヨーク万博展関係者が《僧》を集荷していく。
2月4日、紐育万国博覧会日本館出品画展示会(1~7日、東京市日本橋・三越)を観る。《僧》は遅れて展示されたか。
2月6~12日、牡丹江に入営する二郎のために、家族全員で安明荘に滞在する。
2月、名古屋松坂屋代表大家展(12~17日)に《春渓》を出品する。
2月、個展「小杉放菴新作展」(22~25日、大阪市・髙島屋)に《秋渓》《春苑》《野梅》《春禽》《八月の苑(桔梗)》《松下煎茗(唐人物二人)》《竹裏春風》《奥の細道》《漁人閑》《春》《夏》《秋》《冬》《野兎》《松下人》《山頭秋意》《七かまと》(すべて日本画)を出品する。 ※現在、《秋渓》は上野記念館蔵
2月、角谷二葉堂主催第8回新作画展(24~26日、東京市芝・東京美術倶楽部)に《蟹角力》(紙本着色)を出品する。 ※現在、出光美術館蔵
2月24日、二郎が入営のため出立し、寂しく思う。夜、出光佐三の招宴に出席する。岸浪百草居・木村荘八らが同席。
2月28日、佐藤(功一?)博士・湯沢三千男と清梶にて会食する。
3月、帝国芸術院会員油絵展(1~5日、大阪市御堂筋・青樹社)が開催される。小杉が出品したかは不明。
3月10日、横山大観の招宴に出席する(新喜楽)。
3月15日、『象潟』の新曲がようやく完成しそうなのを祝い、岸浪百草居・谷村直次郎・中林芳三郎らを四谷のふくべに招く。
3月17日、一雄を連れ、越谷の宮内省御猟場(鴨場)にて鴨や鷹を見学させてもらう。
3月20日、龍雲院白山道場の老師が来て、三郎の廻向を行う。
3月25日、岸浪百草居と茨城県牛久にて、小川芋銭の墓参、女化稲荷神社を参拝。水戸市に一泊する。
3月26日、水戸市から帰京する。
3月29日、朴の木会。
3月、個展「小杉放菴近作個展」(29日~4月2日、京城・三越)を開催、近作15点を発表する。
4月4日、小川芋銭を題とする三連作を描く。
4月6日、倉田白羊追悼講演会(上田市・上田商工会議所ホール)を足立源一郎・石井鶴三・木村荘八・山本鼎たちと開催。小杉は墨や硯について話す。別所温泉に一泊。
4月7日、北向観音堂および生島足島神社に参拝。倉田白羊遺作展(7~9日、上田教育会館)を観た後、帰京する。
4月8日、森田恒友七周忌の会(晩翠軒)に出席する。
4月10日、日本風景協会総会(山王ホテル)に出席する。
4月上旬~中旬、春陽会展のために白鹿の屏風絵など試みるが上手くいかず、当年の出品は止めにする。
4月20~22日、春陽会展鑑査に出席する。
4月26日、千葉県三里塚にて御料牧場を見学。成田不動尊に参拝した後、帰宅。
4月、ニューヨーク万国博覧会(30日~10月30日)に《僧》(油彩画)を出品する。本作はのちに戦災により焼失。
5月6日、如水会展(銀座三越)を観る。龍雲院白山道場の了さんが来て、三郎の月命日の廻向を行う。
5月、松島画舫主催新作画展(8~10日、東京市日本橋・東京美術倶楽部)に《啄木》(日本画)を出品する。
5月10~15日、栃木県湯西谷・川治温泉旅行。
(10日岸浪百草居と湯西谷へ行き、13日まで伴久旅館に滞在。14日百草居と別れ川治温泉近江屋に一泊。15日帰京。)
5月18日、甥の小杉良和が召集により戦地へ発つ。
5月23日、翌月の珊々会出品作を、銀鶏鳥にするか春風馬堤曲にするか迷う。
5月24日、岸浪百草居宅にて矮鶏の雛鳥を写生させてもらう。
5月、長女の水谷百合が肺尖カタルのため、日光の相良敏三宅にて療養する。
5月、第9回下野美術展(27日~6月5日、宇都宮市・下野新聞社大講堂)日本画の部に《石上人》《閑庭》を出品する。今回は一般公募は中止され、栃木県ゆかりの美術家20名余による展覧会という形で実施。全出品者は次の通り。日本画部=荒井寛方・大貫銕心・大根田雄国・大山魯牛・荻田東嶺・岡田蘇水・河内舟人・小杉放菴・小林草悦・小堀安雄・関谷雲崖・鈴木有哉・須藤悟雲・福田浩湖・松本姿水・水野陽翠・村上得明、洋画部=川島理一郎・清水登之・橋本邦助・望月省三、彫刻部=関谷充、竹工部=飯塚琅玕斎。
6月、第5回珊々会展(1~6日、主催:髙島屋美術部、会場:東京市日本橋・髙島屋)に、与謝蕪村を描いた《春風馬堤曲》(絵巻)を出品する。小杉はこの回から参加する。
6月2日、第5回珊々会展初日(1日が招待日)へ行く。菊池契月と結城素明の作品が未着。
6月5~10日、横堀角次郎と安明荘に滞在する。
6月下旬~7月、栃木県庁壁画のため、《鬼怒川(女)・二荒山(男)》素描を描く。
7月3日、清水秀(比庵)から、日光町長退職の記念に二荒山(男体山)の絵を贈ったことについて礼状が届く。
7月11日、壁画の現場確認のため、宇都宮市へ栃木県庁や大谷などを見に行く。日帰り。
8月3日、春陽会絵画講習会上田北校(長野県上田市)にて顧愷之について講演する。石井鶴三・木村荘八・中川一政と別所温泉に一泊。
8月4日、春陽会絵画講習会上田北校にて王維について講演した後、安明荘へ行く。10日に帰京するまで滞在する。
8月22日、妻と一雄を連れ、龍雲院白山道場で三郎の墓をたてる相談をする。
8月29日、立田清辰(千葉県知事)が発起人となった宮文助の旧盆十五日の墓参に出席する。あわせて牛久にて小川芋銭の墓も参る。岸浪百草居・木村荘八・公田連太郎・中川一政ら同席。
8月31日、苦心の末、栃木県庁壁画の制作を断念。龍雲院白山道場で三郎の墓の工事を見る。
9月22日、再び岸浪百草居の個展を観る。翌月の朝鮮行の手続きを進める。
9月23日、出光佐三と福井(敬三か)に招かれ、帝国ホテルにて会食する。
9月24日、田澤田軒・長谷川昇と都川にて会食する。
9月25日、岸浪百草居・水谷清と共に、岡田三郎助の告別式に参列する。百草居と新築の山口(蓬春?)邸を見に行く。
9月25日、『唐詩及唐詩人』(書物展望社)が刊行となる。
9月、日仏画堂が主催する現代水墨画展(26~30日、東京市銀座・資生堂画廊)に《浴鳥》などを出品する。
9月26日、二科展と青龍社展を観る。
9月30日、佐藤晩香が来訪する。
10月2日、一雄と水谷清を連れ、安食付近にて水草や水村を取材する。
10月10~25日、水谷清と共に朝鮮半島を旅行する。
10月、小川芋銭画伯遺作カッパ百戯展覧会(25~28日、日本橋・髙島屋8階ホール)開催。出品された60点全点に小杉による箱書きが付く。
10月26日、釜山から午前の船で出航する。
10月27日、門司に到着、汽車で博多へ行く。水谷清と別れた後、内本浩亮を訪ね、29日まで滞在する。
10月30日、内本邸を発ち、夜に大阪着。瀧秋方夫妻に迎えられる。伊藤旅館に宿泊。
10月31日、菅楯彦・瀧秋方らが宿に来訪。東京ではこの日、小杉一雄の長男で、放菴の初孫である正太郎が生まれる。
11月1日、瀧秋方・渡辺大虚に見送られ、夜に帰京。前日に生まれた初孫を喜ぶ。
11月2日、孫を見に産院へ行く。
11月5日、摠見寺の松岡範宗和尚が来訪する。
11月6日、三郎の一周忌を迎え、埋骨する。出征中の二郎から葉書が届き、牡丹江から公主嶺の派遣隊に入ったことを知る。
11月8日、日光へ帰郷し、義弟・相良敏三の結婚式に出席する。10日に帰京。
11月、髙島屋が主催する昭華会新作日本画展(9~12日、東京市日本橋・髙島屋)に《秋晴》を出品する。
11月13日、松岡範宗和尚が安土へ帰る。
11月、石田芳美堂主催新作画展(14~15日、東京美術倶楽部)に《奥の細道》《秋意》を出品する。
11月15日、不同舎時代の先輩である角井厚吉が来訪する。
11月18日、佐藤晩香が来訪する。
11月19日、龍雲院白山道場へ三郎の墓を見に行く。帰途、湯沢三千男を訪ね、硯のコレクションを見せてもらい、王環硯を譲ってもらう。
11月23日、『唐詩及唐詩人』の出版祝が、日本橋の中華料理店・偕楽園にて開かれ出席する。発起人は木村荘八・田澤田軒・中川一政・横川毅一郎ら。
11月28日、小杉花子(一雄夫人)と正太郎が産院から退院、帰宅する。
11月29日、青木繁遺作展(25~30日、東京市銀座・青樹社)、川端龍子個展「第九回個人展「南船行」」(24~29日、日本橋三越)を観る。小杉は、蒲原有明・木下杢太郎・坂崎坦・坂本繁二郎・島崎藤村・佐々木信綱・藤島武二・正宗得三郎・山下新太郎・吉江喬松(孤雁)・和田三造と共に、青木繁遺作展の賛助に名を連ねていた。
12月、三越日本画展(1日~7日)に《三白》を出品する。
12月2日、日本風景協会役員会に出席する。
12月3日、岸浪百草居が龍雲院白山道場で催した魚鳥草木供養会に出席する。
12月4日、大山魯牛・岸浪百草居・横川毅一郎と共に、小川芋銭遺作展を観る。
12月5日、安土の伊達某が来訪、住友家の絵について相談する。
12月、一流大家日本画展(12日[招待日]~16日、主催:京城日報、会場:京城三越)に《梅花遊禽》を出品する。
12月15日、心臓発作の吉田白嶺を見舞う。
12月24日、岸浪百草居・谷村直次郎・中林芳三郎・丸山某を下谷の清梶に招き、『象潟』節付の完成を祝う会を開く。
12月27日、水谷清・百合に龍子が生まれる。二人目の孫。
12月28日、垂井産院へ孫を見に行く。髙島屋の下手物展を観る。
12月31日、松本亦太郎を訪ねる。応接間に小杉の旧作《漁夫図》がかかっているのを見る。
―― 富名腰義珍が雑司ヶ谷に空手道場・松濤館を開設。同館のマークを小杉がデザインする。
1940(昭和15)年 59歳 1月4日、岸浪百草居・公田連太郎・横堀角次郎らが来訪、宴をする。
1月16日、水谷百合が龍子を連れて退院する。夜、春陽会日本画展の打ち合わせに出席する(辰好軒)。
1月27日、山本鼎新作油絵展(25~30日、日本橋・三越本店)を観る。
1月29日、扇面画画冊《本朝道釈》完成。翌日からの春陽会第2回日本画展に出品。
1月、春陽会第2回日本画展(30日~2月4日、東京市銀座・三越)に、扇面画画冊《本朝道釈》を出品する。 ※出光美術館蔵
1月30日、春陽会第2回日本画展を観にいく。
2月2日、春陽会日本画展の友人たちと栃木県川治温泉に遊び、一泊。3日に帰京する。
2月7日、大阪から瀧秋方が来訪。新しく設立する圏外社への参加を持ちかけられるが断る。
2月8~13日、水谷清と安明荘に滞在。岸浪百草居らが来訪し、スキーを楽しむ。
2月、紀元二千六百年記念現代日本画展(11~18日〔うち17~18日は関係者鑑賞日〕、岡山市・合同新聞会館)に《新柳》を出品する。
2月14日、名古屋松坂屋の代表展に出品する《春秋 芭蕉 西行》が完成する。
2月、角谷二葉堂が主催する東都名家新作画展(24~26日、東京市芝・東京美術倶楽部)に《芳野》(日本画)を出品する。
2月25日、山口蓬春の新築祝に出席する。
3月、当代画蹟木刻竹器作品展(5~7日、主催:本山幽篁堂、会場:東京美術倶楽部)に《銀鶏》を出品。初日に前田利為に購入される。 ※現在、公益財団法人前田育徳会蔵
3月19日、壁画の制作にとりかかる。
3月20日、長谷川昇近作展(18~23日、東京市銀座・三昧堂)を観る。長野県松本市から姉ヤヲが信太郎を連れて来訪する。
3月22日、紀元二千六百年奉祝美術展会議(帝国ホテル)に出席する。
3月26日、吉江孤雁が亡くなる。
3月29日、吉江孤雁の訃報を聞き、一雄を連れて焼香へ行った帰りに圏外社結成第一回展(23~29日、日本美術協会)を観る。
4月1日、鈴木吉祐、村松梢風、岸浪百草居ら、来客が相次ぐ。
4月4日、「横山大観紀元二千六百年奉祝記念 海山十題展」(2~7日、日本橋・三越本店、髙島屋)を観る。夜、華中鉄道株式会社の招聘による日中戦争の戦跡取材のため、東京駅で鈴木吉祐・田中青坪と待ち合わせ出発する。
4月5日、神戸市三宮の港から出航する。
4月7日、上海に到着。原精一に迎えられた後、石井鶴三と合流。28日まで上海、楊洲、南京、蘇州、杭州など、日中戦争の戦跡を取材する。石井鶴三と別れ、29日に龍田丸で出航。
4月、第8回茨城美術展(12~18日、主催=いはらき新聞社、後援=茨城県、会場=水戸市・茨城会館)に顧問として《仏誕》を出品する。
4月、個展「小杉放菴個展」(16~21日、大阪市・松坂屋)を開催。《池の行進》、《庭の行進》、《紅羅雲》、《啄木》、《浴鳥》、《新柳》、《郭公》、《秋厨》、《山鳥》、《幽篁訪友》(すべて日本画)を発表する。
4月、東都十大家展(17~21日、神戸市・三越)に《仏誕》を出品する。
5月1日、神戸市に到着。
5月2日、帰京し、田中青坪と別れる。
5月、三越五作家新作展(11~15日、東京日本橋・三越)に、《太湖石(江南二趣)》《新柳(江南二趣)》を出品する。初日には出品が間に合わなかった。
5月16日頃、足立収栃木県知事退任の慰労会に出席する。湯沢三千男が同席。
5月18日、針重敬喜・永田某と名古屋市へ行き、テニスの試合をする。翌日も試合後、夜の汽車で帰京。20日早朝に帰宅する。
5月27日、木村荘八宅にて、久しぶりに荘八・石井鶴三・中川一政と集まる。
6月、第6回珊々会展(5~9日、主催:髙島屋美術部、会場:東京市日本橋・髙島屋)に《閑庭》を出品する。
6月7日~7月10日、安明荘に滞在する。第6回珊々会出品作など描く。滞在中、岸浪百草居、大山魯牛、佐藤晩香らが来訪する。7月11日帰京。
7月23~26日、日光へ帰郷する。
(23日日光へ帰郷。24日中宮祠の二荒山神社へ参拝。25日小杉家、五百城文哉、相良家の墓参り。26日帰京。)
8月11日、千葉にて軟球試合に参加する。
8月12日、伊庭某に招かれ、藤沢の住友邸を訪ね、依頼された壁画が設置される場所を下見する。
8月13日、土井某の告別式に参列する。
9月17日、油彩画《楽人》が完成する。10月の紀元二千六百年奉祝美術展へ出品。
9月18日、内海加寿子個展(17~19日、東京市銀座・資生堂)を観る。内海は岸浪百草居の弟子。
9月21日、学士院で開かれた紀元二千六百年奉祝美術展会議に出席する。
9月22日、紀元二千六百年奉祝美術展の鑑査に出席する。
9月23日~10月18日、安明荘に滞在する。滞在中、水戸の佐藤晩香、吉田白嶺らが来訪する。
10月、紀元二千六百年奉祝美術展[前期](1~22日、東京府美術館)第二部に《楽人》(油彩画)を出品する。12月に大礼記念京都美術館へ巡回。
10月8日、日本挿絵画家協会の発会式(東京会館)。挿絵倶楽部が発展したもので、小杉は顧問に就任する。
10月19日、安明荘を発ち、長野県の葛温泉旅行へ向かう。16日から滞在していた内海加寿子・笠木實・岸浪百草居・宮原明良・横堀角次郎らと合流。23日まで滞在する。画家の宮原が、平木秀吾(葛温泉株式会社社長)と親しかったことから、葛温泉の希望により案内をすることになった。
10月24日、葛温泉を発ち、一人で北松本にいる姉ヤヲと弟の甲午郎のもとに立ち寄った後、帰京する。
10月26日、牧野虎雄洋画近作展(22~26日、東京市銀座・三昧堂)を観る。
10月30日、画室の工事が始まる。
11月2日、水戸市で催された佐藤晩香の会に出席する。一泊。
11月6日、三郎三回忌の法事。白山道場の師徒、摠見寺の松岡範宗和尚、岸浪百草居、公田連太郎、山中蘭径、秋田県の赤川菊村らが参列。
11月、明治・大正・昭和挿絵文化展(20~29日、東京市日本橋・三越本店)に、国木田独歩著『病床録』挿絵を出品する。
11月20日、出光佐三の招宴に出席する(清梶)。岸浪百草居ら同席。
11月22日、中央公論社の松下英麿に『山居』原稿を渡す。
11月23日、紀元二千六百年奉祝美術展[後期](3~24日、東京府美術館)を観る。
11月27日、硯の展覧会を観る。
11月30日、日華基本条約締結の報道を受け、長男・一雄、義弟・相良英一と祝杯をあげる。
12月4日、日本画を描く洋画家の会の2回目となる打ち合わせに出席。会名が「邦画一如会」に決まる。ほかの会員は、石井柏亭、木村荘八、津田青楓、東郷青児、中川一政、中川紀元、鍋井克之、藤田嗣治、牧野虎雄。
12月7日、下野新聞社のための半切画10枚が完了する。
12月9日、吉岡信敬の告別式に参列する。
12月、現代名家新作画展(11~15日、主催:髙島屋美術部、会場:東京市日本橋・髙島屋)に《野水のほとり》(紙本着色)を出品する。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
12月12日、白山道場で開かれた公田連太郎の『至道無難禅師集』刊行についての集まりに出席する。夜、伊野部氏の招宴に出席(清梶)。岡上徂水および田岡嶺雲の甥(田岡典夫か)が同席する。
12月14日、東西諸家春掛展(髙島屋)、佐藤功茂滞欧作品展(14~18日、東京市銀座・青樹社)を観る。佐藤功茂は佐藤功一の息子。
12月23日、田澤田軒の東京毎夕新聞社退職慰労会を、木村荘八と二人で発起し、都川にて開く。足立源一郎、石井鶴三、岸浪百草居、牧野(虎雄か)、中川一政、山本鼎らが出席する。
12月26日、佐藤功一の子息の結婚式(帝国ホテル)に出席する。
12月27日、田澤田軒の引退記念会(東京市上野·精養軒)に出席する。
12月31日、岸浪百草居と宮原明良を招き、忘年会をする。
1941(昭和16)年 60歳 1月12日、依頼されていた雑誌『野鳥』の題字やカットなどを描く。
1月19日、画室の床張り工事が完了する。
1月24日、病床の吉田白嶺を見舞う。
1月28日、夜、公田連太郎・足立源一郎・石井鶴三・岸浪百草居・島田忠夫・木村荘八・中川一政・水谷清が集まり、久しぶりに閑談を楽しむ。
1月31日、数日前から肺炎をぶり返していた孫の正太郎が、大事をとって泉田病院に入院となる。
2月7日、入院中の正太郎を見舞う。
2月8日、画室内の左官工事が完了する。
2月13~16日、安明荘に滞在。滞在中、一雄が肺炎で入院したと電話で知らせあり。
2月22日、一雄が退院する。
2月24日、正太郎が退院する。
3月1日、妻と神奈川県小田原市の宗我神社に参拝した後、静岡県伊東町へ向かう。長女の百合、孫の龍子を訪ね、伊東温泉・陽気館に4人で一泊する。
3月2日、一碧湖や伊東祐親墓所など伊東町を観光後、帰京する。
3月3日、吉田白嶺を見舞う。
3月5日、出光佐三の招宴に出席する(築地·新喜楽)。
3月10日、小杉の《太湖石と兵隊》が掲載された、陸軍省報道部編『大陸戦史』(陸軍画報社)が刊行となる。
3月14日、茶の間の押し入れを改修し、祖堂および三郎の釈迦如来像厨子を一つにする。
3月、現代名作絵画展(15~25日、大礼記念京都美術館)に《羅摩物語》(1928年作、兵庫県・山口吉郎兵衛蔵)が出品される。
3月、第1回邦画一如会展(25~29日、東京市日本橋・三越本店)に《山行》を出品する。ほか、石井鶴三、石井柏亭、木村荘八、津田青楓、東郷青児、中川一政、鍋井克之、藤田嗣治らが出品。
3月25日、翌月の春陽会展に出品する素描《古事記》にとりかかる。午後、第1回邦画一如会展を観る。
4月3日、素描《古事記》全8点が完成する。第19回春陽会展出品作。
4月5日、吉田白嶺を見舞う。
4月7日、妻ハル・一雄・義男を連れ、「小杉」のルーツを求めた日帰りの電車旅をする。府中にて大國魂神社に参拝後、稲田堤(現・神奈川県川崎市)で桜を見、武蔵小杉の町中を散策する。
4月8日、春陽会展の鑑査に出席する。
4月10日、湯沢三千男と近藤壌太郎(滋賀県知事)を清梶に招き、摠見寺の鐘と鐘楼についての相談をする。
4月、第19回春陽会展(12~25日、東京府美術館)に、《古事記》を出品する。名古屋市(鶴舞公園)、大阪市(朝日会館)へ巡回。 ※現在、《古事記》は画帖《古事記八題》の作品名で出光美術館蔵
4月12日、夜、春陽会の懇親会に出席する(レインボー)。
4月13日、岡上麟蔵が重病と聞き、築地の聖路加国際病院に見舞う。
4月、第2回昭華会展(13~25日、主催:阿々土社、東京市日本橋・東美倶楽部)に、《こぶし》を出品する
4月15日、東京帝室博物館の「新指定国宝陳列」(15~25日)を観た後、春陽会の懇談会に出席する。岸浪百草居が来泊する。
4月16日、岸浪百草居と埼玉県鳩ヶ谷町(現・鳩ヶ谷市)を観光する。徒歩で安行村(現・川口市)へ行き、椿花園の皆川治助を訪ねる。日帰り。
4月24日、岡上徂水の弔問に行く。
4月25日、制作中だった《迦楼羅王》が面白くなくなり中止する。午後、岡上徂水の告別式に参列する。春陽会展最終日につき、会員・会友の懇談会が開かれ、翌年の第20回記念について話し合う。
4月27日、一雄らと栃木県上都賀郡粕尾村(現・鹿沼市)へ行く。実父に連れて来られて以来40年余ぶり。親戚の孝三郎、従兄弟の犬四郎(父方の叔父・小杉嘉市の息子)らに迎えられ、先祖の墓参りをする。五柱稲荷神社を参拝。
4月28日、日満宮(星宮天満宮か)と慈眼寺跡などをまわった後、樅山にて一雄らと別れ、一人で日光へ向かう。
4月29日、日光にて父·小杉富三郎、師·五百城文哉の墓参り。相良家では邦之助らの法事のため親戚が集まる。
4月30日、日光から帰京する。
5月6日、1日から描いていた油彩画《牧童吹笛》を中止する。
5月13~15日、妻ハルと福島県・宮城県旅行。
(13日福島県須賀川町[現・須賀川市]にて、妻の妹である遊佐フサと清司夫妻に迎えられる。須賀川牡丹園を観光後、安達郡八軒[現・二本松市油井八軒町]の遊佐家に一泊。14日妻・遊佐一家と仙台市旅行。鹽竈神社に参拝後、松島へ向かい、瑞巌寺五大堂から福浦島を船で一巡する。15日瑞巌寺、水族館、雄島をまわり、政岡の墓、伊達政宗廟[瑞鳳殿]など観光後、急行列車にて帰途につく。福島で遊佐夫妻と別れ、帰京。)
5月15日、銭痩鉄が釈放。しばらくして上海へ送還される。
5月17日、翌月の珊々会展のため、《六歌仙》の参考書に眼を通す。
5月18日、一雄の妻·花子の母親が秋田県横手から来泊する。
5月20日、学士院で開かれた帝国芸術院会議に出席する。春陽会からの文展委員として、足立源一郎・中川一政を推薦する。
5月、撰美画展(22~23日、京都美術倶楽部)に《山の春》(日本画)を出品する。大阪市(6月3~6日、松坂屋)へ巡回。
5月24日、明治神宮相撲場で催された日本古武道の型の大会を見る。
5月28日、雨月荘にて象潟の会に出席する。ほか、岸浪百草居・谷村直次郎・中林芳三郎・中川一政・丸山某。
5月31日、《六歌仙》を描き終え、清泉堂に渡す。
6月1日、長女の水谷百合と白山道場へ行き、帰りに花を持って故岡上徂水の家に立ち寄る。
6月3~21日、安明荘に滞在する。滞在中、水戸市から佐藤晩香などが来訪する。
6月、第7回珊々会展(4~8日、東京市日本橋・髙島屋)に《六歌仙》(扇面画)を出品する。 ※現在、出光美術館蔵
6月22日、安明荘から長野県大町へ。葛温泉の仙人巌そばに、小杉の歌碑《岩のうへに高あぐらしてまねきなばよりても来べき秋の雲かな》が建立される。
6月23日、前日の佐藤功一の訃報を電報で知り、松本から寝台列車で帰途につく。
6月24日、帰京。故佐藤功一宅へ弔問に行く。
6月25日、築地本願寺での佐藤功一葬儀に参列する。
6月27日、第2回聖戦美術展の鑑査に出席する。
6月29日、第2回聖戦美術展の大臣賞・協会賞などの選定に出席する。夜、出光佐三・岸浪百草居と清梶にて会食する。
6月30日~7月12日、安明荘に滞在する。滞在中、松本市の姉ヤヲと弟の甲午郎、水戸市の佐藤晩香らが来訪する。
7月、第2回聖戦美術展(1~20日、主催:朝日新聞社・陸軍美術協会、会場:東京府美術館)日本画部に、審査委員として《戦線スケッチ》15点を出品する。 ※現在、《江南画冊》の作品名で小杉放菴記念日光美術館寄託
7月14日、第2回聖戦美術展を観る。
7月(9月とも)、梅軒展(京都市・梅軒画廊)に《山のはつ夏》を出品する。
7月18日、足立源一郎・石井鶴三・木村荘八・中川一政らと自邸にて会食。20年目を迎える春陽会の今後について話し合う。
7月21日、銭痩鉄がすでに釈放、上海へ送還されていたことを聞き、篆刻家としての才能を惜しむ。
7月26日、日本画《タゲリ》を描く。午後、麻布狸穴町(現・東京都港区)笹川(喜三郎か)邸にて、中国の古画20~30点を見せてもらう。
7月28日、日本画《葱にひよこ》を描く。
7月30日、国際文化振興会のための絵を描く(仏印巡回現代日本画展出品作か)。夜、出征する甥の小杉良和(小杉彦治の四男)のため、精養軒にて親戚で会食する。
8月頃、小野道風や紀貫之などの書を手本に、草書の手習いを始める。
8月4日、一雄を五百城文哉夫人のもとへ行かせる。
8月20~23日、岸浪百草居・中川一政と福島県霊山を旅行する。
8月25日、小杉一雄に長女・葉子が生まれる。放菴3人目の孫。
9月2日、岸浪百草居と共に再興第28回院展(1~20日、東京府美術館)を観る。
9月3日、公田連太郎、山中蘭径が来訪する。
9月5日、病床の吉田白嶺を見舞う。
9月、仏印巡回現代日本画展Exposition de la Peinture Japonaise Contemporaineの内示会(9~10日、主催:国際文化振興会、後援:帝国芸術院、会場:東京市日本橋・三越)に《石榴》(紙本着色)を出品する。10~12月にかけて、ベトナムの4都市(ハノイ、ハイフォン、ユエ、サイゴン)を巡回。
9月12日、中央公論社の松下英麿が歌集『山居』の初稿を持ってくる。
9月13日、《銀鶏春光》が完成する(翌月の大阪個展出品作)。吉田白嶺を見舞う。
9月17日、春陽会の会員会に出席する(辰好軒)。
9月18日、山本鼎・木村荘八と下谷の清梶にて会食する。
9月、小村雪岱追悼展(20~23日、東京市銀座・資生堂画廊)に小品を出品する。故・小村雪岱の友人たちが出品作を即売し、その売上を霊前に供えた。
9月23日、出光佐三の招宴に出席する(築地·新喜楽)。
9月26日、第5回一水会展と第6回新制作派協会展(ともに、23~10月4日、東京府美術館)を観る。
9月27日、第3回乾坤社展(23~28日、東京市上野・松坂屋)、アイヌ工芸文化展(2~10月31日、東京市駒場・日本民芸館)を観る。
9月30日、岸浪百草居・中林芳三郎・丸山某らが来訪。『象潟』についての集まり。
9月、《羊牛双幅(老子・黄初平)》の箱書きをする。 ※現在、出光美術館蔵
9月、《荘子》の箱書きをする。 ※現在、出光美術館蔵
10月1日、公田連太郎、岸浪百草居が来訪する。
10月3日、湯沢三千男の招宴に出席する(築地·新喜楽)。
10月7~11日、安明荘に滞在する。
10月12日、安明荘から一時帰京。夜、吉田白嶺を見舞う。
10月13日~11月2日、再び安明荘に滞在する。滞在中、佐藤晩香、公田連太郎らが来訪する。10月26日から安明荘の改築工事が始まる。
10月、個展「小杉放菴個展」(22~24日、大阪市・髙島屋)を開催。《銀鶏春光》《三光鳥》《山の秋》《芳野古意》《柳》《柳湾打漁》《春雪》《月》など12点を発表する。 ※現在、《柳》は出光美術館蔵
11月4日、吉田白嶺を見舞う。
11月5~13日、岸浪百草居・中川一政と岐阜県恵那峡を旅行。水谷清の門人で酒造家の伊藤敏博の世話になる。鳥屋にて様々な鳥を写生する。13日岸浪と中川は安土へ向かい、小杉は一人帰京する。
11月、春陽会第1回秋季展(11~14日、東京市銀座・三越)に《金太郎遊行》を出品する。
11月14日、春陽会第1回秋季展最終日を観に行く。
11月15日、二男の小杉二郎が、世田谷の陸軍機甲整備学校で幹部候補生の教育を受けることを命じられ、戦地から2年8ヶ月ぶりに帰還し、喜ぶ。
11月17日、二郎が陸軍機甲整備学校に通い始める。昼に吉田白嶺を見舞う。夜、内本浩亮長男の結婚披露宴に出席する。
11月18日、滝野川美術家常会設立。発起人は小杉、池田勇八、石川寅治、岩田専太郎、小倉右一郎、勝田蕉琴、香取正彦、北原三佳、北村西望、田辺至、柚木久太、吉田三郎の12名。
11月19日、高知県の伊野部恒吉の訃報を聞く。
11月25日、依頼されていた住友家の壁画として金太郎を描くことに決める。同日、小杉作詞・谷村直次郎作曲『象潟』(中林芳三郎発行)が刊行となる。
11月28日、金太郎を描く前の練習として、ローマ彫刻グリーキの模写をする。
11月30日、中林芳三郎が来訪、出来上がった『象潟』を受け取る。
12月2日、南宋時代の禅僧·虚堂智愚の『虚堂録』を読む。
12月、三越新作日本画展(2~6日、主催:三越美術部、会場:東京市日本橋・三越本店)に《春近し》(日本画)を出品する。
12月3日、岸浪百草居と共に、中村芳三郎に象潟の稽古をつけてもらう。
12月8日、午後、滝野川美術家協会の結成式(滝野川区中里町・女子聖学院)に出席するも中途で帰宅。夕方から『象潟』出版祝いに出席する。帰宅後、日本軍の真珠湾攻撃のニュースを知り、興奮する。
12月20日、前大蔵大臣である小倉正恒の招宴に出席する。内本浩亮ら同席。
12月22日、吉田白嶺を見舞う。
12月27日、佐藤晩香が来泊する。
1942(昭和17)年 61歳 1月2日、金太郎の壁画にとりかかる。栃木県上都賀郡粕尾村(現・鹿沼市)の親戚・孝三郎翁が来泊する。
1月6日、横山大観宅へ年始の挨拶に行く。
1月10日、滝野川美術家協会の理事会に出席する。区役所への献金について相談がなされる。
1月14日、雨月荘で催された春陽会委員会に出席する。ほか、足立源一郎・石井鶴三・岡鹿之助・木村荘八・水谷清らが出席。
1月15日、唐沢俊樹主催の招宴に出席する。阿部信行前首相、横山大観ら同席。
1月、月による詩歌と絵の会(20~22日、主催:月明会、会場:東京市銀座・資生堂画廊)に《月二題》を出品する。
1月21日、吉田白嶺の訃報を聞き、弔問に行く。
1月22日、故吉田白嶺宅へ焼香に行く。
1月24日、吉田白嶺の告別式に参列する。
1月27日、吉田白嶺の初七日を迎え、吉田家に花を持って行く。
1月28日、来訪。岸浪百草居・中川一政らと共に、中西の鳥の話を聞く。
1月31日、画筆献納の油彩画部隊による美術家大会(東京府府美術館)に出席する。情報局第五部第三課長の上田俊次海軍中佐、大政翼賛会の上泉秀信文化部副部長、各美術団体の洋画家約2000名が参集して協議。10号ほどの力作を3月末日までに制作し、陸・海軍省へ献納することに決定。
2月3日、完成しかけた金太郎の壁画が気に入らず、中止する。
2月7日、針重敬喜から、ポプラ倶楽部の山崎喜作が暴利行為等取締規則違反で警視庁に呼び出されたことを聞き、湯沢三千男に相談する。昼すぎに、故吉田白嶺宅へ焼香に行く。
2月8日、山崎喜作の件が無事解決し、安心する。
2月9~13日、山崎喜作らと安明荘に滞在する。山崎らは12日に帰京。
2月14日、動物園で鹿を写生する。
2月15日、中川一政第2回水墨展(14~17日、東京市銀座・資生堂画廊)を観る。岸浪百草居と落ち合い、出光佐三の招宴に出席する。帰宅後、シンガポール陥落のニュースを聞き、一人祝盃をあげる。
2月16日、前日のシンガポール陥落を記念し、知友に分けるため《梅》などの色紙数点を描く。 ※現在、出光佐三に贈った《梅》は出光美術館蔵
2月19日、東京日日新聞社の高石真五郎(取締役会長)・奥村信太郎(取締役社長)の招宴に出席する。
2月20日、佐藤垢石の随筆『たぬき汁』(墨水書房, 1941)を面白く読む。
2月21日、東日映画場のニュース「ハワイ爆撃」「起ち上がる泰」など観る。
2月23日、吉田白嶺の三十五日法要のため、吉田家へ焼香に行く。
2月25日、滝野川美術家協会による、警察署長送迎の昼食会に出席する。
2月27日、中川一政の新しい画室に、春陽会数人と集まる。
3月2日、金太郎の壁画のため、動物園で熊を写生する。二男の二郎がこの日から一週間ほど軍事演習に参加する。
3月、現代大家先哲画像展(3~8日、主催:月明会、会場:東京市・三越本店)に《僧西行》を出品する。
3月4日、再び動物園で熊を写生する。
3月6日、資生堂ビルで開かれた日本風景協会理事会に出席する。石井柏亭ら同席。
3月8日、二郎が軍事演習から帰ってくる。
3月9日、吉田白嶺の四十九日法要の夕食会に招かれる(中華料理店·偕楽園)。帰宅後、蘭印作戦勝利のニュースを聞き、息子たちと祝盃あげる。
3月10日、湯沢三千男の内務大臣就任祝いを梶田屋にて開く。岸浪百草居ら同席。
3月11日、日光へ帰郷する。先発の妻および二郎と合流。
3月12日、墓参りをした後、日光から帰京する。
3月14日、吉田白嶺未亡人が入院中のため、吉田家の娘たちの様子を見に行く。
3月16日、再び金太郎の壁画にとりかかる。帝国芸術員会議に欠席する。
3月17日、阿部大将の招宴に、横山大観と共に出席する。
3月21日、茨城県へ行き、宮文助の墓参り。自動車を頼んで牛久へ移動し、小川芋銭の未亡人および長男を訪ね、芋銭の墓参りをする。水戸市にて風戸(元愛か)や実業家の竹内勇之助らに迎えられ、自動車で袋田へ。竹内が経営する袋田温泉に一泊する。
3月22日、朝、袋田の滝を見に行く。昼食後、自動車で大洗へ向かい、常陽明治記念館(現・大洗町幕末と明治の博物館)を見学する。夜に帰京。この日、一雄が新宅へ移り、二郎が満洲へ発つ。
3月23日、岡上徂水宅へ花を供しに、染井霊園へ佐藤功一の墓参りに、吉田白嶺宅へ焼香に行く。
3月24日、出光佐三の招宴に出席する。岸浪百草居や清水(光美か)中将ら同席する。
3月27日、金太郎の壁画が完成。
3月28日、出光佐三に誘われ、新橋演舞場で踊りを観る。
3月29日、佐藤晩香が来訪する。
3月30日、歌文集『山居』(中央公論社)が刊行となる。
4月、第2回邦画一如会展(1~5日、東京市日本橋・三越本店)が開催されるが、小杉は不出品となる。
4月1日、金太郎の別図にとりかかる。
4月2日、法曹会館で開かれた文化人の翼賛選挙推進会に出席する。
4月3日、大曲の観世能楽堂で催された素謡会にて、中林芳三郎の「象潟」を聴く。
4月7日、春陽会展の展示準備に行く。
4月8日、春陽会20周年にあたり物故会員4人の法要を営む計画のため、谷中の全生庵へ行く。その後、動物園で熊を観察。数日かけた金太郎の素描を終える。
4月、第20回春陽会展(9~22日、東京府美術館)特別室に、ニューヨーク万博出品作《僧》が展示される。名古屋市(5月13~17日、商工会議所)、大阪市立美術館(5月29日~6月7日)へ巡回。
4月9日、春陽会招待日に行く。
4月12日、別図の金太郎が気に入らず、中止にする。
4月、滝野川美術家協会献納金展(12~13日、滝野川区役所楼上)に《閑庭》を出品する。
4月13日、全生庵で営まれた春陽会物故会員追弔法要に出席する。
4月15日、岸浪百草居・中川一政と共に、長野市の長谷寺へ花見に行く。上山田温泉(現・千曲市)清風園に一泊する。
4月16日、岸浪・中川と3人で、川中島古戦場址、三太刀七太刀の跡を観光後、下諏訪へ向かう。諏訪大社下社春宮に参拝後、上諏方へ行き、牡丹屋旅館に一泊する。1909年に一度投宿したことのある宿だった。
4月17日、小諸城址を観光後、3人で帰京する。
4月18日、米軍による東京ほか日本本土各地への初めての空襲(ドーリットル空襲)に驚く。夕方、故吉田白嶺宅を訪ね、遺作展の相談を受ける。
4月22日、春陽会最終日に行く。夕方より雨月荘にて、友人たちが開いてくれた『山居』の出版祝に出席する。石井鶴三・岸浪百草居・木村荘八・公田連太郎・中川一政・中西悟堂など。
4月23日、銀座で催された押川春浪を憶ふ座談会に呼ばれ、針重敬喜・弓館小鰐と出席する。
4月25日、建て替えのため、安明荘の取り壊しが始まる。
4月26日、日光のうこぎ、瀬戸内海の浜焼きが届いたため、岸浪百草居と公田連太郎を呼び、会食する。
4月30日、東条英機内閣による第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)へ行き、宮崎龍介に投票する。
5月1日、春陽会の石神井ピクニックに参加。途中、新宿伊勢丹の春陽会20年記念小品展を観覧する。
5月5~8日、安明荘の建て替え工事に立ち会う。ときわ荘に滞在。
5月9日、新潟県赤倉を発ち、電車で長野、高崎を経由して群馬県沼田町(現・沼田市)へ行く。美術愛好家の生方誠、歌人の生方たつゑ夫妻の世話になり、10日まで滞在。11日、三国峠をまわり、一度生方家に戻った後、帰京する。
5月18日、岸浪百草居を訪ね、個展に出すという屏風を観る。
5月19日、完成した油彩壁画《金太郎遊行図》を見に、住友家の伊庭某・佐藤某、近江からも伊庭某が来訪する。 ※現在、泉屋博古館東京蔵。款記「金太郎遊行図 昭和十七年夏五月放菴作」はこの頃書き入れたものか。
5月21日、岸浪百草居を中心とする游心画談会による、九軍神の扇面供養式(東京市神田一ツ橋・如水会館)に来賓として出席する。
5月22日、文展第二部の審査委員選定会議に出席する(東京市上野・学士院)。春陽会から水谷清が選ばれたことを喜ぶ。
5月27日、尾形乾山の二百年忌記念展(27~30日、主催:乾山会、会場:東京市日本橋・髙島屋)を観る。
6月2日、第3回岸浪百草居個展(2~6日、東京市日本橋・三越本店)を観る。東京府美術館の常議員会(上野山下・翠松園)に出た後、岸浪百草居の招宴に出席する(雨月荘)。
6月4日、洋画家の川口軌外が小杉に箱書を頼みに来訪。川口がかつて日本美術院洋画部の研究生であったことを聞く。
6月10日、岸浪百草居・中川一政と共に日光へ一泊旅行する。日光駅で輪王寺所属日増院の中里昌競和尚に迎えられ、奥日光へ向かい、中禅寺や戦場ヶ原などをまわり、湯元温泉・板屋に宿泊する。
6月11日、湯ノ湖南岸、湯滝、小田代ヶ原、竜頭ノ滝などをまわった後、帰京する。
6月15日、カンヴァスへ《狂言僧》の素描にとりかかる。午後、東京市会議員選挙の投票へ行く。
6月、三越日本画小品展(16~19日、主催:三越美術部、会場:東京市日本橋・三越本店)に《平旦》を出品する。
6月18日、《狂言僧》の着色にかかる。
6月19日、住友家から《金太郎遊行》制作料を渡すため伊庭某が来訪する。
6月21日、《狂言僧》の制作を中止にする。
6月27~28日、日本野鳥の会の中西悟堂を中心に、水原秋桜子ら馬酔木社の数人、それに小杉・岸浪百草居・中川一政・水川某ら、12人ほどのメンバーで赤城山へ野鳥を見にいく小旅行をする。
6月29日、赤城からの帰途、埼玉県熊谷で中川一政が先に帰京。小杉らは熊谷の竹井別荘庭園などを観光して帰京する。
7月1日、油彩画《芭蕉像》の制作にとりかかる。
7月9日、国木田治子(独歩の未亡人)が来訪。20余年ぶりに会う。
7月、関尚美堂展(10~12日、東京市芝・東京美術会館)に《雛鳥》を出品する。
7月11日、佐藤晩香が来訪する。
7月13日、東京美術学校文庫特別展(1~15日、同校陳列館)に、泰西画家素描の複製画を観に行く。ミケランジェロの複製画に感心する。
7月15日、白山道場住職を招き、岸浪百草居と公田連太郎にも来てもらい、盆の法要を営む。
7月16日、谷中の全生庵で営まれた営国木田独歩三十五回忌法要に出席する。小杉が東京社の柳沼澤介に薦めて実現。独歩の未亡人·国木田治子や親族のほか、秋田雨雀・鷹見久太郎(思水)・中村武羅夫・平塚断水らが出席。
7月18日、春陽会20周年記念画集成功の礼として、春陽会から、新潮社、出版文化協会、印刷所の人々を中華料理店の偕楽園に招く。
7月19日、制作中の油彩画《芭蕉像》が気に入らず、やり直しを決める。〈三十年来日本の心東洋の心にて油絵を作らんとしつゝあり 是れ中々の難道なり〉と日記に記す。
7月21日、《芭蕉像》のカンヴァスを新たにする。内本浩亮、冨名腰義珍(船越義珍)が来訪する。
7月29日、立田清辰(元千葉県知事)の訃報を聞き、針重敬喜・岩田某と弔問に行く。立田は3年前に宮文助の墓参を企画した人物。
7月30日、立田清辰の告別式に参列する。
7月31日、警視総監(吉永時次か)の招宴に出席。横山大観・湯沢三千男・警保局長(三好重夫か)・茨城県知事(内藤寛一か)らが同席する。
8月6日、前日に福島から上京してきた義妹の遊佐フサと、妻と3人で白山道場へ墓参りに行く。
8月8日、『五代史』を読み終える。
8月9日、第一次ソロモン海戦のニュースを聞く。
8月10日、中国から帰国した画商の宮崎井南居と会う。
8月18日、満洲国建国十周年慶祝帝国芸術院会員絵画展に向けて描いていた《石上人》が意に満たなくなる。
8月22日、《石上人》を素描からやり直し、《良寛上人》への変更を考える。
8月27日、第2次ソロモン海戦のニュースを聞く。
9月2日、油彩画《良寛上人》完成。10月の満洲国建国十周年慶祝帝国芸術院会員絵画展に出品。
9月4日、再興第29回院展(2~20日、東京府美術館)と第29回二科展(1~20日、東京府美術館)を観る。
9月7日、春陽会会員会に出席する(雨月荘)。
9月15日、「柳に尾長」の日本画が完成しかけていたが中止し、鶏の母子図へ変更する。
9月16日、鶏の母子を描いた日本画《母子》完成。第8回珊々会展に出すため髙島屋へ渡す。
9月、第8回珊々会展(17~22日、主催:髙島屋美術部、会場:東京市日本橋・髙島屋)に《竹取の翁》《母子》(ともに日本画)を出品する。《竹取の翁》は遅れて出品。
9月18日、「馬にのる芭蕉像」を考える。午後、内本浩亮と満洲国国宝展(10~22日、主催:満洲建国十周年慶祝会・東京帝室博物館、会場:東京帝室博物館表慶館)を観る。
9月20日、すでに始まっている第8回珊々会展に出す《竹取の翁》を髙島屋へ渡す。
9月22日、工事中の安明荘に滞在する(~11月12日帰京)。
9月、《石榴》(紙本着色)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
10月、満洲国建国十周年慶祝帝国芸術院会員絵画展(1日[招待日]~7日、東京帝室博物館表慶館)に《良寛上人》(油彩画)を出品する。満洲政府に寄贈する絵画の内示展。新京展は、11月に建国十周年祝典事務局が主催し、日満軍人会館で開催された。
11月1日、安明荘に新しく出来た画室を使い始める。
11月12日、安明荘から帰京する。
11月16日、「松尾芭蕉の馬上像」(日本画)が完成する。当月の三越新作日本画展出品作《芭蕉翁》か。
11月17~25日、岸浪百草居・中川一政と北陸を旅行する。
11月、三越新作日本画展(22~27日、東京市日本橋・三越本店)に《芭蕉翁》(日本画)を出品する。
11月26日、新聞朝刊で湯沢三千男が猩紅熱で入院したこと、旅行中に山本鼎も半身不随になったことを知る。午後、湯沢の見舞いに行く。
11月27日、山本鼎を大森の自宅に見舞う。夜、日満文化協会による満洲国建国十周年慶祝帝国芸術院会員絵画展の返礼の会に出席する(日比谷·山水楼)。
11月30日、藤沢の住友別荘に招かれる。邸内に設置された《金太郎遊行》を見て安心する。
11月、日本庭球協会解散記念として、小杉放菴原画の絵皿が配られる。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
12月1日、満洲雑誌社の関東軍慰問雑誌『満州良男』のカットを描く。
12月10日、長野県上田の赤松氏(春陽会の講習会で絵を学んでいた医師・赤松新か)から『秋萩帖』が届く。手習いの手本とする。
12月14日、帝国芸術院会員による東条英機首相へ贈る画帖の絵など描く。
12月15日、『現代叢書36 池大雅』(三笠書房)が刊行となる。1926年に刊行した『アルス美術叢書9 大雅堂』(アルス)の増補版。
12月16日、陸軍美術協会の委員会に出席する(麹町·宝亭)。
12月18日、永地秀太(太平洋画会時代の先輩画家)の告別式に参列する(伝通院)。
12月19日、日本風景協会理事会に出席、日本新八景を選定する話し合いをする(小石川林町·徳川邸)。
12月21日、宇都宮で川村直成(下野新聞社非常勤取締役)と合流し栃木県黒羽町(現・大田原市)へ。雲巌寺を観光後、那須温泉·山楽に一泊する。
12月22日、那須温泉神社や殺生石など那須湯本温泉付近を観光後、帰京する。
12月23日、第1回大東亜戦争美術展(3~27日、主催:朝日新聞社、会場:東京府美術館)を観る。
12月26日、足立源一郎・石井鶴三・木村荘八・中川一政・公田連太郎を自宅に招き、会食・歓談する。
12月30日、畑耕一(元明治大学教授、元国民新聞社学芸部長)、日露戦争従軍時代の友人である松内某と会食する。
12月31日、山本鼎を大森の自宅に見舞う。
1943(昭和18)年 62歳 1月3日、横山大観による内務省官僚らを招く会に陪席する(築地·新喜楽)。
1月5日、赤間信義元文部次官(1942.12.30逝去)の告別式に参列する。
1月10日、笹川氏の明清絵画20~30点の内輪の即売会が岸浪百草居宅で催され、湯沢三千男を誘い行く。中川一政も同席。小杉は宋時代の8点からなる画冊を2千円で購入。湯沢は八大山人の画冊と宋時代の花鳥画を売約する。
1月12日、義妹の高橋キミが来訪する。
1月18日、墨水書房の招宴に出席する。佐藤垢石が同席。
1月20日、吉田白嶺一周忌のため、花を持って吉田家に行く。
1月23日、倉田英子(白羊未亡人)を埼玉県浦和市に訪ねる。
1月24日、内本浩亮が来訪。中川一政と共に九州の内本邸を訪ねる計画について、暮からの渇水により、九州水力電気株式会社が水電不足で不安なため、春くらいに延期してほしいと頼まれる。
1月26日、帝国芸術院会員による戦艦献納運動などの対策協議会に出席する。
1月29日、山本鼎を見舞う。
2月2日、宇都宮市にて、川村直成(下野新聞社非常勤取締役)、田代善吉(郷土史家)、石井氏と4人で会食する。日帰り。
2月4日、公田連太郎が来訪、夕食を共にする。
2月5日、華中鉄道のための絵が完成する。
2月7日、出光佐三の招宴に出席する(清梶)。
2月8日、来訪した横堀角次郎の日本画を批評する。
2月9~13日、山崎喜作・永田某ら友人たちと安明荘に滞在。スキーなど楽しむ。13日帰京。
2月、皇太子殿下御誕辰記念日本近代美術館建設明治美術名作大展示会(10~28日、主催:朝日新聞社、後援:情報局・文部省・東京府・東京商工会議所・大政翼賛会)に、1911年作の油彩画《水郷》が出品される。 ※現在、東京国立近代美術館蔵
2月、帝国芸術院第二部会員作品展(11~13日、主催:画商文化協会、会場:東京銀座・資生堂)が開催されるも不出品か。 ※《うずめの舞》を出品したとする資料もあり。
2月15日、横山大観を訪ね、雲烟会について話し合う。
2月19日、春陽会展に屏風絵を出品するべく、下図を描き始める。
2月24日、午後1時より新喜楽にて横山大観の雲烟会が催されるも、大観が前夜からの風邪で欠席。佐藤春夫・里見弴と3人で閑談し午後3時散会となる。帰途、髙島屋の中西氏のもとに立ち寄り、吉田白嶺の弟子たちが師の遺作集刊行のために用意した小品木彫の販売会について相談する。
2月28日、夜、足立源一郎・石井鶴三・木村荘八・公田連太郎・中川一政・水谷清を自宅の閑談会に招く。
3月8日、午前中動物園に行く。苦作中の屏風絵の画題ついて「雉」への変更を考える。
3月10日、湯沢三千男から頼まれた絵を仕上げる。屏風絵のために「雉」の素描を始める。
3月14日、「雉」が思うようにいかず、屏風絵の画題を「イカルの群れ」へ変更する。午後、湯沢三千男の車で横山大観を訪ね、雲烟会について話し合う。
3月18日、屏風絵の画題を「イカルの群れ」から「銀鶏鳥」へ変更する。夕方、吉井勇(歌人)および北沢滋三(墨水書房)の招宴に出席する。
3月19日、文部省にて帝国芸術院の評議会に出席する。藤島武二の訃報を聞く。
3月21日、《金太郎》《銀鶏春光》の素描を描く。
3月22日、先日のこととして、来訪した渡辺大虚から新設する水墨道場の顧問就任を頼まれるが断ったことを日記に記す。
3月30日、描き終えた《銀鶏春光》を清泉堂へ渡す(第21回春陽会展へ出品)。午後、内本浩亮が来訪。旅行するにはひどく不便になってきたため、春に予定していた九州旅行はしばらく止めておくことを話し合う。
3月31日、《金太郎》(素描淡彩)が完成する。翌月の第21回春陽会展へ出品。
4月1日、京城(現・ソウル)の三嶋氏のために半切など描く。
4月2日、岸浪百草居の招宴に、出光佐三と共に出席する(清梶)。
4月、第21回春陽会展(6~18日、東京府美術館)に、《金太郎》(素描淡彩)、《銀鶏春光》(紙本着色)を出品する。名古屋市・商工会議所(5月上旬)、大阪市立美術館(5月14~23日)へ巡回。 ※現在、ともに出光美術館蔵
4月10日、雑誌『改造』口絵のための《素行像》が完成する。夜、三好重夫(警保局長)の招宴に出席する(新喜楽)。横山大観ら同席。
4月12日、春陽会16名による遠足に参加、埼玉県久喜町(現・久喜市)鷲宮神社に参詣する。
4月13日、大森駅で石井鶴三・中川一政と待ち合わせ、山本鼎を見舞う。
4月14日、日本美術報国会の発起人会に出席する(精養軒)。
4月20日、山本鼎が来訪。二日前に木村荘八から春陽会に戻ってこないかと誘われ、その相談をするため。
4月、中国で開催される、中国巡回現代日本絵画展(主催:国際文化振興会主催、後援:情報局・大東亜省・帝国芸術院)に《柘榴》(日本画)を出品する。開催地・会期は次の通り。北京(4月24日~5月2日、北京近代科学図書館と共催)、南京(5月10~23日、中日文化協会との共催)、上海(6月14~21日、中日文化協会上海分室と共催)、蘇州(7月1~5日、中日文化協会江蘇省分会と共催)。
4月29日、写真家の岡田紅陽から、新潟県能生町(現・糸魚川市能生)の椿が盛りとの連絡があるも、風邪で寝込んでいたため、すぐに安明荘へ行けないことを残念がる。
4月30日、帝国芸術院会員による、東条英機首相へ贈る画帖が、東京美術学校会議室で公開される。小杉放菴、荒木十畝、上村松園、鏑木清方、菊池契月、川合玉堂、小林古径、小室翠雲、西山翠嶂、橋本関雪、前田青邨、松林桂月、安田靫彦、結城素明、横山大観、有島生馬、石井柏亭、梅原龍三郎、中村不折、藤田嗣治、南薫造、安井曾太郎、山下新太郎、和田三造らが揮毫し、帝国芸術院長・清水澄が題字を、日満文化協会副会長・岡部長景の跋文を添えた。岡部文相の斡旋による。
5月2日、岸浪百草居に招かれ、佐藤垢石や中川一政も交えて閑談する。
5月6日、小林徳三郎が来訪する。
5月7~25日、安明荘に滞在する。
5月8日、奈良県・中宮寺本堂にて、3年前に発見された釈迦誕生仏の灌仏会が行なわれる。同像は和田英作が発見したことをきっかけに、帝国芸術院会員たちの手で像を収める厨子「花御堂」が制作・寄進される。厨子内部の天井画(25枚の草花図)のうち《君子蘭》を小杉が担当する。
5月、帝国芸術院会員作品鑑賞会(10~14日、名古屋美交社)に出品。ギャラリー美交社の名古屋進出一周年を記念する展覧会で、帝国芸術院第二部会員から、小杉、有島生馬、石井柏亭、梅原龍三郎、小林万吾、中澤弘光、中村不折、藤島武二、藤田嗣治、南薫造、安井曾太郎、山下新太郎、和田英作、和田三造の14名が出品した。
5月、第3回邦画一如会展(26~30日、東京市日本橋・三越本店)に《山居三首》を出品する。
5月26日、安明荘から帰京する。帝国芸術院会員と日本美術報国会理事の会に出席する(中華料理店 偕楽園)。夜、第百銀行の関根(善作か)氏の招宴に出席する。横山大観も同席。
5月27日、桑重儀一の告別式に参列する。
5月28日、午前、木村荘八・中川一政・水谷清と、この日の帝国芸術院会員会議について打ち合わせる。午後、帝国芸術院会員会議に遅れて出席。日本美術報国会との交渉について協議する。
6月1~20日、安明荘に滞在する。
(1日公田連太郎と安明荘へ行く。5日公田が帰京。6日来泊中の佐藤晩香のために絵を描く。7日晩香が帰る。8日珊々会展へ出す《芭蕉翁詩境》の制作にとりかかる。9日永田氏と書物展望社の斎藤昌三が安明荘に来訪。小杉が同社から刊行した『唐詩及唐詩人』好評の祝いをかねる。10日永田氏と斎藤昌三が帰る。12日内本[浩亮か]と北氏が来訪。ときは荘にて会食する。14日大阪三越の出品画を描く。20日帰京する。)
6月、日本画小品展(9~15日、東京市日本橋・三越本店)に《遊禽》を出品する。
6月21日、文部省で開かれた帝国芸術院会員による文展委員の選出会議に出席する。
6月22日、佐藤晩香が鮎を手土産に来訪。夜、岸浪百草居と中川一政を招いて鮎を食べる。
6月、第9回珊々会展(23~27日、主催:髙島屋美術部、会場:東京市日本橋・髙島屋美術部)に、扇面画《芭蕉翁詩境》(「一 芭蕉出家」「二 木枯し竹斎」「三 小夜の中山」「四 姥(姨)捨山」「五 平泉」)を出品する。 ※現在、《芭蕉出家》は出光美術館蔵
6月、昭華会日本画展(25~27日、主催:阿々土社、会場:帝劇画廊)に《田一枚》を出品する。
6月26~27日、岸浪百草居・中川一政と安明荘に滞在する。27日、高原ホテルで催された高田町の俳人の集まりに招かれる。
6月28~30日、岸浪百草居・中川一政と共に新潟県弥彦村周辺を旅行する。
(28日3人で弥彦村へ行き、弥彦軒に投宿。29日自動車で国上山[現・燕市]へ行き、国上寺や良寛ゆかりの五合庵を観光。岩室温泉[現・新潟市]をまわり弥彦村に戻る。30日岸浪・中川と安明荘に帰る。昨日から二郎が休暇で来ていた。)
7月1~28日、安明荘に滞在する。
(1日岸浪・中川が帰京。夜、二郎と晩酌を楽しむ。7日妻ハルと二郎が先に帰京する。17日関山村の関山神社の火祭りを見に行く。23日長野県上田にて山本鼎と会い、見舞いを渡す。安明荘に帰宅後、湯沢三千男が来訪していたことを知り、赤倉の香嶽楼へ湯沢を訪ね閑談する。27日一雄一家が安明荘に来る。28日帰京する。)
7月、バンコクに建設が予定される日本文化会館(のち日泰文化会館)の競技設計募集規定が発表される(締切は10月31日)。審査員として、伊東忠太・内田祥三・大熊喜邦・岸田日出刀・小林政一・佐藤武夫・田村剛・平山嵩・山本熊一・柳沢健のほか、帝国芸術院会員から小杉放菴・横山大観・安田靫彦・香取秀真ら4名が加わる。入選案は翌年発表。
7月30日、唐沢俊樹が来訪する。昼、足立源一郎・木村荘八・岡鹿之助・水谷清と集まり、打ち合わせ。午後、文部省にて帝国芸術院会員による文展会議に出席する。
7月31日、参謀本部の小川大佐が来訪、新地球儀の装飾を依頼される。
8月10日、横山大観を訪ねる。大観が会長を務める日本美術報国会に、理事として帝国芸術院会員10数人を加えることについて話し合う。
8月14日、横山大観による帝国芸術院会員を招く会に出席する(築地・新喜楽)。
8月15~22日、秋田県を旅行する。
9月2日、足立源一郎・石井鶴三・木村荘八・公田連太郎・中川一政・水谷清を自宅に招き会食する。
9月7日、陸軍地測量部の某中佐が、装飾図案を依頼されている地球儀台の図用紙を届けに来る。
9月8日、北京行の切符をとるため、一雄を大東亜省・鉄道省へ向かわせる。
9月18日~10月5日、興亜造形文化展の審査にあわせ、一雄・石井鶴三と北京を旅行する。
(9月18日石井鶴三・小杉一雄と共に下関行の夜行列車で出発。19日下関港から出港。釜山から北京行の寝台列車に乗車。20日京城[現・ソウル]を通過。21日夜、北京に到着。北京飯店に入る。22日安藤[更生か]氏に案内され、紫禁城、古物博物館、武英殿などを見学。23日食堂で昨夜到着した安井曾太郎と出会う。鶴三と共に日本大使館や軍報道部など挨拶にまわる。24日午前、一雄・鶴三と共に故宮博物院を観る。午後、太廟にて興亜造形文化展鑑査に出席する。25日一雄・鶴三と共に景山公園と北海公園を観光。午後、芸術専門学校にて小杉、鶴三、安井曾太郎の順で講演会。26日午前、国術館にて演武を見る。午後、安藤の案内で、一雄・鶴三と共に、明朝代から骨董街として知られる瑠璃廠へ行き、筆紙や古書を見てまわる。夜、小橋氏の招宴に出席する。27日一雄・鶴三と共に什刹海を観光。鶴三と別れて帰宿後、楊氏、重松氏、日本大使館の安原氏が来訪。28日蒙古馬を写生するため競馬場へ行く予定だったが自動車の故障により、鶴三と天壇観光に変更。この後講演会が予定されていたが、天壇の帰りにまた自動車が故障し間に合わず中止となる。夜、徳光衣城[東亜新報社社長]の招宴に出席する。29日午前、中央公園や南海周辺を散歩。夕方、土屋氏[日本大使館総務部長]の招宴に出席。土屋氏は欠席。30日午前、小橋氏の案内で、一雄・鶴三と共に五塔寺を観光。帰途、中南海公園をドライブ、民芸陳列所を見学し、中央公園にて昼食。午後、大廟にて興亜造形文化展審査会に出席する。夕方、北京大学教授らの招宴に出席。一雄は安藤氏宅に宿泊。10月1日午前、鶴三と日本大使館と教育総署へ帰国の挨拶まわりをする。午後、一雄と共に安藤氏を訪ね、3人で羊の群れを写生・撮影する。夜、旅行社にて西遊記の影絵芝居を見る。2日鶴三と別れ、一雄と共に帰国の途につく。伊藤・小橋・重松・楊の4氏に見送られる。4日朝、釜山に到着。午前10時出港。夕方、下関に到着。夜の寝台列車に乗車。5日朝、帰宅。)
10月、島崎藤村翁を偲ぶ会(7~9日、主催:月明会、会場:東京銀座・資生堂画廊)に出品する。
10月8日、依頼されていた地球儀の装飾図案が完成。出来はよくないが仕方がないとする。
10月10日、岸浪百草居と公田連太郎を夕食に招く。
10月12~17日、安明荘に滞在する。
10月18~24日、岐阜県大井町(現・恵那市大井町)を旅行する。
(18日前日来た岸浪百草居と早朝に安明荘を出発。木曽谷を抜け、午後2時すぎ大井町に到着。伊藤氏と会い、金龍館に投宿。鳥屋場を期待していたが、多くの業者が福井県に転じていることを藤平老から聞く。19日岸浪と伊藤氏は福井県の鳥屋場へ行く。小杉は大井町に残り、鳥の写生をして過ごす。20日夕方、岸浪と伊藤氏が戻ってくる。21日中川一政が合流。24日長野県塩尻町で岸浪・中川と別れ、ひとり安明荘に帰る。)
10月25日~11月10日、安明荘に滞在する。
(10月25日大井町から持ち帰ってきた鳥を写生。26日京都から青山氏が来訪。27日青山氏のための絵を描く。29日日帰りで長野県上田市行。長野美術展の審査会に出席。山本鼎・中川一政と会う。11月2日相沢氏、増田氏、持田[善作?]氏が来訪。3日増田氏のために《良寛》を描く。4日増田氏が去る。7日佐藤晩香が来訪。8日晩香のために絵を描く。大工の山本氏が来て、風呂場の天窓を開ける工事を始める。9日佐藤晩香が去る。10日帰京。)
11月13日、日泰文化会館コンペの審査会に出席する(東京美術学校)。
11月17日、農村に配布される翼賛色紙など描く。
11月19日、日泰文化会館コンペ最終審査会に出席する(東京美術学校陳列館)。丹下健三が一等賞に決まる。この施設は最終的に、日本の敗戦により完成しないまま終わる。
11月20日、北京で世話になった小橋氏を夕食に招く。
11月21日、春陽会教場の発足式に出席する(上野公園·東華亭)。長らく途絶えていてた研究所活動を再開させるもの。
11月、「猟の若人」の素描を描く。
12月1~4日、安明荘に滞在する。佐藤晩香のための絵を描く。
12月5日、安明荘から帰京する。
12月6日、「猟の若人」の画題を《大和朝の若人》に決める。
12月7日、岸浪百草居が来訪、晩酌を共にする。岸浪の岳母が亡くなったことを聞く。
12月8日、動物園に行き、蒙古馬を見る。空襲にそなえ殺処分された猛獣たちを憐れむ。
12月9日、佐藤晩香が来訪する。
12月10日、唐沢俊樹が来訪する。
12月13日、《大和朝の若人》の彩色にとりかかるも、一日で中断する。
12月16日、油彩画《金太郎》の制作にとりかかる。
12月、朝日新聞社が主催する歳末厚生週間色紙即売会(17~19日、東京銀座・松屋)に出品する。
12月20日、日本美術報国会の第二部理事会に出席する。
12月23日、《金太郎》の描き変えを考える。午後、東京科学博物館(現・国立科学博物館日本館)と上野恩賜公園動物園(現・上野動物園)を見てまわる。
12月24日、《金太郎》を描き変え始める。何が何でも完成させなければと重圧を感じながら、年末まで少しずつ筆を加えていく。
1944(昭和19)年 63歳 1月1日、義妹の遊佐フサが子供を連れ、福島県から来訪する。
1月6日、横山大観と共に、湯沢三千男の招宴に出席する(新喜楽)。
1月7日、岸浪百草居宅にて催された、清水中将の歓迎会に出席する。ほか、出光佐三・公田連太郎・中川一政・湯沢三千男ら。
1月10日、油彩画《金太郎》にサインを入れ、完成する。翌月の戦艦献納帝国芸術院会員美術展に出品。
1月16日、春陽会教場にて唐詩について講演する。
1月21日、《金太郎》を表慶館へ搬入する。
1月22日、日本美術報国会理事会に出席する(三越)。
1月24日、中西悟堂が来訪する。
1月29日、石井鶴三・岸浪百草居・木村荘八・公田連太郎・中川一政・水谷清を招き、閑談会をなす。
2月、戦艦献納帝国芸術院会員美術展(1~29日、主催:帝室博物館・大政翼賛会、会場:帝室博物館表慶館)に《金太郎》(油彩画)を出品する。 ※現在、《金太郎遊行》の作品名で栃木県立美術館蔵
2月7日、戦艦献納帝国芸術院会員美術展を観にいく。会場での自作の出来に安心する。
2月8日、前年夏に知りあった庄司信吾(山形県の実業家)の訃報を聞き驚く。
2月9日、横山大観が来訪。海軍への献納を目的とした戦艦献納帝国芸術院会員美術展に対し、陸軍への献納展もやるよう大政翼賛会から話があったことを相談される。
2月12日、公田連太郎から最近の不調を知らせる手紙が届く。
2月13日、一雄を公田連太郎の様子を見に行かせる。出光佐三の招宴に出席する(金らく)。岸浪百草居・清水中将・湯沢三千男ら同席。
2月14日、一雄を連れて公田連太郎を見舞う。
2月22日、二郎が帰って来る。
2月24日、明日の埼玉県入間郡越生町への案内のため、持田善作が深谷町から来訪する。
2月25日、岸浪百草居と共に越生町の梅園村へ行く。本庄町(現・本庄市)相沢氏宅に一泊。相沢夫妻に厚くもてなされる。
2月26日、本庄町からの帰途、深谷町で平忠度の墓を見た後、帰京する。
2月27日、横山大観を訪ねる。帝国芸術院の陸軍献納画についての打ち合わせ。また、東京美術学校改革について文部省から意見を求められた話を聞かされ、自分がその人選にあたることになった際には、油画科を受けもってもらえないかと相談される。同日、小杉一雄に次男・小二郎が生まれる。放菴4人目の孫。
2月28日、帝国芸術院による陸軍への献納展について、横山大観へ手紙を書く。
2月29日、朝、横山大観を訪ねるも不在。
3月1日、大政翼賛会による帝国芸術院会員を招く会に出席(帝国ホテル)。帝国芸術院による陸軍献納画展の詳細が決定する。
3月3日、東京美術学校新教員への誘いについて、横山大観に断りの手紙を書く。同日、岳母の喜寿祝いに《ひよこ》(紙本着色)を描く。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館寄託
3月6日、春陽会展に出す《閑庭春禽》の下絵など描く。
3月9日、従兄の小杉伴作が亡くなる。
3月11日、陸軍献納帝国芸術院会員美術展出品作の画題を豊臣秀吉にするか悩み、結局アマノウズメに決める。午後、日本美術及工芸統制協会(美統)第二部の査定に出席する。
3月12日、美統の査定に出席する。
3月14~16日、日光に二泊三日で帰郷する。
(14日両親や五百城文哉の墓参り。15日二郎と義弟の相良敏三を連れて二荒山神社に参拝。三仏堂で日増院と会い、翌月に中禅寺の《笑い薬師》を撮影させてもらう約束をする。山内の鈴木久太郎町長宅へ昼食に招かれた後、御幸町へ国府浜家の墓参り。夕方、相良家の墓参り。16日帰京。)
3月17日、襖絵《閑庭春禽》の本画にとりかかる。
3月19日、内本(浩亮か)息子の光が翌日入営するため三光町へ行く。
3月24日、渡邊翁が新潟県から来訪する。
3月25日、日本美術報国会理事会に出席する。
4月、長男・一雄が早稲田大学附属第二早稲田高等学院専任講師に就任する(1945年3月まで)。
4月1日、夕方、横山大観を訪ね、日本美術報国会の人事について意見を聞く。同日、石田氏が赤倉から来泊する。
4月2日、襖絵《閑庭春禽》が完成、清泉堂へ渡す。義妹の遊佐フサが福島県へ帰る。石田氏が帰る。
4月、第22回春陽会展(7~18日、東京都美術館)に《閑庭春禽》(紙本着色)を出品する。 ※現在、摠見寺蔵・小杉放菴記念日光美術館寄託
4月7日、第22回春陽会展招待日に出席する。
4月10日、第22回春陽会展研究賞を選定する審査会に出席する。
4月14日、妻ハルと和泉玉川(現·東京都狛江市東和泉)に遊ぶ。義男と合流し、野鳥の観察を楽しむ。
4月18日、陸軍献納帝国芸術院会員美術展に出す《鈿女の舞》の素描にとりかかる。第22回春陽会展の最終日へ行く。
4月20日、大政翼賛会の文芸・演劇関係者を招く会に出席する(帝国ホテル)。
4月22日、佐藤晩香が来訪する。
4月24日、友人の美術批評家 外狩素心庵(4月22日逝去)の告別式に参列する。
4月25~26日、岸浪百草居・中川一政と埼玉県へ一泊旅行する。
(25日岸浪・中川と上野駅を出発。熊谷市で持田善作と合流。忍町[現・行田市]大澤氏宅にて昼食、古画を見せてもらう。夕方、本庄町[現・本庄市]相沢氏宅に一泊。26日帰京。)
4月29日、日本美術及工芸統制協会交易展の絵にとりかかる。
―― 春、水谷清が作家の大鹿卓と、上海の銭痩鉄を訪ね、印章を依頼する。
5月3日、昼過ぎから岸浪百草居宅にて、岸浪・中川一政と共に、公田連太郎の快復を祝う小会を開く。
5月4日、書を書く。
5月5日、書など書く。
5月7日、何度も描き直してきた《鈿女の舞》の素描を終える。
5月8日、春陽会17人によるハイキングに参加する。高麗神社(現・埼玉県日高市)、高麗寺(高麗山聖天院勝楽寺か)などまわる。
5月10日、《鈿女の舞》の着色にとりかかる。
5月11日、一雄の案内で、妻ハルと新井薬師駅近くの萬昌院功運寺へ牡丹を見に行く。吉良上野介、水野重郎左衛門、大岡越前守の墓など見る(大岡越前守の墓は戦後、茅ヶ崎浄見寺へ移された)。
5月13日、持田善作が来訪する。
5月14日、増田氏が来訪する。『元史』を読む。
5月18日、油彩画《鈿女の舞》が完成。7月の陸軍献納帝国芸術院会員美術展に出品。
5月20日、岩野平三郎(紙漉き師)が福井県から来訪する。
5月21日、陸軍献納帝国芸術院会員美術展のため《大牡丹》(油彩画)にとりかかる。夕方、横山大観を訪ね、日本美術報国会と文展の合同展や東京美術学校法人改革について話し合う。大観がいずれ美報会長を辞した時の後任として、湯沢三千男を薦める。
5月23日、日本美術報国会理事会に出席。文展との合同展について協議する。
5月24日、湯沢三千男を誘い、出光佐三邸へ古唐津コレクションを観にいく。岸浪百草居や清水提督も来会。帰宅後、横山大観から電話があり、日本美術報国会と文展との合同展についての覚書を文部省へ渡す相談をする。
5月25日、横山大観を誘い、文部省に覚書を渡す。この日朝刊に東京美術学校総辞職の記事を見、横山大観の功績、また自身の功も少なからずと日記に記す。
5月26日、《大牡丹》がうまくいかず、小品へ変更を決める。
5月30日、《大牡丹》から変更した小品も止め、陸軍献納帝国芸術院会員美術展には素描を出すことにする。午後3時より木村荘八宅にて水谷清の歓迎会を開く。
5月31日、横山大観が来訪。文部省へ提出した覚書について相談し、明日文部大臣を訪ねる約束をする。
6月1日、横山大観と共に岡部長景文部大臣邸を訪ねる。帰途、日本美術報国会理事会の前に、関係者数人に下話をしておくことを勧める。
6月4日、横山大観宅にて日本美術報国会関係者を集めた懇談会に出席する。石井鶴三・木村荘八・辻永・松林桂月が同席。
6月5日、素描《猿田彦》が完成する。翌月の陸軍献納帝国芸術院会員美術展に出品。硯工福嶋氏による「正方に円き墨堂」の実用硯が出来、気に入る。
6月6日、東京で活躍する日光出身者の集まり「晃友会」に出席する。日光小学校創立70年事業について話し合う。
6月12日、『草書大字典』から字を書写する。
6月14日、内本浩亮が来訪する。
6月15日、素描《建御雷》が完成する。
6月16日、前日の《建御雷》が気に入らず、《稗田の阿禮》の素描にとりかかる。
6月24日、素描《稗田の阿禮》が完成する。翌月の陸軍献納帝国芸術院会員美術展に出品。
6月27日~7月19日、安明荘に滞在する。7月18日に岸浪百草居・中西悟堂・持田善作・村田氏が来訪する。
7月、陸軍献納帝国芸術院会員美術展(15~31日、主催:帝室博物館・大政翼賛会、会場:帝室博物館)に、《鈿女の舞》(油彩画)、《稗田の阿禮》(素描)、《猿田彦》(素描)を出品する。
7月20日、岸浪百草居・中西悟堂らと共に、安明荘から長野県戸隠村(現・長野市戸隠)へ一泊旅行。戸隠神社宝光社に参拝する。
7月21日、宝光社で神楽を見物後、帰途につく。長野で村田氏と、柏原で中西悟堂と別れ、岸浪百草居と共に安明荘へ帰る。8月27日の帰京まで滞在する。
7月23日、岸浪百草居が安明荘から帰る。
8月2日、『旧約聖書』を再読し始める。
8月4日、『旧約聖書』『孔子家語』を読む。
8月18日、新潟県高田市に一泊旅行。市長・小川氏・丸正氏らの晩餐会に招かれる。
8月19日、中村氏・丸正氏と能生町(現・糸魚川市能生)を観光する。午後7時頃安明荘に帰る。
8月20日、加藤潤二(加藤版画研究所)が東京から来訪、絵を依頼される。
8月27日、安明荘からの帰途、長野県上田市に立ち寄り山本鼎・芦田氏と会食後、帰京する。
8月28日、帝国芸術院会議に出席する(文部大臣官邸)。戦局を鑑みて文展を延期し、招待制の小規模展を開くことなど協議する。
8月29日、清水道庵医師の来診を受ける。
8月30日、二郎が出張から帰宅する。
8月31日、午前中に小品一点を仕上げた後、中川一政を訪ね閑談、夕食に招かれる。夜、中川と共に公田連太郎を訪ねた後、帰宅する。
9月2日、石井柏亭を訪ね、軍事援護美術展の「軍人援護」という課題を変更できないか相談する。
9月3日、病床にある中村(鉄二か)叔父を麻布に見舞う。
9月4日、石田氏と孫の正太郎を連れて安明荘へ行く。11月2日まで滞在する。
9月5日、与謝蕪村の句集を読み返す。
9月6~7日、上海で開催される春陽会小品展に出す作品を描く。
9月11日、正午に田口駅を発ち、午後3時すぎ宮内に到着。川上氏(酒造業)と児玉氏に迎えられ、一泊する。
9月12日、午前10時に時宮内を発ち、三条市を経て、越後鉄道で出雲崎町へ向かう。佐藤吉太郎(郷土史家)に迎えられ、良寛の話をする。
9月13日、朝、佐藤吉太郎の尽力により良寛生家跡地に建てられた良寛堂を見学。佐藤・児玉氏と出雲崎町を発つも、鉢崎トンネルが崩れ不通になっていたため、新潟方面へ向かう。長岡市島崎にある、良寛と貞心尼が出会い、良寛が亡くなるまで身を寄せていたという木村家を訪ねる。良寛の遺墨数点を見せてもらい、木村家の菩提寺である隆泉寺で良寛墓碑を参る。午後3時、佐藤と別れ、児玉氏と新潟市へ向かう。午後4時すぎ、かつての佐渡旅行時にも利用した篠田旅館に投宿。松本氏が来訪し、3人で会食する。
9月14日、白山公園や新潟県郷土博物館(旧新潟県会議事堂、現・新潟県政記念館)など新潟市内を観光。児玉氏宅を訪ねた後、夕方から児玉・田口・松井[敬?、新潟日報社本社編集局次長]・松本の四氏と鳥料理屋で会食する。
9月15日、朝の汽車で新潟市を発ち、正午すぎ安明荘に帰る。10月30日まで滞在する。
9月16日、持田善作が来訪する。
9月17日、持田善作を連れ、山へブナの幹の写生に行く。
9月23日、素描《山翁奉仕》が完成。翌月の軍事援護美術展出品のため、石田氏に東京へ運んでもらう。
9月25日、雑誌『短歌研究』の装画を描く。
9月27日、安明荘に滞在していた摠見寺住職が帰る。
9月28日、正太郎がおたふく風邪にかかる。
9月29日、正太郎が高熱を出したため、夜中川医師に来診してもらう。高田市から中村老が来訪する。
10月2日、正太郎がおたふく風邪から快復する。
10月、第1回軍事援護美術展(3~22日、主催:日本美術報国会)に《山翁奉仕》(素描)を出品する。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
10月10日、松尾芭蕉の騎馬像など描く。
10月13日、午前8時に安明荘を発ち、長野県飯山町に向かう。途中、豊野駅で乗り換えの汽車を2時間待つあいだに公園の大日堂で一人山や鳥を見る。昼頃飯山駅に到着。前日から来ていた大山・中川・中谷・宮原(明良?)らと合流し、一泊する。
10月14日、友人たちはもう一日滞在することになり、飯山町から一人安明荘へ帰る。
10月16日、郷倉千靭が来訪する。
10月17日、會津八一と生方たつゑの歌集を読み終える。
10月20日、石田氏と燕温泉(現·妙高市関山)へ行く。日帰り。
10月23日、一雄が来る。
10月24日、赤松(新?)氏が来泊する。
10月25日、赤松(新?)氏が帰る。
10月26日、安明荘の敷地入口に門を建てる。中村医師と中島氏が来訪する。
10月27日、郷倉千靭と佐藤翁が来訪する。
10月28日、大工の山本氏に頼んでいた客間の本棚が完成する。
10月29日、一雄・正太郎らが帰京する。
10月30日、『南史』を読了し、二十四史を一通り読んだことになる。
11月1日、午前10時の汽車で発ち、午後3時すぎ松本駅(長野県松本市)に到着。弟の甲午郎に迎えられ、姉のヤヲとも会い、一泊する。
11月2日、松本市から帰途につく。塩尻駅の手前まで甲午郎が同乗。塩尻駅から前田青邨夫妻が偶然一緒になり、車中甲冑の話などしながら帰京する。
11月3日、『文芸春秋』の原稿「国術館」を執筆する。
11月4日、岸浪百草居が来訪する。
11月5日、朝、空襲警報が鳴り、午後の解除まで防空壕に避難する。
11月6日、三郎の七周忌のため、二郎と義弟の相良敏三・英一らを連れ、白山道場へ墓参りする。公田連太郎、五百城文哉夫人らも来る。
11月7日、義弟妹の相良敏三・高橋ミツが帰る。日光第一国民学校(現・日光小学校)校長宛に、《山翁奉仕》を寄贈したい旨を告げる手紙を書く。
11月10日、弟の甲午郎が松本市から来訪する。
11月13日、八王子市で岸浪百草居・中西悟堂・猪川珹(野鳥の会会員)・菅井氏と落ち合い、恩方村の先にある鳥屋場へ行く。5人で山小屋に一泊する。
11月14日、朝に下山、福生町(現・福生市)にある中西悟堂の仮宅(新居建築中)に立ち寄る。町長(石川弥八郎)宅で歓迎を受けた後、夜9時過ぎに帰宅する。
11月19日、出光佐三の父親(出光藤六)が亡くなり、弔問に行く。ニコライ堂の春陽会教場にて、これまで見た日本の名画について講話する。夕方、大東亜会館(現・東京會舘)で催された、中川一政の長女桃子と原保美(俳優)の結婚披露宴に出席する。
11月21日、白隠の師である正受老人の伝記を読む。
11月22日、戦時特別文展の作品下見に出席する。日本の近年の油絵は下手になったと日記に記す。
11月23日、水谷清が上海から帰国する。
11月24日、漆原日光第一国民学校校長、丸美の小杉三郎(放菴従兄である伴作の息子)らが、《山翁奉仕》を受けとりに来る。
11月25日、湯沢三千男が来訪する。
11月29日、岸浪百草居個展(24~29日、日本橋・三越本店)を観る。夜に神田方面で空襲あり、地下室に避難する。
11月30日、内本浩亮が来訪、昨夜の空襲の被害状況を聞く。夕方、持田善作が来訪する。
12月1日、岸浪百草居が来訪、神田の焼け跡の話を聞く。
12月4日、戦時特別文展の政府買上作品についての会議に出席する。同日、永井久録(亡姉キチの夫)の訃報を聞く。
12月9日、出光佐三主催による木公会が藤間亀三郎(初代尾上菊之助)邸で催され、出席する。岸浪百草居・清水中将・湯沢三千男ら同席。常磐津の舞踊など楽しむ。
12月15日、雑誌『短歌研究』の装画を描く。
12月22日、一雄が福島県から戻る。疎開させた子どもたちのため、遊佐家旧宅があった家を借りた話を聞く。
12月28日、自宅にて春陽会会員会を開く。
12月31日、赤倉から石田氏が餅などを持ってきてくれる。
12月後半、連日の空襲に悩まされる。
1945(昭和20)年 64歳 1月1日、岸浪百草居が来訪する。
1月2日、横山大観のもとへ年始の挨拶に行く。
この頃、針重敬喜から、針重の次女・千鶴子と小杉の二男・二郎との結婚について相談される。
1月7日、岸浪百草居宅で催された木公会に出席する。公田連太郎など同席。
1月14日、持田善作が来訪する。
1月17日、横山大観・三好重夫情報局長と日本美術報国会について会談する。三好は警保局長時代に面識のある人物。
1月19日、ポプラ倶楽部にて、針重敬喜と倶楽部の今後について話す。
1月21日、一雄が福島県から帰京。疎開中の孫たちの元気な様子を聞き安堵する。
1月23日、『史記』を読む。
1月24日、養徳社(旧甲鳥書林)の矢倉年が来訪。公田連太郎に『呻吟語』の訳注を依頼するよう紹介する。『唐詩及唐詩人』の改訂版の話を持ちかけられ、引き受ける(同社からの改訂版出版は実現せず)。
1月31日、持田善作が来訪する。
2月2日、小杉義男が来訪する。
2月10日、ポプラ倶楽部の玉突き室が解体されたため、燃料にするため廃材を半分貰いに、二郎と水谷清を連れて行く。
2月11日、旭谷正治郎(画商)が来訪。翌日の秋田行について。
2月12~26日、旭谷正治郎と秋田県を旅行する。
(12日旭谷と東北方面の汽車で上野駅を発つ。福島市にて藤沢氏宅に一泊。13日山形県大石田にて庄司氏宅に一泊。庄司信吾の墓を参る。14日昼頃、秋田県湯沢に到着。横堀から押切氏が同乗。高田屋旅館に落ちつき、渡邊博士が訪ねてくる。15日朝に出発し、横堀へ向かう。町外れの押切氏宅に行く。押切氏が酒造業から味噌の乾燥に転業しつつあることを知る。10余年ぶりに同家の稲住の湯に入る。午後5時、大曲の仙北ホテルに落ち着く。16日朝、田口[松圃?]氏と清水氏が訪ねてくる。午後出発。17日役場の泉氏による案内で船川[現・男鹿市]の波止場を見学。役場で奈良氏と談笑後、泉旅館にて夕食。19日、午前中色紙や短冊に揮毫する。夕方、役場で奈良氏と談笑。大黒屋で一酌し、なまはげを見る。20日朝9時船川を発ち、昼頃秋田市に到着。秋田魁新報社に寄り弁当をもらう。午後3時、佐々木氏宅で一酌。宿がとれなかったため、久安博忠県知事邸に泊まらせてもらう。久安とは元栃木県警察部長時代に面識があった。21日午前8時半の汽車で出発。午後2時すぎに角館に到着、荒川氏に迎えられる。旧知の小林旅館に泊まり、荒川氏が手配してくれたオバコをモデルに写生。佐藤氏宅の夕食に招かれ、剣客の手賀氏も来会する。22日朝、旭谷が先に横手へ出発。小杉は、二人のオバコに交代で立ってもらい終日写生する。赤川菊村が来訪する。夕食は再び佐藤氏に招かれる。23日朝8時に出発するも、吹雪の影響により大曲駅で6時間待つ。午後6時頃、山形県新庄に到着。井上氏宅の世話になる。24日朝7時の汽車で出発。山形に近づく頃、同乗の人から板谷峠が危ないと聞き、仙台にまわることにする。午後2時頃、宮城県仙台市に到着。仙台ホテルに入る。江間氏が五合壜と沢庵を持ってきてくれる。25日福島県桑折町の旧家である角田[林兵衛か]氏邸に入る。26日朝の汽車で帰京。旭谷とは赤羽で別れ、田端駅まで二郎が迎えに来てくれる。)
3月3日、義弟の高橋英男(放菴夫人の末妹キミの夫君)と松井氏(写真師)が来泊する。高橋は川治に疎開していた東京の児童を送り届けた帰りだった。
3月4日、朝7時すぎから10時すぎまでB29編隊による空襲のため、何度も地下室に避難する。
3月6日、子供たちと二郎の結婚について相談。また、妻と安明荘へ疎開することを決める。
3月7日、針重敬喜を訪ね、針重の次女・千鶴子を二郎の妻として貰いたい旨を伝える(入籍は8月18日)。
3月9日、夜、二郎が針重敬喜宅へ招かれる。まもなく疎開する針重の老母と会うため。
3月10日、深夜0時すぎからB29約300機による空襲が始まる(東京大空襲)。朝になって渡邊町の空襲跡へ行き、瓦礫場と化した石井柏亭邸を見る。長谷川豊雄らと会う。
3月11日、朝、空襲で瓦礫場と化した横山大観邸を見に行き、大観は疎開中であったことを聞く。渡邊町にて前田文六(指物師)に遇う。夕方、湯沢三千男が来訪する。
3月12日、疎開の準備をする。
3月16日、小杉らの疎開が急に決まったため、一雄を連れて、二郎の婚礼について針重敬喜と相談。両家の親が揃うのは今しかないと、急きょこの日の夜に、二郎と針重千鶴子の婚礼が行われる(正式な入籍は8月18日)。
3月17日、疎開のため、妻と一雄と共に、新潟県赤倉へ向かう。田口駅にて石田氏に迎えられ、川端氏宅に寄った後、中山館に一泊する。
3月18日、安明荘に到着。疎開生活が始まる。田端の家は、一雄一家と二郎夫婦にまかせることになる。
3月21日、一雄が安明荘から東京へ帰る。
3月30日、持田善作が友人を連れて来泊する。
3月31日、朝、持田善作ら去る。夜、川端氏の世話で安明荘にラジオがとりつけられる。
4月、長男・一雄が早稲田大学附属第二早稲田高等学院教授に就任する(1949年3月まで)。
4月1日、この日から連日、ラジオで沖縄戦の戦況を聞く。
4月8日、出光佐三の母親のために紙本着色の仏誕図《四月八日》を描く。 ※現在、出光美術館蔵
4月13日、ラジオで東京大空襲のニュースを聞き、東京の子どもたちの身を案じる。
4月15日、ラジオで再び東京大空襲のニュースを聞き、焦燥する。
4月17日、京都の矢倉年へ随筆「東亜人」原稿を送る。
4月18日、陶淵明の原稿にとりかかる。
4月19日、東京から電報が届く。田端の家は全焼したが、子どもたちは皆無事と聞き安堵する。短歌「まりあなのいたづらものよ東京にわがかへる家なくなりにけり」を詠む。
4月23日、針重敬喜から、浦和の倉田家(白羊遺族)の世話になっていることを伝える葉書が、日光から二郎に召集令状が来たことを伝える電報が届く。夜、石田氏に浦和を訪ねるよう頼み見送る。
4月25日、二郎から召集令状を受けとったことを伝える電報が届く。
4月26日、一雄から被災状況を伝える手紙が届く。倉田家の世話になっていること、倉田文作(白羊の次男)がひどい骨折をしていること、一雄にも召集令状が来たが、心臓に特殊音があり兵役免除になった時の書類で解決できることなど知る。
4月27日、夜、石田氏が千鶴子(二郎夫人)を連れて東京から戻ってくる。一雄への召集令状は二郎宛の間違いであったことや戦災の詳細を聞く。
4月28日、書き上がった陶淵明の原稿を京都へ送る。正午の汽車で高田市へ行く。中村氏に迎えられ、共に鈴木旅館に入る。高田城址で桜を見た後、丸庄氏宅で風呂に入らせてもらう。
4月29日、午後1時に高田市を発ち、安明荘に帰る。持田善作が来訪する。
4月30日、村田氏のために絵を描く。
5月1日、京都の矢倉年へ送る絵を描く。持田善作が去る。
5月2日、アドルフ・ヒトラーが前月30日に自殺していたニュースをラジオで聞く。
5月9日、ドイツが連合軍に無条件降伏したニュースを聞く。日本も負けるかもしれないと暗然となる。
5月14日、朝7時発の汽車で富山県八尾町へ向かう。10余年ぶりの再訪。川崎順二宅に落ち着く。夕方、常松寺に疎開していた吉井勇を、川崎と玉生[孝久?]氏を同伴して訪ねる。吉井が病臥中であったため、また再訪することにする。夜、壺中庵(川崎邸)にて玉生氏・小谷氏も交え会食する。
5月15日、午前中に谷井氏の紙漉き工場を訪ね、昼食に招かれる。小谷氏と城ヶ山へ行き立山剣岳を眺めた後、再び吉井勇を訪ねる。夜、壺中庵にておわら節の人々と会食。久しぶりにおわら節を聴かせてもらう。
5月16日、午前中に吉井勇が来訪、同人誌『乗合船』のことなど話す。昼過ぎ、川崎順二と共に、林秋路の紙漉き工場を見学。川崎・林と3人で散歩し、夕方から城ヶ山にて一酌する。
5月17日、朝の汽車で八尾町を発ち、午後4時頃に安明荘へ帰る。
5月20日、川田順・新村出・高田保馬・中川一政・中山正善・湯川秀樹・吉井勇と短歌の同人誌『乗合船』第壹輯(京都市・養徳社内乗合船刊行所)を創刊する。編輯発行人は甲鳥書林の矢倉年。
5月24日、福島県にいる遊佐清司(妻の妹フサの夫君)老母の訃報を聞く。
5月27日、針重敬喜夫妻が来訪する。
5月29日~6月2日、長野県・群馬県を旅行する。
(5月29日午後、長野県上田市へ病床の山本鼎を見舞い、赤松[新?]氏宅に一泊。30日午前9時の汽車で真田駅まで移動し、そこからトラックで鳥居峠を経て、群馬県の新鹿沢口まで行く。昼食後、午後3時に旧鹿沢に到着。31日午前、鹿沢スキー場の山に登る。夕方、地蔵峠の麓まで散歩する。6月1日午前9時すぎ出発。角間峠を登り、岩屋観音の断崖を見物。上田市真田町にて山家神社、真田神社など見て歩く。午後5時すぎ北上田着。赤松氏宅に一泊。2日赤松氏の子息に送られ、上田駅から午前9時頃発の汽車で帰途につく。午後1時すぎ安明荘に帰宅。)
6月10日、福島県から一雄が、岐阜県恵那郡に疎開していた百合が龍子を連れてやって来て滞在。賑やかになったのを喜ぶ。
6月11日、昼過ぎ、一雄と郷田切川の上流へ、岩魚や山菜とりに行く。久しぶりの親子の山歩きを楽しむ。
6月13日、連作の短歌「本土に迫る」原稿を新潟日報社へ送る。
6月14日、一雄が、北多摩郡三鷹町の工場で学徒勤労の監督を勤めるため、東京へ発つ。
6月20日、妻ハル・百合・龍子・千鶴子(二郎夫人)と5人で、郷田切川向かい側の山にてピクニックを楽しむ。
6月22日、昼過ぎ、田切の村へ松橋氏を訪ねる。帰途、放菴を訪ねようとしていた棚橋一郎(長野県古間村の人)と遇い、安明荘まで案内、短歌を所望される。
6月26日、午前8時、百合と龍子が疎開先へ帰る。午前9時、石田氏と宮内へ向かう。児玉氏に迎えられ、川上氏宅へ行く。一泊する。
6月27日、宮内からの帰途、乗車した汽車が新井駅停まりだったため、高田市で下車し中村氏宅で3時間半ほど時間を潰した後、安明荘に帰る。
6月28日、素描《李長吉》を描き始める。
7月6日、長谷川豊雄が来泊する。割れたパレットを接いでもらう。
7月7日、高田市の祇園祭りに招かれ一泊する。中村氏・丸山氏らと会食する。
7月8日、大工の山本氏を訪ね、仕事を頼んだ後、安明荘へ帰る。
7月9日、棚橋一郎がさつま芋の苗を持ってきてくれる。
7月13日、摠見寺からの使いが来訪。お椀や魚など、住職からの罹災見舞いを持ってきてくれる。
7月15日、摠見寺からの使いが滋賀県へ去る。本堂の襖に貼りまぜる禅画四題を土産に持たせる ※現在、小杉放菴記念日光美術館寄託
8月15日、玉音放送局を聞き、虚脱する。
8月17日、岸浪百草居への手紙に〈国土は日清戦争以前にかへつても 四年が間東半球を席巻した意気は不滅だ 今後の東亜を指導すべきは日本の学問と文華です 我々の責は重くなつた 若返りませう 芸術の原子バク弾をつくるヤツを今後に生れさせる為にも〉と書く。
8月18日、畑で初めて収穫したカボチャを煮てお供えに、亡き父へ敗戦を報告し泣く。
8月20日、古事記の素描を描く。
8月22日、木村荘八から石井鶴三夫人の訃報を知らせる通知が遠く。
8月23日、甥(末弟 甲午郎の長男)の訃報を聞く。
8月24日、石田氏を連れて杉の沢へ行く。原田政五郎という老人から馬鈴薯を買う約束をする。
8月28日、蔵々村の小嶋氏が来訪する。
9月1日、二郎が帰ってくる。持田善作が来訪、妹とその子どもが熊谷の空襲で亡くなったことを聞く。
9月3日、一雄が来て、一週間ほど滞在する。
9月10日、一雄が早稲田大学開講準備のため安明荘を発つ。岸浪百草居、水谷清が来訪、数日滞在する。
9月13日、水谷清が去る。
9月14日、岸浪百草居が去る。
9月16日、汽車で埼玉県本庄町(現・本庄市)へ向かう。持田善作に迎えられ、相沢氏の新居へ行く。
9月17日、朝、東京へ向かう。有楽町の出光館(日章興産ビル)で板谷波山と会い、連れだって文部省へ行き、帝国芸術院による文展についての会議に出席する。藤田嗣治の案により、名称を「文部省主催日本美術展第一回」とすることに決まる。東京滞在中、団子坂の湯沢三千男邸の世話になる。
9月20日、白山道場にて三郎の墓を参る。夕方より、出光邸にて歓談。湯沢三千男、公田連太郎、清水[光美?]中将ら同席。
9月21日、石井鶴三を訪ねるが、東京美術学校出勤中で留守。この時、鶴三の妹に会い、かつて山本鼎が彼女に失恋したことを思い出す。
9月22日、一雄を同伴して、ポプラ倶楽部の山崎喜作を江古田に訪ねる。夜、清水[光美?]中将を訪ね歓談する。
9月23日、一雄を同伴して、茨城県八俣の増田家を訪ねる。ここに疎開していた漫画家の池部鈞と遇う。
9月24日、増田氏にいろいろ頼みごとをした後、東京へ戻り、一雄と別れ、安明荘へ帰る。
9月26日、内嶋氏、八尾町の川崎順二が来訪する。
9月27日、川崎順二が赤倉に別荘を求めようとしているため、一緒に周辺の土地を見に行く。
9月28日、川崎順二が八尾町へ去る。
10月8日、川上氏への画帖《越後風土記》の制作にとりかかる。
10月10日、八尾町から林秋路が来訪する。
10月12日、新潟の展覧会に出品する「馬上の芭蕉」の制作にとりかかる。
10月17日、夜、千鶴子(二郎夫人)が、父である針重敬喜に送られて来る。
10月18日、針重敬喜と二郎が、元空襲の監視所であった山へ登りに行く。
10月21日、新潟の展覧会に出品する《水郷半日》が完成する。
10月23日、木下氏を同伴して新潟市へ行く。新潟日報社の坂口献吉社長・松井敬副主筆・堀内文化次長に会う。菊池屋に帰宿後、作品を表具師に渡す。
10月24日、朝、木下氏に送られ新潟を出発。孫たちが疎開する福島県安達郡八軒(現・二本松市油井八軒町)へ向かう。亡くなった遊佐家の老母、戦没した幸夫に焼香。疎開先にて久しぶりに孫らと会い、夜は、日光から来た相良敏三・相良英一ら義弟と語り合う。
10月25日、午前中、一雄・相良敏三・相良英一と共に鬼婆伝説ゆかりの黒塚(現・二本松市安達ヶ原4丁目)を観光。午後、遊佐家の告別式に参列する。
10月26日、一雄・相良敏三・相良英一・遊佐司郎(遊佐清司・フサ夫妻の子)と共に、稚児舞台(現・二本松市)を見に行く。
10月27日、朝、相良敏三・相良英一と共に安達を発ち、乗り換えの郡山駅で別れ、新潟へ向かう。
10月28日、夕方、第1回新潟県文化祭新潟美術展の審査打ち合わせに出席。安宅安五郎と初めて会う。
10月29日、午前中、第1回新潟県文化祭新潟美術展の審査会に出席する。午後、松井敬(新潟日報社副主筆)と共に丹呉康平宅(北蒲原郡中条町西条)に滞在中の會津八一を訪ねる。南画家の横尾翠田(深林人)も加わり、丹呉家にて会食。夜、松井はそのまま丹呉家に、小杉は中条で老舗の薬舗「桂屋」を営む渡辺庄輔宅に一泊する。
10月30日、會津八一に見送られ、正午の汽車で新潟へ戻る。松井敬と乗り合わせる。新潟市に到着後、再び菊池屋に投宿する。
10月31日、船で佐渡島へ渡る。本間旅館に投宿する。
11月1日、諏訪山に登り加茂湖を望む。歌人の渡辺湖畔を訪ね、二代常山[三浦常山?]作の急須を譲り受ける。
11月2日、新町の山本修之助(佐渡の俳人・郷土史家)宅にて昼食に招かれ、蕪村ら文人墨客の書画を貼りまぜた六曲屏風を見せてもらう。河原田の林儀太郎(商人)を1933年の佐渡旅行以来、久しぶりに訪ねる。すしか旅館に投宿する。
11月3日、町に出て、陶器を少し買う。この日、鷹見久太郎(思水)が茨城県古河で亡くなる。
11月4日、午前8時半に両津湾から汽船で出発、午前11時すぎに新潟市に到着。藤田氏に迎えられて宿に行った後、第1回新潟県文化祭新潟美術展(3~10日、主催:新潟日報社、会場:大和百貨店)を観る。夕方から宿にて児玉氏・松本氏と会食する。
11月5日、朝、新潟市を出発。昼すぎに安明荘へ帰宅する。大工の山本氏に泊まりこみで仕事をしてもらう。
11月6日、朝、摠見寺からの使いが支援物資を持参して来訪。午後、小川氏宅にて赤倉温泉地域の親和と利便を計る会合に出席する。
11月7日、午前中、佐渡島で世話になった人々へ贈る短冊を書く。東京で開催中の第1回日本美術院小品展(3~15日、日本橋・三越本店)同人作品すべてが、進駐軍慰問のため米軍に寄贈されることを新聞で知り嘆く。
11月、長男・一雄が早稲田大学文学部講師に就任する(1949年3月まで)。
11月17日、薪小屋が完成する。文芸誌『月明』を主宰する山崎斌と臼田氏らが来泊する。
11月18日、山崎斌ら去る。夕方、新田氏が来泊する。
11月19日、新田氏が去る。
11月25日、八尾町から川崎順二・小谷契月ら3人が来訪。川崎の別荘のため再び土地を探しに来た。
11月26日、川崎順二らが1300坪の土地を決める。
11月27日、川崎順二ら去る。
11月30日、新潟県高田市へ行き、中村氏に迎えられる。本町の吉田家を訪ね、安明荘厨房の水が通る土地を買い取りたい旨相談する。
12月1日、高田市より午前9時発の汽車で安明荘へ帰宅する。
12月2日、水戸市から佐藤晩香と小林(茂兵衛?)氏が来訪する。
12月4日、佐藤晩香と小林(茂兵衛?)氏が去る。
12月5日、三越の春掛画幅展へ出品する作品を描く。
12月7日、新田氏が来訪。藤田嗣治が渡米した話など聞く。
12月8日、新田氏が去る。
12月9日、松井敬(新潟日報社副主筆)が来泊する。古間村の棚橋一郎が芋など持ってきてくれる。
12月10日、二郎が上京する。百合が龍子を連れて来る。
12月11日、水谷清が来る。
12月14日、水谷清が去る。
12月18日、摠見寺の使いが来訪する。
12月23日、杉本白象(日本画家)が兵庫県から来訪する。
12月24日、杉本白象が去る。
12月25日、千鶴子(二郎夫人)とスキーを楽しむ。
12月26日、中村老が孫娘を連れて来泊する。
12月30日、石田氏に頼み迎春の準備を整える。
12月31日、二郎が安明荘に帰ってくる。
1946(昭和21)年 65歳 正月、《この国に よき日照る日を路ばたの 石になりても待たむぞおのれ》を書す。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
1月2日、百合・龍子・千鶴子(二郎夫人)とスキーで遊ぶ。
1月3日、スキーで遊ぶ。4枚のカンヴァスに地塗りをほどこす。
1月5日、《浦島》の素描にとりかかる。新田君が雪のなか来訪、一泊していく。
1月7日、原稿「美術国日本」を執筆する。
※雑誌『新世代』(新世代社)1巻2号(1946年6月) 寄稿の「美術日本」か
1月11日、夕方に水谷清が来る。
1月15日、午前中に書を書く。午後、高田市へ向かう。中村氏に迎えられ、丸山氏宅にて一酌。国友末蔵(中央電気工業株式会社技師)も来る。
1月16日、大嶋氏宅にて高田の文化人による会談に出席する。午後、写真家濱谷浩による、前年あった高田市の豪雪を撮影した初個展「濱谷浩写真作品展覧会 昭和20年豪雪記録」(16~20日、高田・いづも屋百貨店)を観る。夕方から料亭宇喜世にて、宇喜世主人・中村氏と3人で会食。そのまま一泊する。
1月17日、高田駅から帰途につく。国友末蔵が同車。田口駅到着後、国友に伴われて中央電気工業株式会社に立ち寄り、社長の丸山家嗣(正宗得三郎の弟)を紹介される。迎えにきてくれた石田君と安明荘へ帰宅する。
1月19日~2月9日、《浦島》の素描に苦労する。
2月1日、三男の三郎急逝以来、十五夜などの年中行事は止めにしていたが、前年に七回忌を迎え、敗戦国日本の習わしを保存していこうと、節分の豆まきを行う。東京から石田貞吉(銀座の芳美堂画廊経営者)が来訪、一泊していく。
2月10日、油彩画《浦島》の下塗りを行う。新潟市の松本氏、糸魚川の田村氏が来訪する。
2月11日、《浦島》の彩色にとりかかる。
2月13日、《浦島》の顔に苦労する。
2月14日、《浦島》が上手くいかず、中断する。2日後の上京のため小品を描く。夕方、一人でスキーをする。水谷清が来る。
2月15日、小品を描く。
2月16日、朝、二郎をともない汽車で出発。午後3時すぎ埼玉県本庄町(現・本庄市)に到着。持田善作に迎えられ、相澤氏宅に一泊する。
2月17日、帝国芸術院による第1回日本美術展覧会(日展)審査に向かうため、二郎と朝8時出発。午前9時すぎ上野駅に到着。二郎と別れ、三泊させてもらう予定の木村荘八宅を訪ね、荷物を置いてから再び上野へ戻る。午後3時に遅刻して学士院に到着、散会して帰るところだった会員に、翌日の審査会の時間を教えてもらう。荘八宅に戻ると、加山四郎が来ており、久しぶりに歓談する。
2月18日、第1回日展審査会に出席する。
2月19日、荘八宅へ硯工の福嶌老が来訪する。第1回日展審査会後の夕方、中川一政が来訪、荘八と3人で、終戦前に会って以来久しぶりに歓談する。
2月20日、午後、代々木山谷にある湯澤三千男邸(山内侯爵邸そば)を訪ね、三泊させてもらう。
2月21日、木村荘八宅で開かれた春陽会会員会に出席。石井鶴三・岡鹿之助・加山四郎・倉田三郎・中川一政・水谷清・田澤田軒ら集まる。夕方、湯澤邸へ戻る。一雄が来訪し、一泊していく。
2月22日、第1回日展審査会終了後、木挽町(現・中央区銀座)の出光佐三邸を訪ねる。出光が放菴のために東京の家を探してくれたが手に入らなかったため、新築を手配してくれたことを聞く。その後、湯澤三千男と新喜楽にて矢次(一夫?)氏の招宴に出席。矢次氏と田中屋へハシゴし、湯澤の同学で、以前その著書『鉄』(冬柏発行所、1942年)の装画を描いてあげた小日山直登と遇う。
2月23日、第1回日展審査会終了後、書を頼まれていた出光邸を訪ね、二泊させてもらう。
2月25日、湯澤三千男邸にて小杉放菴を囲む会が催される。木村荘八・公田連太郎・中川一政ら集まる。
2月26日、朝、出光邸から上野駅まで車で送ってもらう。二郎と汽車で出発し、午後3時近くに南蛇井駅(現・群馬県富岡市)に到着。吉田村郵便局2階にある岸浪百草居の疎開先を訪ねる。佐藤垢石もおり、夕方まで閑談。佐藤は下仁田町(現・甘楽郡)へ向かい、放菴は一泊する。
2月27日、朝、下仁田町へ向かう。常磐館にて佐藤垢石と合流。午後1時、鏑川を下って山に入り、蒔田(まいた)にある下山氏邸にて、伝統芸能の獅子舞を見せてもらう。
2月28日、岸浪百草居に高崎駅まで送ってもらう。佐藤垢石は前橋へ帰る。汽車の混雑に辟易しながら午後5時に田口駅到着。石田君に迎えられ、安明荘へ帰る。
3月4日、夜に突然39度の発熱、胸に痛みを覚える。
3月5日、37度台まで熱が下がり、来診に来た医者から肺炎の特効薬を注射され、12日まで安静にする。
3月13日、快復し、久しぶりに画室に入る。
3月14日、水谷清が百合と龍子を迎えにやって来る。
3月17日、朝、水谷清一家が帰る。夕方、一雄が来る。一雄が21日に帰るまでに、出光佐三の好意による三十坪の家の敷地として、ポプラ倶楽部の山崎喜作が所有する江古田の地所三百坪に決めたこと、8~9月頃に完成予定のこと、田端の地主加藤亀一郎へ地所返却の手紙を出したことなど聞く。
3月24日、中村医師が来診、天然痘の種痘を打ってもらう。
3月25~27日、長野県松本市へ旅行する。
(25日朝8時出発、汽車で松本駅へ向かう。関君に迎えられ、自動車で浅間温泉・西石川旅館へ移動。電話で知らせを聞いた末弟の小杉甲午郎もかけつける。25日朝、疎開中の石井柏亭一家を訪ねる。関君宅にて柏亭らと昼食に呼ばれる。午後、甲午郎宅を訪ね、姉ヤヲにも会い、信太郎の墓に参る。夕方、奈良井川畔で鱒を養殖している北原氏宅にて夕食に呼ばれる。27日朝8時宿を出発、関君・北原氏らに送られ帰途につく。田口駅にて石田君に迎えられ、安明荘へ帰宅。)
4月2日、《金太郎》素描にとりかかる。
4月4日、宮原明良が来泊。小杉も参加する新設の水墨画団体の団体名について案を乞われ、「平旦」か「墨心」を使うよう答える。
4月6日、郷倉千靱と中野(秀久?)が来訪する。
4月10日、石田君を伴い第22回衆議院議員総選挙へ行き、高田市で会った茨木一久と、地元の板倉治作へ投票する。
4月11日、長谷川木伴が来訪する。油彩画《金太郎》にとりかかる。
4月18日、油彩画《金太郎》がいったん仕上がるも、新しいカンヴァスがアブソルバンでないため、いまひとつ意に満たず、再制作を考える。
4月19~21日、尺八横の芭蕉図に苦労する。松本市の誰かのための作品。
4月20日、持田善作が来泊。
4月22日、《芭蕉 小夜の中山》が完成する。
4月23日、松本市から関君と北原氏が来訪。関君のみ一泊していく。
4月25日、木下君を伴い高田市へ行く。歯医者にて東京で作った義歯を修繕してもらう。午後2時から上越美術展の審査会(新潟日報支社)に出席。夕方、丸庄氏を訪ね、中村老に火災保険について依頼する。料亭宇喜世にて夕食。木下君と植木宿に一泊する。
4月26日、午前7時に木下君と宿を出発。中村老に見送られる。午前8時田口駅に到着、ちょうど乗り込むところだった二郎と石田君に遇う。安明荘に帰宅する。
4月27~29日、油彩画《金太郎》を再制作するもやはり気に入らず、先に制作したほうの《金太郎》に背景を加筆して描き進めることにする。
4月30日、油彩画《金太郎(舌出し金太郎)》が完成する。
5月2日、お瀧が縁談のため一時帰郷する。
5月3日、石田貞吉が来訪、一泊していく。
5月7日、扇面画《続本朝道釈》の制作にとりかかる。
5月11日、《金太郎(舌出し金太郎)》に少し加筆する。お瀧が郷里から戻り、秋に結婚が決まったとの知らせを聞く。
5月15日、《続本朝道釈》全6図が完成する。第23回春陽会展出品作品。
5月16日、午前中、赤倉の東にある郷田切の谷まで下り、山菜(こごめ、うど)をとる。午後、八尾町から川崎順二と玉生(孝久?)氏が来訪、二泊していく。
5月17日、朝、安土から拾得氏が来訪。午前中に川崎順二と池の平を散歩する。夕方、宮原明良と中川一政が、平旦社について小杉に相談するために来訪、一泊していく。
5月18日、朝、中川一政と川崎順二ら帰る。宮原明良はもう一泊していく。
5月19日、午後、二俣山へ蕨とゼンマイを採りに行く。
5月20日、朝、吉田氏が来訪する。彼の父、吉田磯吉と小杉は一面識あり。この日、短歌の同人誌『乗合船』第貳輯(京都市・甲文社内乗合船発行所)が刊行となる。
5月21日、午前中に松本市の関君と松林氏が来訪。関君のみ一泊していく。
5月22日、午後、二俣山へ蕨採りに行く。
5月23日、新田氏が来訪する。
5月24日、小杉の上京にそなえ、一雄が来る。中川老(中川一政?)が来訪する。
5月28日、一雄と朝8時15分出発、午後5時頃に上野駅に到着。一雄と別れ、しばらく岸浪百草居宅を訪ねる。宮原明良もおり、平旦社に水越松南が参加したことなど聞く。
5月、第23回春陽会展(29日~6月6日、三越)に《金太郎》《続本朝道釈》を出品する。 ※《続本朝道釈》は現在、出光美術館蔵
5月29日、朝9時出発、二郎と宮原明良をともない、三越の第23回春陽会会場へ行く。出光佐三・公田連太郎・持田善作・湯澤三千男や、三越の美術部長横山氏・新田氏らに会う。午後2時すぎ、岸浪百草居宅へ戻る。
5月30日、木挽町の出光佐三邸を訪ね、前日に出光が春陽会会場で売約した作品2点が春陽賞に選ばれたことを報告する。小玉(邦雄?)より芳菊亭の昼食に招かれる。小玉が手がけた「良寛に三十歌」画冊を見せてもらい、感心する。小玉と岸浪百草居宅へ戻り、その画冊のばつ文として良寛小唄を書き与える。小杉の帰りを待っていた右文堂の久保氏と随筆集について打ち合わせをする。
5月31日、髙島屋の小品を制作する。湯澤三千男邸に一泊する。
6月1日、朝、岸浪百草居宅へ戻る。
6月3日、東京帝室博物館にて同館美術課長で、前年空襲に遭い亡くなった溝口禎次郎の遺品展を観る。春陽会会場に寄り、三越の社長から昼食に招かれる。午後3時百草居宅に戻る。夕方、湯澤三千男が来訪する。
6月4日、朝、中西悟堂が来訪、山形疎開の話を聞く。午後、再び中西悟堂、佐藤垢石、川口氏、新田君、長豊君ら相前後して来訪する。
6月5日、午前中に《弥次郎兵衛》を描く。二郎が来る。昼過ぎに中川一政を訪ねるも留守だったため、熊谷の森田恒友遺作展で催される講演会について、中川夫人にお願いして帰る。
6月6日、朝6時半出発。上野駅から一雄をともない午前9時40発の汽車に乗車、宇都宮駅で乗り換え日光へ向かう。途中、今市駅で義弟の相良英一が同乗。午後2時すぎに七里の相良家に到着。義妹のミツ、相良ヒサ(妻の弟・相良英一の妻)と会う。義弟の相良敏三も清滝から、小杉のために旅行用スーツケースを持ってきてくれる。
6月7日、朝食後、相良敏三をともない丸美へ向かう。従兄の小杉伴作が逝去した後も庭の掃除が行き届いていることに感心する。小倉山の旧実家を通り、五百城文哉の墓参後、梅屋敷に中村老夫妻を訪ねる。国府浜家の墓参後、午後1時頃に七里へ戻る。
6月8日、朝7時半の汽車で帰途につく。今市まで相良英一が同乗。午前11時頃上野駅に到着。時間が余ったので、山中蘭径を訪ねる。午後、上野駅にて石井鶴三・木村荘八・中川一政らと合流し、3時半発の汽車で埼玉県へ向かう。午後5時熊谷市に到着、持田善作に迎えられ、魚勝旅館に一泊する。30数年前に横山大観と隅田川絵巻を制作したときに利用した旅館であった。
6月9日、昼食後、熊谷寺に寄り、農学校の森田恒友遺作展会場へ行く。小杉、木村荘八、中川一政、石井鶴三の4人が講演。小杉以外の3人はその日のうちに帰京。東京から来た二郎と合流。夜、熊谷・深谷・本庄の人たちによる放菴会が作られるということで集まりがある。
6月10日、朝、持田善作に見送られ、帰途につく。午後2時頃に田口駅到着。安明荘へ帰る。
6月14日、お瀧と一緒に弁当を作り、二俣山へ山菜採りへ行き、牧場ちかくで昼食を楽しむ。
6月16日、木下君による『月刊新潟』インタビューを受ける。
6月19日、北陸信越展鑑査へ行く途中、中村老からの誘いにより高田市にて一泊。夕方から料亭宇喜世にて主人と中村老と会食する。
6月20日、午前中に図書館へ行く。東京パンの大嶋氏宅にて昼食。大嶋氏と中村老に見送られ、正午の汽車で出発。午後5時すぎに新潟駅に到着。篠田旅館にて、鑑査委員の郷倉千靱、山形から来た山口蓬春、高村老に会う。夜、児玉氏が来る。
6月21日、小林デパートにて北陸信越展鑑査に出席。伊太利軒にて昼食。夕方、新潟県の会食に他の鑑査委員たちと共に招かれる。
6月22日、郷倉千靱と共に朝6時帰途につく。午後1時すぎ安明荘に帰宅する。
6月23日、持田善作が来訪、二泊していく。
6月24日、宮原明良が来訪、一泊していく。岸浪百草居の眼病の病状を聞き、胸を痛める。
6月26日、松本市から関君ほか来訪、一泊していく。
6月28日、高田市から大嶋氏やカメラマンが3名取材に来て、写真を撮られる。出雲崎の佐藤垢石が来訪。前日に石田君夫人病死を聞き、哀れむ。
6月29日、関尚美堂の子息が来訪、一泊していく。二郎が来る。
7月、月刊『つり人』創刊号から、約1年間、小杉が書した題字が使われる。小杉は、同誌を創刊するために起ち上げられた「つり人社」の顧問になっていた。関係者は次の通り。社長=川井正男(表面的には西島勇吉)、主幹=佐藤垢石、顧問=麻生豊・岸浪百草居・小杉放菴、嘱託=東明行彦、編集=鈴木晃・志村秀太郎。
7月4日、増田氏が来訪、三泊していく。
7月5日、二郎・千鶴子夫妻が安明荘を出て、東京へ発つ。前年に引き続きおふみが女中として来る。
7月6日、増田氏のために《芭蕉騎馬像》を描く。
7月9日、新田氏が来訪、二泊していく。
7月10日、新井町(現・妙高市)の岩沢(あるいは岩津)医師が来訪する。手土産の鮎を夕食とする。
7月16日、持田善作が来訪する。
7月19日、午後2時発の汽車で新井駅へ向かう。岩沢医師宅に立ち寄るも、往診のため不在。和田村国賀(現・妙高市国賀)の旧家である餞村老宅を訪ね、一泊する。
7月20日、餞村老とバスでわきの田の水谷家を訪ねる。昼食を馳走になり、午後1時すぎの汽車で帰途につく。
7月21日、午前に篠井の丸山氏が、午後に新井町(現・妙高市)の新・旧署長と岩沢医師が来訪する。
7月26日、二郎が来て二泊していく。
7月28日、江古田に新築する家の上棟式が明日行われるとの通知があり、帰京する二郎に立ち会ってもらうことにする。
7月30日、中西悟堂の「鳥の本」の装画を描く。
※1947年6月刊『鳥を語る』か
8月2日、秋の平旦社展へ出す《胡馬》素描。
8月4日、《胡馬》素描。
―― 夏、写真家の濱谷浩が来訪、撮影される。《胡馬》素描制作中の様子か(のちに『學藝諸家 濱谷浩写真集』岩波書店,1983年に掲載)。
8月5日、これまで作った短歌をまとめる。一雄が長男の正太郎を連れてくる。
8月8日、二郎が人足を手配し、安明荘のそばに池を掘る。孫の小二郎が疫痢にかかり危篤という電報が届いたため、一雄が急ぎ疎開先の福島県安達郡(現・二本松市)へ向かう。
8月9日、池に地下水がだいぶたまる。
8月10日、一雄から小二郎が快復したとの電報が届き、安堵する。
8月12日、松本市から関君が来訪、一泊していく。夜、皆で月見を楽しんでいるところに、百合が、龍子を連れてやって来る。龍子があまりに正太郎に会いたがるため連れてきた。
8月13日、水川君が来泊。孫ら5人で旧盆の迎え火を焚く。
8月19日、写真家の岡田紅陽が来訪。高田市から木村(秋雨?)和尚とパン屋の某氏の2人が来訪、二泊していく。
8月25日、甥の小杉良和が来泊する。
8月27日、山本大工さんによる画室の書棚(三尺✕五尺)が完成。絵の参考書や、上田市の赤松(新?)から貰った『世界美術全集』などを並べる。新田君が来泊。蘇峯所蔵『二十四史』を5000円で入手する。
8月29日、富山県八尾町の川崎順二が来訪、一泊していく。
8月30日、午前8時に川崎順二をともない出発。八尾町へ向かう汽車の中で、富山市の空襲跡を見る。
8月31日、八尾駅周辺でコレラ患者が出たとの騒ぎを聞く。
9月1日、おわら風の盆祭り始まる。前日のコレラ騒動は腸カタルだったと聞く。午前中に民謡詩人の小谷契月を訪ね、共に町を歩く。夜、聞名寺にて踊りを見る。
9月2日、この日に帰る予定だったが、汽車があまりに混んでいたため翌日へ変更。午前中一人で城ヶ山公園へ行き、初秋の立山などを眺める。夕方から午後10時まで聞名寺にて五組の祭りを見物。壺中庵(川崎順二邸)にて清水氏(清水澄帝国芸術院長の子息、富山高等学校校長)に会う。
9月3日、朝、熊野氏に送られながら帰途につく。富山行のバスに清水氏が同乗。午前9時半発の汽車に乗り、安明荘へ帰る。午後3時すぎ、佐藤晩香が来訪。三泊していく。
9月4日、佐藤晩香のための絵を描く。
9月5日、青磁社から再刊を予定している『唐詩及唐詩人』の校正をする。一雄が東京から戻る。安土から拾得氏が来訪する。
9月6日、夜、二郎・千鶴子夫妻が来て、しばらく滞在する。
9月7日、早朝、一雄と正太郎、おたきさんと一緒に帰る。
9月8日、屏風《胡馬》素描。
9月10日、《胡馬》素描。
9月12日、《胡馬》素描。
9月13日、千鶴子が先に帰京し、二郎は自転車の模型作りを続ける。清泉堂のための絵を描く。
9月14日、岩沢(岩津?)博士が来訪、一泊していく。
9月16日、馬を描き始めるも苦労する。満洲から引き揚げてきた箱崎氏が来訪、安山の惨状を聞く。
9月21日、屏風に石を描く。馬を描くのは断念する。午後、宮原明良が来訪、一泊していく。
9月22日、午後、川上氏が来訪、一泊していく。
10月2日、ちよ女が来る。平旦展への出品画に苦労する。後赤壁の連作を描き始める。
10月8日、山本鼎が長野県上田市で亡くなる。小杉のもとへもすぐ知らせがあり、深く悲しむ。
10月10日、山本鼎の葬儀に行けないため、石田君に代わりに行ってもらう。
10月14日か、朝6時発の汽車で長野県上田市へ向かう。赤松新を訪ね、馬場町へ山本鼎の焼香へ行く。大輪寺にて鼎の家族、弟の北原義雄らと初七日法要に参列する。赤松宅に一泊する。
10月15日、宮原明良から平旦展延期との電報と手紙が届く。
10月16日、午後に宮原明良が来訪、二泊していく。夕方に山崎氏が来訪、一泊していく。
10月17日、宮原明良と平旦社について相談する。夕方、一雄が安藤更生(早稲田大学講師)を連れ来て一泊する。
10月19日、一雄が新潟市から帰ってくる。
10月29日、夜、拾得氏が安土の松茸を土産に来訪、一泊していく。
10月30日、二郎が東京へ行く。
10月31日、《芭蕉翁詩境十二題》が完成する。
11月2日、新たな試みとして、鳥の子和紙に南瓜を描き始める。
11月3日、日本国憲法が公布され、「天子みづから天子の権の去りたるを宣る 悲むは愚なり 悲しまざるは人にあらず 人にあらざるより愚人なる方せめてましならん 愚人にならざらんとして人は競ふて人ならざる人たらんとす」と日記に記す。
11月4日、鳥の子和紙への制作に苦労する。
11月10日、中頸城郡九ヶ村の品評会で、小杉が育てた南瓜が三等賞となる。午前中、妻と石田君をともない白田切向こうの山へ行き、クマヤナギやムラサキシメジなどを採る。午後、角田君が来訪する。
11月14日、午後3時、君津氏の自動車にて新井町(現・妙高市)での宴会に招かれ、一泊する。
11月15日、朝、増井氏宅にて良寛の六曲一双屏風など見せてもらい、感心する。自動車で安明荘まで送られる。
11月17日、旭谷(画商の正治郎?)氏が来訪する。
11月20日、中村氏が来訪する。
11月22日、一雄が来て、しばらく滞在する。
11月25日、《蔵々の村》(素描)を描く。蔵々は妙高高原駅北東の地名。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
11月27日、中野区江古田の新居が翌月竣工予定と聞く。
11月28日、朝、一雄が帰る。
11月30日、夕方、岩沢(岩津?)氏と署長が来訪する。岩沢(岩津?)氏氏のみ一泊していく。
12月3日、関君が来訪、一泊していく。
12月4日、午後、新泉クラブ会に出席する。
12月、第10回珊々会展(4~7日、日本橋髙島屋)に、扇面六連作《後赤壁》を出品する。
12月5日、関尚美堂の子息が絵を取りに来る。
12月7日、油彩画《南瓜》にとりかかる。
12月8日、右下の歯が痛みだし、しばらく続く。
12月10日、夜、二郎・千鶴子夫妻が雪のなか来る。
12月21日、二郎が東京へ行く。
12月22日、村の畑山助役が来訪する。
12月23日、歯の痛みがだいぶ良くなる。
12月26日、大腸カタルにかかり、中村医師の来診投薬を受け、大晦日まで安静にする。
12月30日、夜、二郎が上野駅から高崎・軽井沢・長野と乗り換え、14時間かけて安明荘へ戻ってくる。
―― 年末、出光佐三の好意による新居が東京都中野区江古田4丁目に完成する。
―― この頃、長男の一雄一家が疎開先から東京へ戻り、東秋留村(現・あきる野市)へ転居する。
1947(昭和22)年 66歳 1月4日、夕方、茨城県笠間町(現・笠間市)の小林(茂兵衛?)氏が来訪、二泊していく。
1月6日、夜に一雄が来て、孫たちの様子を聞き会いたくなる。
1月7日、《浦島》素描。
1月14日、一雄が東京へ帰る。岩沢氏・飯田氏が来訪、一泊していく。
1月15日、長谷川君が来訪、一泊していく。
1月18日、《浦島》素描が大体出来上がる。
1月20日、岩沢氏から貰ったイカルが時々おぼつかなく鳴くのを聴く。
1月22日、油彩画《浦島》にとりかかり、初めて黒い背景を試みる。
1月28日、油彩画《浦島》が満足な出来とならず、未完に終わる。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
1月30日、『唐詩及唐詩人』上巻(青磁社)を刊行。1939年に出版した同名書の再版。
1月31日、中国の山水人物8図から成る《曾遊江南画冊》にとりかかる。
2月1日、《曾遊江南画冊》の制作にとりかかる。
2月4日、倉科氏宅にて節分の豆まきをする。
2月8日、夜、一雄が来る。
2月10日、午後、一雄とスキーで遊ぶ。
2月16日、《曾遊江南画冊》が完成。第24回春陽会展出品作。
2月17日、一雄が東京へ帰る。
2月20日、江古田の新居へ少しずつ荷物を送る。
2月22日、山崎斌(染織家・出版人)が来訪、一泊していく。『酒百首』の原稿を渡す。
2月、第24回春陽会展(24日~3月7日、東京都美術館)に《曾遊江南画冊》を出品する。 ※現在、出光美術館蔵
3月1日、昼頃、一雄が来る。
3月3日、一雄と白田切向こうでスキーを楽しむ。少し足を痛める。
3月4日、午前8時に一雄をともない出発、長野駅で乗り換え、午後1時すぎに松本駅に到着。松本市白坂にて姉ヤヲと会い、元気な様子に安心する。夕方から、割烹松本館にて太田氏司会による放菴を囲む会に招かれる。等々力氏と初めて会う。
3月5日、午前8時に一雄をともない出発。関君も同行。北原氏・等々力氏に見送られる。隣の車両に石田君も同乗。午後5時頃に新宿駅を経て、午後6時頃江古田の新居に到着。石田君はしばらく滞在し、一雄と関君はこの日帰る。持田善作が来訪、一泊していく。
3月6日、第24回春陽会展会場へ行く。
3月7日、第24回春陽会展会場へ行く前に、木挽町の出光佐三邸を訪ねるも不在。午後1時から神田須田町「いせ源」で開かれた春陽会会員会に出席。加山四郎の意見により、春陽会は今後一切日展には出品しないことが決議される。
3月8日、中川一政が病気で寝込んでいると聞き見舞いに行くも、元気だったので安心する。次に岸浪百草居を訪ね、眼病の治療が難しいことを聞く。
3月9日、石田君と加藤君に手伝ってもらい、江古田の新居の庭を片付ける。午後、地主である山崎喜作が堀野氏をともない来訪。堀野氏から植木をもらうことにする。
3月10日、おちよが来る。石田君が新潟へ帰る。夜、一雄が来て泊まっていく。
3月11日、朝4時に二郎が諏訪へ発つ。午前中、一雄と玄関前を片付ける。水川君が来て硝子窓に紙を張っていく。
3月12日、午前中に湯澤三千男を訪ねる。夕方、山崎喜作と堀野氏が来訪、庭の植木をいろいろ見立てていく。
3月17日、午後、岸浪百草居と公田連太郎が来訪、久しぶりの歓談を楽しむ。
3月20日、清泉堂など、2人の表具師が来訪する。
3月21日、相沢氏が来訪する。
3月22日、千鶴子(二郎夫人)が風邪気味のため、おちよの家からとも子を呼ぶ。
3月24日、一雄が来て、泊まっていく。
3月25日、一雄に連れられ、一雄一家が住む秋留(現・あきる野市)へ行く。二宮(現・あきる野市二宮)に中西悟堂を訪ねるも不在。名古屋から来た丸山氏と会う。一雄宅に二泊する。
3月26日、中西悟堂・丸山氏・森田氏と汽車で五日市町(現・あきる野市五日市)へ向かう。御岳山や馬頭刈山など眺める。午後、西秋留村に牧野(吉晴?)氏を訪ねる。美術論を執筆中で小杉と川合玉堂が純日本筋の画家との説を聞く。夕方、一昨年世話になった布佐の田村家を訪ねる。
3月27日、一雄一家に見送られ、中西悟堂・丸山氏と拝島駅から帰途につく。放菴のみ中野駅で下車、木村荘八宅に寄った後、午後3時すぎ江古田の新居へ帰宅する。
3月28日、湯澤三千男を訪ねるも不在。おちよが来訪、二郎の自動車会社のこと、今度は蓄音機を発明しようとしていることを聞く。
3月29日、岩田氏宅に招かれる。山崎喜作、千葉から来た永井準一郎と久しぶりに会い、懐かしむ。
3月31日、妻ハルを、二郎が安明荘まで迎えに行く。
4月3日、小石川の茗渓館にて小玉久爾夫の宴に招かれる。岸浪百草居も同席。
4月4日、神田小川町に新築された相沢氏邸を訪ねる。2階を土井氏が主任を務める美術工芸ますや陳列場にする計画について相談を受ける。
4月6日、昼過ぎ、一雄が正太郎を連れて来る。夕方、二郎に連れられ、妻ハルが赤倉から到着。一雄と2人で東秋留村の一雄宅へ行き、二泊する。
4月7日、朝、中西悟堂を訪ね、牧野(吉晴?)氏らと汽車で日向和田駅(現・青梅市日向和田)へ移動。吉野梅林(現・青梅市梅郷)の花見を楽しむ。
4月8日、一雄に送られ、江古田の新居へ帰る。
4月10日、午後、妻ハルと哲学堂公園(現・中野区松が丘)の池を散歩する。
4月11日、午前中に出光佐三を訪ねる。中川一政個展(4月9~17日、三越)を観る。
4月12日、安土から拾得氏が来訪、鐘楼建立費のための絵2枚を渡す。妻ハルと千鶴子(二郎夫人)をともない、千川堤(江古田~練馬の千川上水沿い)へ花見に行く。
4月15日、湯澤三千男が来訪する。
4月17日、午前中に石川宰三郎(元『美之国』主宰、3月26日没)宅へ弔問。第21回国画会展(4月12~28日、東京都美術館)を観て帰る。
4月18日、午前中、拝島駅にて一雄と落ち合い、五日市町へ向かう。光巌寺(現・あきる野市戸倉)境内にて桜を写生する。午後2時まで写生後、五日市町へ戻り、バスで東秋留村へ移動、中西悟堂宅を訪ね、夕方まで歓談する。一雄が東秋留村の借家を5月いっぱいまでに退去するよう大家から言われたため、孫たちに不自由させないためにも江古田の新居を一雄たちへ譲ることを考える。
4月19日、午前中、一雄・中西悟堂と3人で滝山城址(現・八王子市高月町)を見物。午後、江古田の新居へ帰る。
4月21日、午後、春陽会の新会員・会友を迎える会に出席する。
4月22日、午前9時40分東京駅発の汽車で出発。神奈川県箱根町宮ノ下の平田邸を訪ねる。
4月23日、電車と小湧谷バスを乗り継いで元箱根へ向かい、箱根元宮などを見物する。関君が来る。
4月24日、江古田の新居へ帰る。
4月25日、松本市の等々力氏が板塀の材料を持って来る。福生町(現・福生市)の田村氏が歌のお礼として酒を持って来る。初ひなと清泉堂主人に車で迎えられ、代々木の初ひなで昼食に招かれる。湯澤三千男も同席。
4月26日、品川の出光邸にて催された木公会に出席。岸浪百草居・公田連太郎・湯澤三千男らが同席する。
4月27日、午後、石井鶴三にともなわれ、第15回日本版画協会展(4月20~28日、東京都美術館)の山本鼎の遺作陳列約10点を観た後、博物館喫茶室で催された山本鼎追悼座談会に出席し、渡欧時の思い出話などする。
4月29日、午後、岸浪百草居・公田連太郎が来訪、歓談する。
4月30日、出版されたばかりの東久邇宮稔彦『私の記録』(東方書房、1947年)を読む。
5月3日、新憲法の公布を気にする。
5月4日、加藤君が来て、新居の板塀を作り始める。
5月5日、午前中に出光佐三が来訪。午後、髙島屋へ相沢氏を訪ねる。
5月6日、木村荘八を訪ね歓談、参考書を借りる。
5月8日、午前中、妻ハルと龍雲院白山道場(現・文京区白山5丁目)にて三郎の墓参りをする。午後、妻と共に、一雄一家がいる東秋留村(現・あきる野市)まで二郎に送ってもらう。中西悟堂と会う。
5月9日、一雄に送られ、拝島駅から朝7時発の汽車に乗り、高崎駅で信越線に乗り換え、午後6時すぎ田口駅に到着。県議の選挙応募中に事故で亡くなった木下氏を弔問後、安明荘へ帰る。以後はここを住まいとし、ときどき江古田の家に滞在する生活を送る。これにともない、一雄一家が東秋留村の借家から、江古田の小杉邸へ転居してくる。
5月12日、おちよが安明荘から帰る。
5月31日、午前中に中村老が来訪。午後、岩沢氏、新井署長、町長など7名が来訪する。
6月2日、関君と川崎(順二?)氏が別々に来訪、ともに二泊していく。
6月3日、川崎(順二?)氏・関君と二股山へ蕨採りに行く。
6月5日、《銀鶏春光》の制作にとりかかる。午後、佐原氏が来訪する。
6月13日、《銀鶏春光》が完成する。
6月14日、井田医師と白田切の谷へフキ、ギンブキなど山菜採りに行く。帰宅すると内嶋氏が来訪しており、一泊していく。
6月17日、佐藤氏が来訪、一泊していく。百合が龍子と高橋キミ(放菴夫人の末妹、栃木県川治在)を連れて来、しばらく滞在する。
6月19日、弁当を用意して、皆で田口山(現・妙高市田口)の方へピクニックに行く。
6月21日、高橋キミが川治から預かってきてくれた夜具や結城紬などのお礼として絵を3点用意する。
6月24日、高橋キミが栃木県川治へ帰る。夕方、石田君が東京から戻り、川越のさつま苗など持ってきてくれる。
6月27日、水谷清が妻子を迎えに来、二泊していく。
6月29日、朝、水谷清・百合・龍子が一家で帰る。午後、画商の関長次郎(関尚美堂)の子息(関慶三郎?)が来訪する。
7月5日、夕方、一雄が正太郎を連れてやって来る。
7月9日、午前中、高田市へ日帰りで行く。写真家濱谷浩の第2回個展「越後の七人の芸術家」(6~9日、第四銀行高田支店3階)を観る。5月の新潟市・小林百貨店会場を皮切りに新潟県内を巡回していた展覧会の第3会場。小杉のほか、會津八一、相馬御風、堀口大学らの写真あり。大嶋氏宅にて弁当を食べ、大嶋氏・中村氏をともなって堀口氏を訪ねる。
7月11日、福井県三国港の松田君が来訪、一泊していく。
7月12日、大原君が来訪する。
7月15日、一雄のみ東京へ帰る。正太郎は夏休みのあいだ安明荘で預かる。
7月21日、午前8時、石田君をともない出発、午後5時上野駅を経て、午後6時江古田の一雄宅に到着する。
7月22日、髙島屋の人が来訪する。
7月23日、小玉久爾夫、宮原明良が来訪。小玉が描いた《一茶おらが春》の連作を見せてもらい、感心する。
7月25日、洗心書林の松下秀麿と大鹿卓が来訪、『随筆帰去来』の原稿と挿絵を渡す。午後4時から出光佐三の新宿の社宅で催された木公会に出席。東久邇宮稔彦が来会。この日は岸浪百草居宅に一泊させてもらう。
7月26日、岸浪百草居をともない、京橋の桜井氏、神田のますやなどまわり、相澤氏宅にて昼食に呼ばれる。帰宅すると小玉久爾夫が来ており、百草居と3人で飲みふける。
7月27日、清泉堂が来訪する。
7月28日、二郎をともない埼玉県浦和市の故倉田白羊宅を訪ねる。針重敬喜も静岡から来る。おひで(白羊夫人)に会い、子息の平吉がハバロフスクに連れて行かれてから消息不明であることを聞く。
7月29日、一雄に送られ、午後5時すぎ田口駅に到着。正太郎が駅まで迎えに来てくれる。安明荘へ帰宅。
7月30日、安明荘から下の方にある谷へ、妻ハル・一雄と3人で川魚を採りに行き、カジカ30匹をとる。
8月5日、松本旅行への迎えのため関君が来訪、一泊する。
8月6日、朝8時に関君をともない出発、長野駅で乗り換え、松本駅へ向かう。松本古書店にて『金史』など購入後、浅間温泉菊之湯に投宿。中野氏が来訪する。
8月7日、朝、石井柏亭が宿へ来訪。午前10時、関氏・中野氏とハイヤーで出発、途中市外で松林氏と合流、4人となる。午後2時頃に上高地(梓川の渓谷)の温泉旅館に投宿する。
8月8日、午前中に明神池や穂高神社奥社を、午後は田代池を散歩する。
8月9日、ハイヤーで松本市へ向かい、午後3時に到着。末弟の小杉甲午郎を訪ね、78歳になった姉ヤヲや、生まれたばかりの甲午郎の孫の顔も見る。
8月10日、午前6時帰途につく。関氏・中野氏に送られ、午後1時頃に安明荘へ帰宅する。
8月16日、午前7時半の汽車で出発。高田駅にて同行の石田三兄弟と別れた後、青山氏・中村氏と頸城鉄道株式会社を訪ね、社長の好意で行列に並ぶことなくバスに乗る。浦川原(現・上越市)で迎えのハイヤーに乗り、松之山温泉凌雲閣(現・新潟県十日町市松之山天水越)に投宿。十日町の佐藤氏・瀧沢氏が来て同宿する。
8月17日、午前中、浦田口の村山氏を訪ねる。
8月18日、十日町の有志2名が来訪、凌雲閣主人で県会議員である嶋田氏も交え歓談する。早めの昼食をとり、バスと汽車で帰途につく。池尻、高田を経て、午後10時すぎ安明荘に帰宅。甥の小杉良和が前日から来ており、もう一泊していく。
8月20日、斎藤弔花が石塚三郎(歯学者)と共に来訪。久しぶりの再会を喜ぶ。
8月21日、午後、斎藤弔花を赤倉高田館へ訪ねる。紫安新九郎もいた。弔花から、野口英世伝を執筆中であること、翌日福島県猪苗代にある野口の実家を訪ねる予定であることを聞く。石塚三郎は野口英世の友人だった。
8月23日、午後、新赤倉温泉組合発会式に出席する。
8月26日、夕方、一雄が正太郎を迎えに来る。翌年刊行される『放菴画選』の相談のため、原稿を持ってきた藤本韶三(『三彩』誌主宰者)も同行、二泊していく。
8月27日、午後、藤本韶三をともない松林桂月の赤倉別荘を訪ねる。桂月の画室から野尻湖を眺める。夜、松田氏が来訪、一泊していく。
8月30日、一雄と正太郎が帰京し、寂しくなる。
8月31日、中丸氏・丸庄氏が来訪する。
9月14日、昭和天皇の行幸にあたり、25日の夕御前に會津八一と良寛についての座談会を新潟県から依頼される。亡父が知ったら泣いて感激するだろうと思い、引き受けることを約束する。
9月18日、昭和天皇御前座談会のため、新潟市から松本氏が打ち合わせに来訪、一泊していく。カスリーン台風の影響により天皇行幸が延期になったことを聞く。
9月24日、郷倉千靭を訪ねる。
9月25日、亡父・小杉富三郎の月命日がお彼岸と重なったため、赤飯を炊いて供う。
9月29日、松本市から関君が来訪。墨心会展(松坂屋)へ出品する俳人群像が完成する。清水澄帝国芸術院長が9月25日に自殺した知らせを聞き、悲しむ。
9月30日、石田君が畑用の肥だめをセメントで作ってくれる。
10月1日、昭和天皇御前座談会の件について、新潟県庁職員たちが會津八一を怒らせ欠席となったため、小杉も辞退することに決める。
10月3日、石田君に墨心会展へ出品する2点を東京まで届けてもらう。
10月7日、古川氏が来訪する。
10月12日、個展に出品する小品が9点たまる。夕方、児玉県会議長と松本氏が来訪、一泊していく。
10月1日、昭和天皇御前座談会の件について、新潟県庁職員たちが會津八一を怒らせ欠席となったため、小杉も辞退することに決める。
10月3日、石田君に墨心会展へ出品する2点を東京まで届けてもらう。
10月7日、古川氏が来訪する。
10月12日、個展に出品する小品が9点たまる。夕方、児玉県会議長と松本氏が来訪、一泊していく。
10月13日~18日 「春陽会秋季小品展」が開催される。
10月13日、午後、高田市の吉田氏が牟礼の丸山医師を連れてくる。
10月20日、一雄が来て、しばらく滞在する。大坪氏、佐原氏が来訪、佐原氏は一泊していく。
10月22日、この4~5日間苦労した《不動尊》が完成。翌月の個展出品作。
10月23日、一雄と妻ハルが田口山へムラサキシメジやアケビなど山菜採りに行く。
10月24日、《奥の細道(芭蕉と曾良)》が完成。翌月の個展出品作。
10月28日、帰京する一雄に個展出品作11点を持っていってもらう。午後、妻ハルと幸雄をともない田口山へ行く。
10月29日、安土から拾得氏が松茸を土産に来訪する。
10月30日、岡山県から片山君(二郎の学友)が新聞社主催展の相談のため来訪する。《酔李白》が完成。翌月の個展出品作。
11月2日、《市振》が完成。この月の個展出品作。
11月3日、旧天長節のため、玄関に日の丸を下げる。
11月6日、三郎の命日のため、夜、妻と仏前でお経をよむ。
11月10日、個展に出品する全15点の制作が完了する。
11月11日、石田君に残りの個展出品作品を東京まで持っていってもらう。
11月15日、山中氏と約束した岡山新聞のための作品を仕上げる。
11月16日、石田君をともない午前8時の汽車で出発。途中、直江津にて2時間待ちの時間が出来たため、川端夫妻の官舎に立ち寄る。午前11時乗車、犀潟駅にて石田君と別れる。午後2時頃宮内駅(新潟県長岡市)にて下車、一泊する。
11月17日、前日に合流した松本氏らと上越線に乗り、午前11時頃塩沢駅(現・南魚沼市塩沢)に到着。鈴木氏の工場を訪ね、宿屋にて昼食。午後、『北越雪譜』で知られる鈴木牧之の旧宅にて、町の文化人たちと語り合う。このうち4人ほどと一緒に汽車で湯沢温泉(現・南魚沼郡湯沢町)へ移動し、投宿する。
11月18日、朝8時東京へ向け出発。遠藤氏が上野駅まで同行。夕方、江古田の一雄宅に到着。二郎夫妻はすでに阿佐ヶ谷の新居へ移っていた。
11月、個展「小杉放菴個展」(18~22日、東京日本橋・髙島屋)を開催。《佗び人(四季)》《大伴旅人》《醉李白》《奥の細道》《市振》《寒山拾得》《坊が妻》《南泉斬猫》《不動尊》《仏誕》《竹取翁》《山人有酒》など紙本淡彩の人物画15点を発表する。
11月19日、前日から始まった日本橋髙島屋の個展会場へ行く。来場した岸浪百草居・木村荘八・小玉久爾夫・田澤田軒・宮原明良・湯澤三千男らと会う。
11月19日、前日から始まった日本橋髙島屋の個展会場へ行く。来場した岸浪百草居・木村荘八・小玉久爾夫・田澤田軒・湯澤三千男・宮原氏らと会う。
11月20日、『唐詩及唐詩人』下巻(青磁社)を刊行する。
11月20日、千鶴子(二郎夫人)をともない、第3回日展(10月16日~11月20日、東京都美術館)を見に行く。伊東深水の美人画はこの年官展一の収穫と感心。また再興第32回院展に出品された安田靫彦の《王昭君》は、この年日本一の作と称賛する。
11月21日、髙島屋の関君と等々力氏に会う。関君に江戸川まで送られ、江古田へ帰る。
11月22日、小石川後楽園にて巨人軍の野球試合を観覧する。
11月23日、湯澤三千男と能見物の約束をしていたが風邪気味のため、早朝、一雄に断ってきてもらう。午後、湯澤が来訪、歓談する。
11月27日、風邪から快復し、久しぶりに江古田の画室に入る。藤本(韶三?)と五井氏が来訪する。
12月1日、午後から岸浪百草居宅にて公田連太郎・小玉久爾夫も同席し、酒を交わしながら歓談。そのまま一泊させてもらう。
12月2日、朝に中川一政を訪ねた後、和田本町の木村荘八を訪ね、10月4日に病死したトシ夫人の仏前に線香をあげる。
12月、第11回珊々会展(2~6日、髙島屋)に《芭蕉騎馬図》(紙本着色)を出品する。
12月3~5日、岸浪百草居・小玉久爾夫と茨城県笠間旅行。
(3日岸浪・小玉と汽車で笠間へ向かい、酒造業の武藤藤兵衛邸を訪問。水戸市から小林茂兵衛も来る。4日笠間城址など観光。5日午前5時発の汽車で帰京、午前9時すぎ上野駅に到着。岸浪・小玉と別れ江古田の家に帰る。)
12月5日、午後、木挽町の出光佐三邸を訪ねた後、髙島屋の第11回珊々会展会場へ行く。一哉堂にて小川芋銭作品20余点の箱書をし、夕食を呼ばれて江古田の家に帰る。
12月、出光佐三へ譲った《曾遊江南画冊》の箱書きをする。
12月9日、午後、岸浪百草居と共に出光佐三に招かれる。江古田の一雄宅に戻ると、安明荘へ帰る放菴を迎えに二郎が来ていた。阿佐ヶ谷から弓館小鰐も来訪、二郎も交え3人で酒を呑み交わす。
12月10日、二郎と連れられ、午前6時新宿発の汽車で安明荘への帰途につく。午後6時すぎ田口駅に到着。雨混じりの雪のため迎えが来ず、肉屋に提灯を借りて何とか安明荘まで帰りつく。
12月13日、二郎が画室の煙突を修理してくれる。
12月16日、二郎が安明荘から去る。
12月21日、福井県三国港から松田君が蟹を土産に来訪、一泊していく。
12月22日、午後に帰る松田君のため、朝 小品を描く。
12月28日、一雄夫妻と二郎夫妻が年末を過ごすためやって来る。
12月29日、午後、板倉村(現・上越市板倉区)の村長と、『農民短歌』誌の宮下桐花が吹雪のなか来訪、一泊していく。
1948(昭和23)年 67歳 1月1日、放菴夫妻、一雄、二郎・千鶴子夫妻での賑やかな元日を喜ぶ。
1月3日、一雄・二郎たちとスキーを楽しむ。
1月4日、《大伴卿讃酒》素描。
1月9日、一雄が安明荘から去る。
1月10日、二郎夫妻が安明荘から去る。
1月16日、松本氏・田村氏が来泊する。
1月17日、小学校教師たちの会合に招かれ、小学校で講話をする。
1月21日、石田君に東京まで絵を持っていってもらう。
1月22日、《大伴卿讃酒》の素描をやり直し始める。
1月24日、一雄と石田君が東京から戻ってくる。
2月6日、《大伴卿讃酒》素描が完成する。
2月7日、油彩画《大伴卿讃酒》の彩色にとりかかる。山崎氏・加藤氏ら来訪、三泊し、スキーを楽しんでいく。
2月11日、紀元節にあわせ、玄関に日の丸の国旗を掲げる。
2月21日、《大伴卿讃酒》を中断しようか迷う。
2月22日、岸浪百草居・小玉久爾夫が来訪、三泊していく。久しぶりに歓談する。両名から《大伴卿讃酒》を褒められたため、春陽会二五週年記念展への出品中止を思い直す。
2月24日、午後、岸浪百草居・小玉久爾夫とスキーを楽しむ。八尾町から川崎順二夫妻が来訪、一泊していく。賑やかになったのを喜ぶ。
2月25日、朝、岸浪百草居・小玉久爾夫・川崎夫妻が去る。足利から二宮氏が来訪する。
2月27日、油彩画《大伴卿讃酒》が完成する。翌月の春陽会二五週年記念展出品作。
2月28日、スキー大会を見に行く。
2月29日、童話連作の画稿を描く。関氏・等々力氏が来訪、一泊していく。
3月1日、ここ10年ほどの作品をまとめた『放菴画選』(日本美術出版株式会社)を刊行する。
3月、春光会展(1~10日、東京日本橋・髙島屋)に《早春》を出品する。東西作家の諸作を集めた展覧会で、ほか、池田遙邨、伊東深水、宇田荻邨、大智勝観、小倉遊亀、堅山南風、加藤栄三、金島桂華、川端龍子、郷倉千靱、児玉希望、酒井三良、田中以知庵、堂本印象、中村岳陵、中村貞似、野田九浦、福田豊四郎、前田青邨、松林桂月、梥本一洋、望月春江、森守明、森白甫、山口華陽、結城素明らが出品した。
3月2日、《童話四題》の下絵を描く。
3月11日、《童話四題》の制作に苦労する。
3月19日、夕方、放菴の上京に同行するため一雄が迎えに来る。
3月22日、《童話四題》が何とか完成する。月末の春陽会二五週年記念展出品作。
3月25日、上京のため、午前8時一雄をともない出発。午後6時すぎに江古田の一雄宅へ到着する。
3月26日、安明荘から持ってきた作品を、一雄に清泉堂へ持っていってもらう。
3月27日、小杉千鶴子(二郎夫人)、ちよ子、甥の小杉良和が会いに来てくれる。
3月29日、岩田氏・松下(秀麿?)氏が来訪する。
3月30日、夕方、小林一哉堂主人が来訪する。
3月31日、小林一哉堂の自動車で春陽会二五週年記念展の招待日へ行く。会場で足立源一郎・中川一政・岸浪百草居・公田連太郎らと会う。
3月、春陽会二五週年記念展(31日~4月13日、東京都美術館)に、《大伴卿讃酒》(油彩画)、《童話四題(木舟土舟、瘤取、大江山、舌切雀)》を出品する。 ※現在、《大伴卿讃酒》は《太宰帥大伴旅人卿讃酒像》の作品名で出光美術館蔵
4月1日、午後、湯沢三千男が来訪する。
4月2日、午前中に川嶋氏が来訪、春陽四人展を6月早々に開催する打ち合わせをする。昼食後、一雄をともない帝室博物館へ国宝陳列を観に行く。午後、春陽会懇親会(上野、精養軒)に少し顔を出した後、一雄宅に帰宅。一哉堂が来訪、小川芋銭作品の箱書を頼まれ書し、芋銭墓参の約束を交わす。
4月4日、湯沢三千男が来訪する。大阪の牧野氏のための絵を描く。
4月5日、二郎が来る。
4月6日、佐藤(春夫?)氏の中国物の挿絵を描く。
4月7日、龍土町の梅原龍三郎邸に招かれ、古画など見せてもらう。中川一政、益田孝の孫である益田(義信?)氏も後から同席する。
4月8日、妻ハルが石田君に連れられ、一雄宅へ到着する。
4月10日、一雄が九州の古墳発掘現場へ出張。石田君は栃木県上三川町まで酒米をとりに行く。
4月11日、昼、山崎喜作・石田君をともなって堀野氏宅を訪ね、自宅庭のために譲ってもらうドウダンツツジなどを選ぶ。
4月12日、妻ハルのみ日光へ帰郷する。
4月13日、小林一哉堂の車で迎えられ、最終日の春陽会二五週年記念展会場へ行く。第22回国画会展(4月1~13日、東京都美術館)にも寄り、梅原龍三郎と会う。川嶋氏・小林(茂兵衛?)氏と合流し、午後4時上野駅を出発、午後6時茨城県土浦市に到着し、小林氏の別荘に二泊する。
4月14日、朝、車で牛久の小川家へ向かう。小川芋銭の孫である小川耒太郎などに会い、芋銭の墓参りをする。
4月15日、午前中、車で筑波山へ向かい、山上の神社に参拝する。
4月16日、午後、東京へ帰る。川嶋氏が江古田まで送ってくれる。
4月17日、午前中に松下秀麿と大鹿卓が来訪する。
4月18日、松下秀麿と大鹿卓に誘われ、銀座裏の家で銭痩鉄との11年ぶりの再会を懐かしむ。
4月20日、昼、唐沢俊樹(元内務次官)に招かれ、麹町のある家で会食する。妻ハルが日光から東京へ帰ってくる。
4月25日、針重敬喜、小玉久爾夫、箱崎氏、清川氏など来客が相次ぐ。
4月27日、午後、岸浪百草居と落ち合い、品川の出光佐三邸を訪ねる。
4月28日、午後、小林一哉堂にて小川芋銭作品の箱書をする。
4月29日、清泉堂、土井氏、荻谷氏、松下(秀麿?)氏など来客が相次ぐ。松下氏と共に芝神明門前町(現・港区芝大門一丁目)の猪股氏から招かれる。
4月30日、午後、岸浪百草居と目白で落ち合い、日本美術史綜合展(1~5月31日、東京国立博物館)を観る。とくに鎌倉時代の《矜羯羅童子像》を可愛く思う。午後3時に桜井店を訪ね、土井氏と9月の謡曲に取材する小品展の話をした後、三越で二代目西川鯉三郎の舞踊を見る。
4月30日、『随筆 帰去来』(洗心書林)を刊行する。
5月1日、小林一哉堂が来訪、茗渓会館(現・文京区大塚)まで送ってもらう。小玉久爾夫が主催する、公田連太郎・岸浪百草居と4人で歓談する会に出席する。
5月9日、午後、木村荘八のもとへ亡妻のために描いた《白衣大士像》を持っていく。夕方、阿佐ヶ谷の二郎宅へ行き、一泊する。
5月10日、午前8時上野駅発、午後4時すぎ田口駅着。二郎に安明荘まで送ってもらう。
5月末、別所村を旅行する。
5月11日、世間が日展廃止論で騒ぐなか、日展が日本芸術院主催となって存続すること、書が加わること、無鑑査は日本芸術院会員とその年の審査員になった作家、審査は芸術院会員および会員が先行した作家で構成されることなどが決定となる。
6月1~8日、第1回春陽四人展に出品する《寒山拾得三題》を描く。
6月10日、石田君に《寒山拾得三題》を東京まで持っていってもらう。
6月11日、畑山氏と原通の村長が来訪する。
6月15日、石田君に岐阜県武並町(現・恵那市武並町)まで百合を迎えにいってもらう。
6月、第1回春陽四人展(15~19日、日本橋・髙島屋)に《寒山拾得三題》を出品する。春陽四人は小杉放菴・石井鶴三・木村荘八・中川一政で、1953年の第6回展まで続く。
6月16日、百合が龍子を連れて来る。佐藤晩香が来訪、四泊していく。秋田から千葉氏が来泊。高岡の大坪氏が友人を連れ来訪。おふみが田植えで冷えこみ体調をくずす。
6月20日、帰途につく佐藤晩香に荻原氏へ渡す作品を預ける。
6月22日、午前7時に新井町(現・妙高市)へ行き、佐藤氏の紹介で半靴をあつらえてもらう。正午に帰宅する。
6月23日、鴨井氏が来訪。夕方、村田県議員が役場の人2名をともない来訪。二郎が来る。
6月25日、水谷清が百合・龍子を迎えにくる。
6月28日、水谷清・百合・龍子一家と二郎がそれぞれ安明荘から去る。午後5時すぎ、福井大地震のニュースを聞き悲しむ。
6月30日、田口駅から午前7時40分発、直江津で乗り換え、柏崎市へ行く。小林氏・白川氏に迎えられ、駅通りの桑山氏宅へ移動。昼食後、三代目吉田正太郎が運営する黒船館を見学、珍しい展示品を面白く観る。桑山氏宅へ戻った後、中浜の旅館天京荘にて小林氏・白川氏と会食、全員一泊する。
7月1日、午前8時発の汽車で安明荘へ帰宅。桑山氏宅に来た高田の陶工・齋藤三郎が同乗する。
7月18日、昼前に妻ハルをともない、二俣(現・妙高市二俣)の畑山氏を訪ねる。家の前に立つ、先代儒者である「畑山隆治先生之碑」を見る。帰宅後、夕方に畑山氏が来訪する。
7月28日、夜、一雄が正太郎と葉子を連れてやって来る。しばらく滞在し、8月初頭に一雄・葉子のみ帰京する。
8月7日、宮下氏が、19~20日に開催される菅原村の角力大会へ誘いに来訪、一泊していく。
8月8日、文部省から、この年より日展は日本芸術院が主催になること、司令部より審査に批評家を加えるよう命令があったことの通知が届き、審査から離れたいと考え始める。 ※7月30日に、CIE(行政機構GHQ/SCAPの文化的側面を担った民間情報教育局)宗教文化財課のプラマー(James Marshall Plumer)から、日展について、審査方法などに不平を持たずに諸団体が参加できるように図ること、審査員は日本芸術院会員のほかに様々な立場の人材から選出すること、展覧会の向上のために無鑑査制度を廃止して日本芸術院主催の意義を示すこと、とする声明が発表された。
8月11日、戸田氏を訪ね、約束していた書額を渡す。
8月19日、午前6時の汽車で新井駅へ向かい、佐藤君と落ちあってからバスで板倉村(現・上越市板倉区)へ行く。村長と宮下氏が加わり、村役場のトラックで菅原村(現・上越市清里区菅原)へ移動。菅原神社境内で開かれた角力大会や、境内にある学校に陳列されている古墳の発掘品など見物する。トラックで宮下氏宅まで送ってもらい、一泊する。
8月21日、午後、新温泉組合総会に出席する。
8月25日、石田君に高田市へ行ってもらう。
9月、第4回日展第二科(油絵)の審査員を、梅原龍三郎・須田国太郎・安井曾太郎と並び辞退する。
9月4日、一雄が正太郎を迎えにくる。9日に一雄・正太郎が去る。
9月10日、春陽会小品展のための素描を描く。
9月13日、石田君が高田市から返された刀四口を持ってきてくれる。このうち「国光」は父祖伝来のもの。
9月14日、郷倉千靱が来訪、歓談する。
9月15日、午後、妙高小学校の運動会を見物に行く。
9月19日、午前中、石田君が赤倉温泉方面へ登るのに同行し、柏崎の茶人が建てた別荘「無門荘」や、細川侯爵別荘など見て歩く。
9月20日、川端氏への絵を描く。
9月25日、午後、新温泉組合役員会に出席し、道路修繕のことなど協議する。
9月26日、高田市の中村老が重病との知らせが届く。
9月、春陽会秋季小品展(28日~10月2日、日本橋・髙島屋)に出品したか。
9月29日、石田君に高田市へ絵を持っていってもらう。
10月1日、喉が痛み始める。
10月4日、早朝、おちよが来る。
10月6日、38.5度の発熱のため、午後から寝込む。妻ハルが中村医師を呼ぶ。
10月8日、おちよが去る。
10月9日、高田市から大嶋氏が来訪する。
10月11日、高田市にて俳人たちの前で松尾芭蕉の講演をする約束を翌日に控えていたが、喉の調子が良くならないため、断りの電話を入れる。
10月15日、夜、佐藤晩香が来訪、四泊していく。
10月16日、郷倉千靱を訪ねる。
10月19日、朝、安明荘から去る佐藤晩香と共に出発。高田市の中村老宅にて焼香。大嶋氏をともない、久昌寺(現・上越市寺町2丁目)にある陶工齋藤三郎の工房へ行き、徳利や茶碗などの作品に感心する。丸庄氏宅に立ち寄り、大嶋氏宅で昼食に呼ばれた後、安明荘へ帰宅。夜、一雄が来て、しばらく滞在していく。
10月24日、一雄が去る。
10月25日、甥の小杉良和が来る。
10月26日、二郎が来る。
10月31日、二郎と上京予定だったが、風邪が治りきらないため延期する。
11月1日、風邪が長引いているため、中村医師に来診してもらう。
11月3日、旧天長節にあわせ、玄関に国旗を掲げる。
11月4日、二郎、放菴の風邪が治らないため、東京へ帰る。
11月10日、石田君をともない、午前7時40分田口駅発の汽車で上京。夕方、江古田の一雄宅に到着する。
11月12日、大阪髙島屋の展覧会(大阪髙島屋開店五十周年記念現代大家新作日本画展か)のため、《竹林七賢》の制作にとりかかる。
11月13日、二郎に長男が生まれる。放菴5人目の孫。
11月14日、夕方、二郎が長男の名前の相談に来る。放菴が選んだ字から、二郎が「茂」と名付けることを決める。
11月17日、午後、小林一哉堂の車で木挽町へ出光佐三を訪ねるも不在。小林一哉堂にて放菴と小川芋銭作品の箱書きをする。吉川氏に会い、放菴のファンであると聞く。
11月18日、朝訪ねてきた岸浪百草居をともない、茗渓会館にて小玉久爾夫の昼食会に招かれる。公田連太郎も同席。
11月19日、午後3時、吉川氏の車で迎えられ、上野桜木町にある自邸での晩餐に招かれる。
11月20日、午前中に第4回日展(10月21日~11月20日、東京都美術館)を観る。午後1時、桜屋で開かれた春陽会会員・会友による放菴歓迎会に出席、仲間たちの気持ちを喜ぶ。
11月21日、午後、一雄をともない二郎宅へ行き、二郎の長男を初めて見る。
11月22日、清泉堂、湯沢三千男など、来客が相次ぐ。
11月23日、一雄に送られ、午前8時すぎ上野駅着。岸浪百草居・木村(荘八?)・小玉久爾夫らと落ちあい、午前9時発の汽車で茨城県へ向かう。正午すぎに友部駅で乗り換え、笠間駅着。武藤藤兵衛の世話になり、この年から始まった笠間稲荷神社の菊祭りを楽しむ。
11月24日、午前中、城山へ行く。夜、田中嘉三(木村武山の弟子)が訪ねてくる。
11月25日、午前9時すぎハイヤーで水戸へ向かう。水戸南町の小林茂兵衛を訪ね、佐藤晩香も加わり、大洗町にある大洗荘へ行く。夕方、大洗磯崎神社の浜で写生中、杉田醇一郎(杉田雨人の息子)と会う。大洗荘に帰ると杉田雨人が来ており、久しぶりの再会を喜ぶ。
11月26日、午前9時水戸市の小林茂兵衛邸へ戻り、平福百穂の逸品を見せてもらう。鳥谷幡山の筆で《達磨》と箱書きされていたが、維摩の間違いであったため、放菴が書き直すことにする。岸浪百草居と小玉久爾夫は先に帰京。杉田雨人邸にて、小林茂兵衛・佐藤晩香らと会食。空襲に遭い、新築したことなど聞く。夕方、山本氏邸の晩餐に招かれ、経師の高橋氏など同席、そのまま一泊させてもらう。
11月27日、午前中、まさごにて小林茂兵衛のために箱書きをする。小林に東京まで送ってもらい、午後7時すぎ江古田の一雄宅に到着。小林にはそのまま一泊していってもらう。
12月2日、午後、日本橋髙島屋へ行く、翌日から始まる銭痩鉄個展(3~8日)の陳列を観る。夕方、支店長・川嶋氏・小林一哉堂らと会食する。
12月4日、上野桜木町の吉川氏に招かれ、一酌する。
12月7日、午後、一雄に連れられ早稲田大学にて、會津八一の明器などのコレクションを観る。岸浪百草居・小玉久爾夫も同伴。夕方、岸浪・小玉と共にかず子女史が新築した邸宅の晩餐に招かれ、この日は岸浪宅に一泊する。
12月8日、午後、熊井氏や内嶋氏など来客が相次ぐ。
12月10日、午後、眼鏡の度が合わないため、一雄に連れられ眼科で診察してもらう。右目の乱視が強くなり、ソコヒ(白内障・緑内障)の兆候があるが、10年くらいはまだ大丈夫と言われる。帰途、日動画廊に立ち寄ると、川嶋氏(個展開催中の川島理一郎か)が居合わせる。
12月11日、午後、小林(一哉堂?)氏の車で桜井氏、出光佐三、相沢氏をまわるも皆不在。
12月14日、文部省文部次官室にて、CIE宗教文化財課のプラマー、ギャラガー(Charles F.Gallagher)と日本芸術院第一部(美術)会員17名による懇談会が開催される。小杉放菴がこれに出席したかは不明。この後、日展から官費が廃止され、民主化していく筋道が作られていく。
12月17日、朝、小林(一哉堂?)氏が来訪する。
12月18日、朝、湯沢三千男を訪ねる。
12月19日、安明荘へ帰る荷造りをする。午後、小玉久爾夫をともない木村荘八を訪ねるも不在。小玉、二郎たちと夕食。石田君が迎えに来る。
12月20日、石田君と午前9時50分上野駅発の汽車に乗車、安明荘へ帰宅する。
12月23日、夜、安明荘に来ていた百合が去る。
12月24日、朝、佐藤晩香が来訪、四泊していく。
12月28日、午後、一雄が来る。
12月29日、陶工の齋藤三郎が来訪する。
12月30日、石田君宅にて餅をつく。赤松新から、倉田平吉(白羊の息子)がシベリアから帰還したことを知らせる手紙あり。
1949(昭和24)年 68歳 1月1日、小杉夫妻・長男の一雄に、女中のふみ子と4人での元日。夕方、下の田圃で一雄とフキノトウを採る。
1月2日、この年から日本国旗を立ててよいとマッカーサーから許可が出たが、許可された日の丸を立てたくないと、玄関の壁に吊るすに留める。倉科氏と畑山氏が来訪する。
1月3日、高田市の東郷氏、新井町の佐藤氏が来訪する。
1月6日、一雄が去る。夕方、二郎が来る。
1月8日、田切(現・妙高市田切)へ下り、郷戸翁に線香をあげる。
1月11日、二郎が去る。
1月14日、松坂屋の墨心会展へ出品する作品を東京へ送る。
1月20日、秋田へ送る《寒山拾得》を描く。
1月26日、佐藤晩香が来訪、三泊していく。
1月27~28日、佐藤晩香へ渡す絵を描く。
2月3日、宮原明良が来訪、一泊していく。
2月10日、墨心会展へ出品する絵が2点完成する。
2月11日、高田市から濱谷浩と齋藤三郎が来訪、一泊していく。若者との歓談を楽しむ。
2月13日、午後、川端氏と岩沢(岩津?)博士が来訪する。
2月14日、女中のふみ子が眼の感染症トラコーマにかかり、新井町の医者まで受診に行く。
2月19日、スキー大会を見物に行く。
2月25日、夜、佐藤晩香が連れと2人で来訪、二泊していく。
2月27日、春陽会展のための素描淡彩を描く。
3月4日、西遊記の水墨画を描き始める。
3月5日、二郎が来る。
3月6日、百合が来る。
3月10日、朝、二郎・百合が安明荘から去る。
3月24日、女中のふみ子から、名古屋の紡績工場の女工に応募するためヒマをもらいたいとの申し出を受ける。夕方、一雄が来る。
3月25日、夕方、佐藤晩香が来訪。数日滞在していく。
3月27日、朝、一雄が去る。
4月、長男・一雄が早稲田大学文学部教授に就任する(1979年3月まで)。
4月、第26回春陽会展(1~16日、東京都美術館)に出品か?
4月3日、旧神武天皇祭の日につき、玄関に日の丸を掲げる。
4月6日、文芸誌『苦楽』七月号に掲載される、森鷗外の小説「魚玄機」の挿絵を描く。夕方、二郎が来る。
4月8日、上京する。
4月15日、出光佐三邸で開かれた木公会に出席する。
4月21日、小林徳三郎(4月18日逝去)の葬儀に参列。石井鶴三・木村荘八・中川一政・下山氏と会い、夕方まで歓談する。
4月22日、日本芸術院会員として宮中に召され賜饌を賜わる。
4月30日、午後、浅草の料亭染太郎にて、春陽会の仲間たちが開いてくれた放菴を囲む会に招かれる。
5月7日、夕方、小林一哉堂で作品の箱書きをしているところに髙島屋の川嶋氏が来訪、一酌する。小林氏と午後11時東京駅発の汽車で愛知県豊橋へ向かうが、居眠りしているあいだに小林氏から借りていた鞄が盗難にあい、1ヶ月分の日記などを失う。
5月8日、朝、豊橋駅に到着。稲垣氏に迎えられ、きぬやで湯に入り仮眠をとる。午前11時頃から国画鑑賞会の会員10余人による放菴作品の頒布会。午後、稲垣氏・きぬやの女将たちとハイヤーで豊川稲荷(妙厳寺)へ参拝に行く。
5月9日、小林氏らと別れ、午前8時50分発の東海道線で滋賀県へ向かう。午後2時すぎに安土駅着。徒歩で摠見寺へ行く。戦中以来久しぶりに会った住職に泣いて喜ばれる。伊庭氏と鐘楼再建について相談。夕方、岸浪百草居とその弟子である内海加寿子が合流する。
5月10日、岸浪百草居が下の村までモロコ(琵琶湖の淡水魚)を探しにいくのに同行する。
5月11日、朝、住職にまた10月に来ることを約束して摠見寺を後にする。下の村にて拾得の家に立ち寄り、摠見寺は文雄君がこの月に僧堂修行へ出てしまったら、住職一人になってしまうため、介抱してあげるよう忠告する。午前9時安土駅に到着。近江八幡駅にて午前11時発の準急列車に乗り換え、広島県へ向かう。午後8時に尾道駅に到着。村田氏に迎えられ、光明寺(尾道市)裏にある村田邸の世話になる。
5月12日、午前中、尾道市街にて衣類を買う。正午、船で瀬戸内海へ出る。午後3時愛媛県今治市に寄港。和田氏に迎えられ、燧峯館に投宿する。
5月13日、午前6時発の船で瀬戸内海を巡る。大島(今治市)を左にまわり、宮窪で下船、港屋で朝食をとる。午前11時、鯛網を見るため再び乗船、とれた魚を買って昼食にする。住友の精銅所がある島に上がり、宿屋の楼上で休憩をとる。また沖に出て鯛しばり網漁を見学。帰途、能島に寄り、かつて村上海賊が拠点にしていたという能島城跡を見学する。
5月14日、午前9時発の船で今治へ戻り、今治駅から乗車。午後一時松山駅に到着。松山市千舟町の笠置医院を訪ねる。宝厳寺(道後湯月町)にて国宝一遍上人像を拝観させてもらう。昼食に肉うどんを食べた後、道後公園湯築城跡へ行く。
5月15日、松山城址を見学。中華料理屋で昼食後、復興館で映画を観る。夕方、湊町の浜ゆうにて寒川氏、黒田氏、和田氏らと会食する。
5月16日、午前9時すぎのバスで北条町へ向かう。町長や隣村の村長たちと船で鯛網を見学。午後5時すぎ千舟町へ戻り、午後9時高浜港発の船で大阪市へ向かう。
5月17日、朝、播磨灘をすぎ、正午すぎ大阪港に到着。大阪髙島屋にて昼食に呼ばれ、伊藤旅館に一泊。長谷川君、東嶋君などが来訪する。
5月18日、午前9時大阪駅発の汽車で東京へ戻る。午後9時すぎ東京駅に到着、一雄が迎えに来てくれる。新宿で岸浪百草居たちと別れ、江古田の一雄宅へ帰る。
5月19日、髙島屋にて、孫の葉子のために鏡台を買い、時計を修理に出す。京橋の画廊兼素洞を訪ねる。
5月21日、及川氏への絵を描く。
5月22日、朝、百合が来る。水谷清が歯槽膿漏で発熱したことを聞く。
5月23日、朝、石田君が迎えに来る。午前中、小玉久爾夫のために素描《おばこ》を仕上げる。二郎が来る。夕方、久しぶりの一雄・二郎・百合3兄弟そろった団欒を喜び、妻ハルがこの場にいないことを惜しむ。
5月24日、朝、石田君と出発、安明荘へ帰る。一雄が上野駅まで送ってくれる。
5月末、アメノウズメノミコトのモデルとして、女優の笠置シヅ子を描かせてほしいと、林芙美子を通して申しこむ。
6月、春陽会々員展(3~9日、上野・松坂屋)。小杉が出品したかは不明。
6月4日、二郎夫妻が茂を連れて安明荘へ来る。しばらく滞在。
6月5日、春陽会四人展に出品する《牛久沼図巻》三図にとりかかる。
6月8日、《牛久沼図巻》が完成する。
6月9日、朝、二郎のみ発つ。
6月16日、石田君が田植えに来てくれる。
6月18日、午前10時、高田市(現・上越市)へ発つ。大嶋氏宅にて昼食をとる。午後1時半から公民会館にて松尾芭蕉について講演、芭蕉の風采やその俳諧に現れた女性、奥の細道をたどる旅をしたことなどについて話す。夕方、齋藤三郎の工房へ行き、徳利に絵付をする。長養館(現・上越市寺町)に一泊。夜、市川氏・大嶋氏・春山氏らと会食する。
6月19日、朝、高田市街にて孫の茂のため、玩具やおむつカバーを買う。午前10時、安明荘に帰宅。
6月21日、夕方、二郎が安明荘に戻ってくる。
6月、春陽会四人展(22~26日、日本橋・髙島屋)に《牛久沼図巻》を出品か。
6月24日、上京時に肩を痛めたのが長引き、妙高の中村医師のもとで注射してもらう。
6月25日、肩の痛みに苦しむ。
6月26日、二郎一家が東京へ帰り寂しくなり、〈孫はけさ 立ちて行くなりかあいくて かあいくてわがせんすべきもなき〉と詠む。
7月7日、肩がだいぶ良くなり、久しぶりに酒を少量呑める。
7月9日、茂の写真が届き、喜ぶ。
7月11日、中央美術協会へ4点の絵を送る。
7月12日、朝の汽車で出発。途中、高田駅で春山氏と、糸魚川駅で川上氏と合流。親不知駅にて下車。蛭子氏に迎えられ、国道を西へ向かい、崖道や大穴小穴を見ながら市振村(現・糸魚川市市振)へ向かう。曹洞宗の寺の世話となる。一里ほど山へ入った上路村や山姥伝説の話を聞く。夕方、福井県三国港の伊藤氏が合流する。
7月13日、寺と伊藤氏に別れを告げ、川上氏・春山氏と午前10時の汽車で帰途につく。川上氏は糸魚川で下車。春山氏は句会があるため小杉と田口駅まで同乗。安明荘へ帰る。
7月17日、金沢から来客がある。
7月23日、本間春武が正太郎らを連れてくる。本間は四泊していく。
7月26日、栃木県今市から高橋彌次右衛門が来訪する。
8月1日、夕方、華子(一雄夫人)が小二郎を連れて来る。
8月3日、《芭蕉騎馬》など個展出品作を描く。
8月5日、華子・小二郎が去る。
8月13日、夕方、子や孫と5人でお盆の迎え火を焚く。
8月16日、午後、原氏・宮原(明良?)氏が来訪、一泊していく。
8月20日、米国ロサンゼンルス開催の全米水上選手権が、古橋広之進による9つの世界記録達成で終わったことを喜ぶ。
8月22日、百合が龍子を連れて去る。
8月23日、夜、佐藤晩香が来訪、三泊していく。
8月29日、個展出品作が10点完成する。畑のスイカが盗まれたため、翌年から作らないことにする。『二十二史』を読み終える。
9月1日頃、一雄が来る。4日に正太郎を連れて去る。
9月5日、小林一哉堂のための日本画を描く。
9月6日、午後、高田市(現・上越市)の丸庄氏が来訪する。圭介氏のための日本画を描く。
9月7日、相沢氏のための日本画を描く。
9月16日、上京する放菴を迎えに、二郎が来る。
9月21日、午前8時に妻ハル・二郎と出発。長野駅で2人と別れ、午前11時発の汽車で長野県松本市へ向かう。等々力氏が乗り合わせる。途中、車内で入れ歯を失くす。午後1時に松本駅到着。末弟の小杉甲午郎や関君に迎えられ、老いた姉ヤヲに会う。夕方、松本館にて等々力氏、野口氏らと6人で会食する。
9月22日、等々力氏に見送られ、午前8時松本駅発の汽車で東京へ向かう。午後4時立川駅で乗り換え、中野からバスに乗り、水谷清の新居に到着する。
9月23日、入れ歯のことで歯医者へ行くも、彼岸中で休み。二郎が同行し、江古田の一雄宅まで画材を取りに行く。
9月24日、片山歯科へ行く。
9月25日、朝、佐藤晩香、湯沢三千男が来訪する。晩香・岸浪百草居と小林(一哉堂?)氏の車で日本橋髙島屋へ行き、宮原明良個人展(19~25日)を観たあと、自身の個展用の作品を渡す。髙島屋食堂にて川嶋氏、岸浪百草居と昼食。百草居と車で小石川の白山道場へ行き、三郎の墓参り。妻ハルや子供たち、甥の良和らが来ており、賑やかな法事を喜ぶ。
9月26日、片山歯科にて診療。宮原氏が来訪する。
9月28日、午後、湯沢三千男、田澤田軒、小玉久爾夫が来訪する。
9月29日、新しい入れ歯が出来る。
9月30日、湯沢三千男邸にて岸浪百草居、公田連太郎と会食する。
10月、小杉放菴新品個展(大阪髙島屋)を開催する。
10月1日、午後、宮原(明良?)氏が来訪。午後3時、片山歯科にて入れ歯を直してもらう。夕方、宮原氏・神野氏と会食する。
10月3日、妻ハルと百合が日光へ先に発つ。
10月4日、風邪気味になる。夜、甥の小杉良和が来る。
10月5日、午前7時45分浅草駅発の東武線特急で日光へ帰郷。午前11時東武日光駅に到着。七里の相良家にて、85歳になる義母、義妹のミツ、同じくキミ、義弟相良英一の子らと会う。午後に墓参りを予定していたが、風邪気味のため止めておく。
10月6日、午後、相良家へ来た小杉良和に墓参りをまかせ、夕方、相良英一と今市町(現・日光市今市)へ向かう。高橋(彌次右衛門?)家を訪ね歓談、そのまま一泊する。
10月7日、午前10時、ハイヤーで相良家まで送ってもらう。正午、良和らと4人で東京へ帰り、夕方到着。
10月8日、下山氏のための日本画を描く。
10月9~11日、水戸市の某氏のための日本画を描く。
10月10日、木村荘八夫人の三回忌のため、寺へ行く。
10月13日、夕方、足立源一郎・石井鶴三・木村荘八・中川一政を招き、久しぶりの歓談を楽しむ。水戸市から佐藤晩香が来訪する。
10月14日、午後3時、荻窪の原氏に招かれ、宮原(明良?)氏の案内で訪ねる。岸浪百草居、徳川夢声も同席し歓談する。
10月15日、午前11時、水谷清をともない、巨人対サンフランシスコ・シールズによる初の日米野球試合を後楽園へ観戦にいく。帰途、相津氏宅に寄り、夕食に呼ばれる。
10月16日、松坂屋で開かれる墨心会展出品作を描く。
10月18日、出光佐三に招かれ、築地の料亭蜂龍で開かれた木公会に出席。渋沢(秀雄?)氏に初めて会う。酒井杏之助(第一銀行副頭取)と久しぶりに会い、その車で帰りは送ってもらう。
10月、春陽会秋季小品展(19~23日、日本橋・髙島屋)が開催。小杉が出品したかは不明。
10月21日、妻ハルが先に安明荘へ帰る。
10月24日、吉川氏に招かれ、下谷のてんしんにて一酌する。
10月25日、午後、東京駅から国府津町(現・神奈川県小田原市国府津)へ向かう。旅館の国府津館で開かれた小玉久爾夫の催しに参加し、岸浪百草居、公田連太郎らも同席する。
10月26日、昼の汽車で東京へ戻る。車中で偶然、横山大観と5年ぶりに会う。松坂屋に立ち寄る。
10月27日、夕方、小林一哉堂に招かれ、鳥栄にて一酌する。
10月28日、《奥の細道》を描く。
10月29日、午前中に宮原(明良?)氏が来訪。午後少し外出。帰途偶然会った小玉久爾夫と一緒に帰り、《奥の細道》12図を見せる。
10月31日、小林氏のための《奥の細道》が完成し、別の作品にとりかかる。
11月1日、二郎が来泊していく。
11月2日、朝、二郎に上野駅まで送ってもらい、茨城県へ向かう汽車に乗車する。正午すぎ水戸駅に到着。小林茂兵衛に迎えられ、20人ほどの座談会に出席。その後、杉田雨人邸に寄り一酌。小林邸にて箱書き。夕方、「もみち」にて会食する。
11月4日、午前中、祇園寺(水戸市八幡町)にて杉田雨人夫人の墓参りをする。午後3時に水戸を発ち、午後8時すぎ東京へ帰る。
11月5日、午前中、湯沢三千男、松下氏が来訪。午後、荻窪の原氏をともない、宮原(明良?)氏宅にて一酌。岸浪百草居も同席する。
11月8日、朝、新宿で一雄夫妻と会い、上野で第三回正倉院特別展(10月30日~11月13日、東京国立博物館)を観る。
11月9日、小林(一哉堂?)氏に招かれ、川嶋氏らと湯島の天ぷら屋、下谷の布袋屋をハシゴする。
11月10日、連日の疲労により、日動画廊の明治会に欠席する。
11月11日、江古田の一雄宅へ行き、米沢から戻った針重敬喜と会う。午後、岸浪百草居、公田連太郎を訪ねる。
11月13日、午前中に『中央公論』扉絵、佐藤氏の随筆カットなど描く。午後、湯沢三千男を訪ねた後、針重敬喜、弓館芳夫(小鰐)と会う。
11月14日、歯医者へ診察に行った後、兼素洞を訪ねる。夜、一雄が来る。
11月15日、武ちゃんに送られ、二郎・千鶴子・茂と4人で、午前4時半中野駅始発の電車に乗る。午前6時20分上野駅発の鉄道にて新潟県へ発つ。田口駅からハイヤーで安明荘へ帰宅。妻ハルとおみよに喜び迎えられる。
11月19日、千疋屋画廊の絵を描き、『中央公論』の原稿を書く。どちらも21日に発送する。
11月20日、二郎が東京へ発つ。
11月25日、吉川氏のための《四睡図》など描く。
11月30日、数日前から滞在していた佐藤晩香が去る。大工の山本君父子により、画室北側に納戸を張り出す工事が始まる。家族が日光と福島へ疎開させてくれていた荷物が届き、摠見寺から夜具なども送られ、収納スペースが必要になったため。
12月2日、夕方から寒気、38.5度の発熱が出たため、夜に中村医師の来診を受け、しばらく安静にする。
12月7日、画室の納戸張り出し工事が完了する。
12月8日、『朝日新聞』元旦号のカットを描く。
12月11日、小林一哉堂のため《まりつく良寛》を描く。
12月13日、小林一哉堂や兼素洞のための作品を描く。体調がようやく快復したと感じる。
12月15日、池田氏のための絵を描く。
12月20日、石田氏のための絵を描く。
12月21日、新聞のための小品など描く。夕霧のなか、郷田切川の谷まで下り、薄雪と枯草のなかの散歩を楽しむ。
12月23日、佐藤晩香が来訪、二泊していく。
12月24日、佐藤晩香のため《牡丹》など描く。
12月25日、佐藤晩香が去るため、石田君に送らせる。
12月26日、夕方、ラジオで今市地震のニュースを聞く。
12月27日、日光の相良家(妻の実家)へ地震の安否を尋ねる電報を打つ。
12月28日、日光から地震の被害は無かったとの返電があり、安堵する。
12月29日、石田貞吉(芳美堂画廊)や猪木氏のための絵を描く。
12月30日、年末年始を過ごすため、二郎が正太郎を連れて戻ってくる。百合・龍子は風邪のため来られず。
12月31日、倉科氏のため五尺の花鳥画を描く。
1950(昭和25)年 69歳 4月、第27回春陽会展に《西遊記連図1》《西遊記連図2》《西遊記連図3》を出品する。同作は12月に画帖《西遊十題》としてまとめる。 ※現在、出光美術館蔵
―― 第3回白寿会展に《こぶとり》《金太郎》を出品する。
1951(昭和26)年 70歳 1月23日、杉田雨人が病死する。
2月、三男・三郎の十三回忌のために、ブロンズ像《懸仏》を制作する。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
3月、會津八一博士新作書展(主催:一哉堂・壺中居)に、《椿》《金太郎》《達磨》《寒山拾得》《芋銭翁と河童》《河童》を特別出品する。
4月、第28回春陽会展に《童話八題(猿田彦、天岩戸、浦島、金太郎、河童、天狗、舌切雀、花咲爺)》を出品する。
10月、信濃毎日新聞社主催「現代大家美術展」(3~7日、同社講堂)に《一茶おらが春》を出品する。
11月、第4回白寿会展(東京都日本橋・髙島屋)に、《芭蕉涅槃》(三連作)を出品する。
11月、出光興産のタンカー・日章丸の船内に飾る《天のうづめの命》(油彩画)を描く。 ※現在、出光美術館蔵
1952(昭和27)年 71歳 9月21日、岸浪百草居が亡くなる。
12月、国立近代美術館開館記念日本近代美術展に1948年作《太宰帥大伴旅人卿讃酒像》が出品される。 ※現在、出光美術館蔵
1953(昭和28)年 72歳 ―― 久しぶりに赤倉から上京したが、風邪から急性肺炎となり、予定していた春陽会30年回顧座談会に出席できず。この頃から春陽会展への出品も怠りがちになる。
1月、個展「小杉放庵新作日本画展」(大阪市・高島屋)を開催する。
2月、春陽会美術研究所が新しく発足する。
4月、春光会展(髙島屋)に《溪鳥》(紙本着色)を出品する。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
4月、東西新作日本画五十人展(池袋西武百貨店)に《弥次郎兵衛の春》を出品する。
5月、第7回墨心会日本画展(東京都上野・松坂屋)に《娘二題》を出品する。
5月、日本画の流れ展(国立近代美術館)に《東海道五十三次絵巻》(1915年作)、《瘤取の図》が出品される。
10月、春陽会四人展(日本橋・髙島屋)に《踊》《芦苅》《川名》《一碧湖》を出品する。
11月、尚美会展(壷中居)に《野梅遊禽》を出品する。
11月、第6回白寿会展(髙島屋大阪店)に、《明恵上人》《役の行者》(ともに日本画)を出品する。
11月、小杉放菴・菅楯彦二人展を開催する。
12月、春陽会秋季展に《瘤取》を出品する。
12月、『歌文集 石』(美術出版社)を刊行する。
―― 二男・小杉二郎宅(杉並区和田本町)滞在中に、小川千甕と飯田莫哀が訪ねてくる。千甕と会ったのは約30年ぶり。
1954(昭和29)年 73歳 1月、『新潟短歌』の表紙に、小杉の絵が使われる。
3月、名古屋美術倶楽部五十周年記念展に《花咲爺》を出品する。
5月、大正期の画家展(国立近代美術館)に《アルハムブラの丘》(1913年作)が出品される。
6月、第3回西武三十五人展に《蛙の角力》を出品する。
10月、珠光会茶掛展(養清堂)に《十月》を出品する。
11月、第7回白寿会展に《竹林七賢》を出品する。
1955(昭和30)年 74歳 4月、孫・正太郎が早稲田大学高等学院に入学。これを喜び、《童話花咲爺》《童話金太郎》を同校のために描き、寄贈する。  ※現在、両作とも早稲田大学高等学院蔵
5月、第9回墨心会展(東京都上野・松坂屋)に《秋田おばこ》を出品する。6月に大阪市(松坂屋)へ巡回。
6月、個展「小杉放菴茶掛展」(東京都上野・松坂屋)を開催。近作10数点を発表する。
8月16日、横山大観から日本酒「酔心」10本を贈られる。
9月、第1回秋高会展(髙島屋)に《古歌三題》を出品する(出品作は《山伏》とも)。ほかの出品者は、鏑木清方、川合玉堂、川端龍子、横山大観。
9月、『奥の細道画冊』(龍星閣)を刊行する。1932年に刊行した同名書の縮刷新版。特装版100部も同時に限定刊行。
10月、「みづゑ50年記念 日本洋画名作展」(主催:美術出版社、会場:東京都日本橋・髙島屋屋)に《水郷》(1911年作)が展示される。
11月、個展(大阪髙島屋)を開催する。
11月、第8回白寿会展(東京都日本橋・髙島屋)に出品する。
11月、尚美展(壷中居)に《戯鳥》《雉子文殊》を出品する。
―― 小杉放菴と小玉邦雄が世話人となった、岸浪百草居の遺歌集『百草居の歌』が刊行となる。
―― この頃、悠心会(大丸美術画廊)に出品する。ほかの出品者は、小川千甕、堅山南風、川合玉堂、酒井三良子、田中以知庵、松林桂月。
1956(昭和31)年 75歳 ―― 春、小川芋銭を懐かしんだ、《河童図》(紙本着色)を描く。 ※現在、小杉放菴記念日光美術館蔵
3月、『爐』(中央公論社)を刊行する。
5月、青森県を旅行、桃川酒造を訪ねる。商標「桃川」の揮毫を頼まれ、翌年書きあげる。
6月、第10回墨心会展(東京都上野・松坂屋)に《寒山拾得》を出品する。
7月、瓊韻会展(東京都上野・松坂屋)に《奥の細道》を出品する。
9月、水墨画展(髙島屋)に《仙人煉丹》を出品する。
9月、小杉放菴が書した松尾芭蕉の句碑《あらたふと 青葉わか葉の 日の光》が、日光市・東照宮・輪王寺・二荒山神社により、東照宮宝物館(現・日光社寺文化財保存会事務所)入口左手に建立される。
11月、尚美堂記念展(壷中居)に《雀の宿》を出品する。
11月、日本芸術院会員美術作品展(主催:日本芸術院、会場:東京都日本橋・三越)に《金太郎遊行》(油彩画)を出品する。 ※現在、出光美術館蔵
11月、第9回白寿会展(髙島屋)に、《踊る良寛》《画人三題》を出品する。後者は俵屋宗達、池大雅、小川芋銭を画題としたもの。
1957(昭和32)年 76歳 2月、松寿会展(東京都上野・松坂屋)に《てまりつく良寛》を出品する。
2月、第6回五都展(東京美術倶楽部)に《花咲爺》を出品する。3月に、金沢美術倶楽部、京都美術倶楽部、大阪美術倶楽部、名古屋美術倶楽部へ巡回。
3月、「新館完成記念 七大家新作展」(東京都上野・松坂屋)に《奥の細道》を出品する。
3月、歌文集『故郷』(龍星閣)を刊行する。
4月、歌文集『故郷』(龍星閣)特装版を100部限定で刊行する。
4月12日、日光市主催のもと、小杉揮毫による西行法師の歌碑、松尾芭蕉の句碑が建立され、除幕式に出席する。西行歌碑《ながながむ散りなむことを君も思へ 黒髪山に花咲きにけり》は稲荷町に、芭蕉句碑《しばらくは 滝に籠るや 夏の初め》は裏見滝入口に建立される。
4月26日、船越義珍が亡くなる。
5月17日、船越義珍の訃報を聞き、弔辞を送る。
5月18日、船越義珍の長男・義英が来訪、義珍の話をする。
6月、第11回墨心会展(東京都上野・松坂屋)に《獅子舞》を出品する。
6月、尚美展(壷中居)に《鳥三羽》を出品する。
10月、中川一政との第1回漁樵会展(ギャラリー創苑)に《寒山拾得岩に入る》《鉢叩き》《童話瘤取》を出品する。
11月、画集『放菴画伯十二ヶ月画帖』(日本漁網舩具株式会社)を100部限定で刊行する。
11月、第10回白寿会展(東京都日本橋・髙島屋)に《画人三題》を出品する。
12月、中西悟堂の歌集『安達太良』の題字を書く。刊行は1959年2月となる。
1958(昭和33)年 77歳 1月、西川流の舞踊「鯉風会」(東京都新橋・演舞場)で公演される、川端康成作「古里の音」の美術を担当する。
2月26日、横山大観が亡くなる。
3月、髙島屋美術部五十年記念展に《寒山拾得》《武陵桃源》を出品する。
4月、第35回春陽会展に《僧》《童話三題(天狗、金時、瘤取)》を出品する。
5月18日、船越義珍の弔問のために船越義英を訪問。義英と雑司谷に墓参する。
6月、日本芸術院の高橋誠一郎院長宛に、高齢を理由に辞表を提出する。すぐに受理されず、しばらく説得される。
7月、第6回薫風会展(三越)が開催され、出品予定であったが間に合わず。
7月、一哉堂展(小林一哉堂)に《山寺有酒》を出品する。
7月15日、藤井浩祐が亡くなる。
10月18日、第7回日光市臨時市議会において、日光市名誉市民条例が議決され、小杉放菴、清水比庵、徳川家正の3名を推挙することに決定する。
11月3日、日光市名誉市民として推挙される。
11月5日、中野の小杉一雄宅に滞在中、日光市長たちが訪れ、日光市名誉市民賞を贈呈される。
11月17日、かねて申し出ていた会員辞任について、日本芸術院の会議で正式に受理され、同日文部省から発表される。
11月18日、木村荘八が亡くなる。
12月、尚美展(大丸東京)に《仙人吹笙》を出品する。
1959(昭和34)年 78歳 3月、五都連合展(東京美術倶楽部)に《花咲爺》を出品する。
3月4日、上越文化懇話会の発会式が高田図書館で開かれる。小杉は濱谷浩・堀口大学らと共に顧問となる。
4月、皇太子御成婚に因む寿会展(髙島屋)に《弥次北八》《花咲爺》を出品する。
5月、薫風会展(東京都日本橋・三越)に《石上の寒山拾得》を出品する。
6月頃、東京の病院に入院する。
6月、尚美展(東京都日本橋・壷中居)に《竹取翁》《雀の宿》を出品する。
7月、第13回墨心会展(東京都上野・松坂屋)に《寒山拾得》を出品する。
9月、新作展(大阪市・髙島屋)を開催する。
8月頃、小杉の追悼歌「朝ね坊 する青年のすがたにて 雪の底より掘り出されたり」が刻まれた、妙高村燕温泉の八島孝君遭難碑除幕式に、小杉一雄が家族代表として出席する。
11月、第2回柏光会展(白木屋)に《雲(寒山拾得)》を出品する。
11月、第12回白寿会展に、《わび人三種(一茶、良寛、惟然坊)》を出品する。
1960(昭和35)年 79歳 2月、松坂屋創立五十周年記念現代美術展(東京都上野・松坂屋)に《吉野西行》を出品する。
3月、文学者の本間久雄から、日露戦争後に発表した詩について取材させてほしいとの手紙を受け取る。
―― 長男・一雄が早稲田大学第一文学部教務主任に就任する(1962年9月まで)。
4月、小杉放菴画業60年展(主催:朝日新聞社、協賛:春陽会、会場:東京都日本橋・髙島屋)が開催される。初期の油彩画から日本画・素描まで、全51点が並ぶ。
4月26日、小杉放菴画業60年展会場で本間久雄と会う。
4月、五都連合展(東京美術倶楽部)に《対石説法》を出品する。
5月1日、小杉二郎宅(杉並区和田本町)にて、本間久雄の取材を受ける。とくに「戦の罪」に関することなど。
6月、藤本韶三の編集により、『放庵画集』(三彩社)を刊行する。
7月、第1回玄覧会展(東京都銀座・一哉堂画廊)に《角平獅子》《踊り良寛》を出品する。
9月30日、午後3時頃、協和映画社(旧ブルヂストン映画部)の小谷博貞と技手が、小杉放菴を撮影するため来訪する。この映像はブリヂストン美術館の美術館映画「美術家訪問シリーズ」第9集(1963年)に収められる。
10月、現代絵画百人展(東京都上野・松坂屋)に《徳利良寛》を出品する。
10月、松籟会日本画展(東京都上野・松坂屋)に《獅子舞》を出品する。
11月、「株式会社設立四十周年記念 錦紅会日本画展」(東京大丸)に《山人独笑》を出品する。
11月、近代宗教名作美術展(主催:読売新聞社、会場:東京都上野・松坂屋新館)に《老子出関》が出品される。
11月13日、小杉二郎宅に滞在中、内本浩亮の紹介・同行により、若葉社の富安風生・池上浩山人、俳人の佐々木康人が来訪。翌年の俳誌『若葉』に掲載される座談会を開く。
12月、1940年の日中戦争戦跡スケッチをまとめた画集『江南画冊』(東峰書院)を500部限定で刊行する。
1961(昭和36)年 80歳 4月、第38回春陽会展に《童話三題》を出品する。
5月、薫風会展(東京都日本橋・三越)に《河童あそぶ》を出品する。
11月、墨彩会展に《山翁独笑》を出品する。
12月、石井鶴三・中川一政との合同画集『春陽会三長老四季画帖』(日本漁網船具株式会社 編)を刊行する。小杉の作品は、《大黒天》《つみくさ》《おくの細道》《月》(すべて日本画)が掲載。
―― この頃、肺炎にかかり、肉体の衰えが目立つようになる。
1962(昭和37)年 81歳 1月、個展「小杉放菴 書展」(大阪なんば髙島屋美術部画廊)を開催。《酒の歌(春・夏・秋・冬)》、《木のうへに…》などを発表する。 ※現在、《酒の歌(春・夏・秋・冬)》は日登美美術館蔵
5月、薫風会展(東京都日本橋・三越)に《河童明月》《天狗舞》を出品する。
6月、水谷清の監修により、『江南画冊』を中央公論美術出版から300部限定で再び刊行する。
8月、第2回玄覧会展(小林一哉堂)に《烏天狗》《獅子舞》を出品する。
9月、「開館十周年記念 近代の屏風絵展」(国立近代美術館)に、《竹林弾琴》、《銀鶏春光》(1943年作)が出品される。
9月、長男・一雄が早稲田大学第一文学部教務主任を退任する。
11月、第15回白寿会展(東京都日本橋・髙島屋)に《童話瘤取》《面壁九年》を出品する。
12月、尚美日本画展(中央公論社画廊)に《天狗舞》を出品する。
1963(昭和38)年 82歳 4月、第40回春陽会展に《大伴卿(太宰帥大伴旅人卿讃酒像)》が展示される。 ※現在、出光美術館蔵
5月、一哉堂50周年記念展[第三期](東京都銀座・資生堂ギャラリー)に出品する。
7月27日、公田連太郎が亡くなる。
9月、近代日本美術における1914年展(東京国立近代美術館)に、《ブルターニュ風景》(1913年作)、《或る日の空想》(1916年作)、《竹取物語》(1916年作)、《琉球絵巻》(1916年作)、《山幸彦》(1917年作)、《出関老子》(1919年作)が出品される。
11月、第16回白寿会展(髙島屋)に《山人欠伸》《山僧微笑》を出品する。
―― この頃、再三の肺炎で体力を失う。
1964(昭和39)年 82歳 1月、「平櫛田中・熊谷守一・小杉放菴 三合会展」(大阪なんば髙島屋美術部画廊)を開催。《天狗の舞》《蛙》《寒山拾得》《惟然坊》(以上日本画)、書2点を出品する。 ※現在、《天狗の舞》は日登美美術館蔵
4月9日、孫の小杉正太郎が結婚する。
4月16日、午後7時23分、老衰により安明荘で死去する。遺言により、法名は「放菴居士」。
4月18日、赤倉の自宅で密葬。
4月21日、小杉に従四位の叙位叙勲が贈られることが、政府の閣議決定となる。
4月26日、龍雲院(文京区白山前町)で春陽会葬が行われる(葬儀委員長は石井鶴三)。同寺は公田連太郎がかつて住んでいたことがあり、早世した小杉の三男・三郎の墓があった。中川一政が告別歌《なみよろふ 山の彼方にみてかなし かすみたなびく妙高の山》を詠む。
11月、小杉放菴画伯スケッチ展(主催:高田文化協会、会場:新潟県市立高田図書館)が開催される。遺族から借用された、妙高風景などを描いた小杉のスケッチ20点のほか、小杉と親しい人物の愛蔵品25点が出品される。
11月15日、日光市所野の小杉家墓地で埋骨式。式にはハル夫人、長男の一雄、二男の二郎ら遺族親類のほか、佐々木日光市長、喜田川日光二荒山神社宮司ら生前から親交のあった知人友人約30人が出席。墓碑は遺言により三男・三郎の墓碑と同じ形のもの。墓所入口には、春日山林泉寺(上越市)にある笠塔婆を写したものが建てられた。
1968(昭和43)年 9月1日、小杉ハルが安明荘で亡くなる。
小杉放菴

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文献目録

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他館所蔵の小杉放菴作品

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