概要紹介

 二社一寺(東照宮・輪王寺・二荒山神社)を中心とした由緒ある文化財の集積地である日光市山内……。
 世界遺産に隣接する、この山内の地において、足下で大谷川と稲荷川が合流し、神橋の赤い欄干を望むことができる高台に、小杉放菴記念日光美術館はあります。

神橋を望む

 小杉放菴記念日光美術館では、「自然へのいつくしみ」を基本テーマに、日光市の名誉市民である画家・小杉放菴の画業を御紹介するとともに、この画家を育んだ近代の日光における、さまざまな文化的事象について考察することも目標としています。
 なお、小杉放菴記念日光美術館は、「日光市立美術館」として、旧・日光市により建設されました。開館の当初から、「財団法人 小杉放菴記念日光美術館」が管理運営を受託しており、指定管理者制度の導入後も、引き続いて管理運営を代行しています。

 2013(平成25)年4月1日、「財団法人 小杉放菴記念日光美術館」は、特例民法法人から移行認定され、「公益財団法人 小杉放菴記念日光美術館」となりました。

建物と庭園と立地

 小杉放菴記念日光美術館は、比較的に小規模な美術館ですが、建築には設計会社によるさまざまな意匠上の工夫が凝らされおり、また、それを実現するために施工会社が新しい技術を開発するなど、当時の担当者が総力を挙げて取り組みました。ここでは、建物内の各施設と外構の特色について、写真や図面により御案内します。

小杉放菴について

 小杉放菴は本名を国太郎といい、1881(明治14)年に日光で生まれました。日光在住の洋画家・五百城文哉に学んだのち、上京して小山正太郎の不同舎に入塾。未醒と号して、主に太平洋画会展で活躍し、文展でも2度にわたって最高賞を受賞します。
 その間、漫画家や挿絵画家としても頭角をあらわし、美術雑誌『方寸』などの編集に参加。のちには、横山大観と親しくなったことから、再興日本美術院にも、当初から同人として加わり、洋画部を主宰しました。院展の洋画部は第7回展で解散したため、未醒らは新たに春陽会を結成しますが、それからも、親しい友人であった山本鼎の農民芸術運動に協力するなど、その芸術活動にはたいへん幅広いものがあります。また、かなり早い時期からテニスや野球を楽しんでいたスポーツマンとしても知られており、国木田独歩や芥川龍之介といった作家や、その周辺の学者、思想家、財界人たちとの親密な交友関係もありました。

小杉放菴

 大正末から昭和初頭にかけての時期に、雅号を放庵(のちに放菴)と改めて、次第に水墨と淡彩による表現への関心を深め、日本画の世界においても、独自の枯淡な境地を創造しますが、晩年は新潟県赤倉の山荘に住んで、仙人になったと評される生活を送り、1964(昭和39)年に没しました。
 代表作には、東京大学・安田講堂の壁画や《水郷》《山幸彦》《奥の細道画冊》などがあり、それらの作品に現われた自然への優しく確かな眼差しは、幼い頃に過した日光の風土に対する回想が基調になっているとされています。日光市名誉市民。